フィルムアート社は会社創立の1968年に雑誌『季刊フィルム』を刊行して以降、この50年間で540点を超える書籍(や雑誌)を世に送り出してきました。フィルムアート社の本と読者をつないでくださっている全国の目利きの書店員さんに、オススメのフィルムアート社の本を紹介していただく本連載。今回は紀伊國屋書店クアラルンプール店の矢田諭さんにオススメ本を紹介していただきました。
「沈黙の帳」のその先へ
~『ヒトはなぜ絵を描くのか』という問いからはじまる芸術の源泉をたどる旅~
中原佑介=編著
A5判|224頁|定価: 2400円+税|978-4-8459-0122-7
「フィルムアート社の本は面陳や平積みで長く売れるタイトルが多いから、在庫切らさないように気をつけて」
芸術書売場に配属されたのは10年以上前のこと。そう先輩から引き継ぎを受けたわたしの胸ポケットには、しばしば発注用にフィルムアート社のスリップが入っていました。映像、脚本、演劇、美術、音楽などの創作とその周辺に携わる人にとって指針となる入門書、実践書の数々に、棚担当としては大事な稼ぎ頭として親しみを感じていたものですが、しかし、個人的には「これはプロの人が読むもの」と決めてかかり、当時それらを読むことはめったにありませんでした。
その頃に本書に出会い、「これなら素人でも読めるかも」と手にとったのですが、果たしてこの出会いは「難しそう」と敬遠していた芸術書との距離がぐっと縮まるような、スリリングな読書体験を与えてくれました。
タイトルどおり「ヒトはなぜ絵を描くのか」という問いを出発点に、著者が洞窟画をめぐって対談と考察を重ねます。しかし当然ながら何万年も前の人類については決定的な物証が少ないので、わからない部分を想像力で補いながら考察が跳躍し、仮説がさらなる仮説を呼び込んで新たなる問いが生まれてゆきます。問いが膨らんでゆくにまかせて美術家のみならず、サル学、音響学、文化人類学、宗教学、脳科学など様々な分野の専門家が召喚されてはそれぞれの知見が披露され、議論が白熱するほどにますますわからないことが増えていく。疑問が深まるほどに、苦しみより喜びを感じているような著者に思わず共感してしまいます。(「わかりませんな」を連発してイケズしながらも、鋭い考察を繰り出してくる梅棹忠夫さんとの対談は声を出して笑ってしまいました。)
古代の人類をめぐる想像力は時間を越え、また空間を越えて、古代ヨーロッパの洞窟からギリシア・ローマの野外劇場へ、ニューヨークのグラフィティ・アートへ、イースター島のロンゴロンゴ文字へ、モンドリアンやポロックの抽象画へ、跳躍をするたびに人間の文化・芸術の根元へと迫る問いを読者に提示してくるようです。
ベストセラーとなった『サピエンス全史』で著者のユヴァル・ノア・ハラリさんは、古代の人類については「沈黙の帳」が覆い隠しており永遠に知りようがない、と表現しました。その上で「それでもなお、答えが得られないような問いを発することは不可欠だ。そうしなければ、『当時の人々は重要なことは何もしなかった』などという言い訳をして、人類史七万年のうちの六万年を切り捨てる誘惑に駆られかねない」と喝破しています。
本書は「わからない」を切り捨てることなく丹念に拾い、想像力を駆使して「不可欠な問い」に挑戦した記録です。そして、その問いと想像力こそが芸術が生まれ出てくる源泉なのだ、という気づきを与えてくれます。これからも芸術書の棚で長く売り続け、たくさんの読者に出会ってほしい一冊です。
追記
本稿を書き終えてすぐ、世界最古の洞窟壁画のニュースを見ました。「沈黙の帳」がまた一枚開かれたようで、本書で開かれた問いがまた深まったと感じます。古代の人類をめぐって想像は尽きません。