先回の連載を読んでくれた方から、素雲と文子はその後どうなるのですか? と質問をいただいた。残念なことに、どうにもならないのである。文子は1926年に23歳の若さで死に、素雲は73歳まで生きて1981年に没したが、二人が接触を持ったことは一度もなかったし、長生きした素雲が文子について何か書いたこともない。
むしろ、一切の接点なく見える二人が、同じ上野で新聞を売っていたということに、私は興味を持ったのだった。それが上野という場所の面白さでもあると思ったからだ。
新潟出身の私にとっては、東京はいつも上野から始まった。だから子どものころは、上野が東京の中心だと信じていた。高校生のころ、当時流行っていた作家・森村桂の『違っているかしら』という小説を読んだら、就職活動がうまくいかない女子大生二人があてもなく山手線に乗りながらおしゃべりし、「上野などという物騒なところで降りる」と描写されたシーンがあり、えっ、上野ってそんなところなのと驚いた覚えがある。
ついでにいえば、大学に入学して間もないころ、休日に所在なくて、上野に出かけていったことがある。約40年前、当時でも十分に若者の街だった下北沢に住んでいたのに、休日のシモキタに一人でいたくなかったのだ。雨が降っていた。お金がもったいないので美術館にも動物園にも入らず、傘をさしてただ公園を歩いた。国立博物館の前の広場のあたりである。すると、私の後から歩いてきた、父親と息子らしい一組の話し声が聞こえてきた。
「なあ、ここだけでも、こんなにいっぱい女がいるんだからな」
父親と思われる人がそう言って、答えは聞こえなかった。息子の方は、せいぜい高校一年生ぐらいだったと思う。いや、あの二人が父親と息子だった証拠などないのだが。
二人とも大きな傘をさしていた覚えがあり、私を追い越しざまにそんな一言が聞こえたのを、いつまでも覚えていた。その後もずっと、この会話は上野でないと成立しにくいように感じていた。あれが新宿でも、銀座でも、また浅草でも、ちょっと違ってしまう。頭上に空が広がる上野公園、さまざまな地方から来たさまざまな階層の人々がごちゃごちゃになって、仕事のためにではなく、歩いているそこ。
今よりもグッと狭かった戦前の東京。その中でも江戸の名残りを十分に持った上野の町には、植民地からやってきた13歳の少年と、大人の都合で植民地に捨てられたり、戻されたりした17歳の少女を抱きとめてくれる懐があった。二人とも、「何するものぞ」という気概を持っていたけれど、明日がどう明けてどう暮れるかも見当がつかない、一文なし、後ろ盾なし、けれども一切の遠慮なし、転ぶも死ぬも自由な若者だった。
彼らが上野で新聞を売っていたころからほどなく、1923年9月1日、関東大震災が発生する。翌日に戒厳令施行。この日から朝鮮人・社会主義者が放火を行なっているなどのデマが飛び交いはじめた。
文子はそのころ、朝鮮人アナキストの朴烈と同志的結婚をして、現在の渋谷区富ヶ谷の借家に住んでいた。9月3日、二人は世田谷警察署に連行される。逮捕理由は存在せず、<保護>という名目の検束だった。大杉栄・伊藤野枝が連行されるより2週間ほども早い。当時彼らは「不逞社」という結社で活動を行なっていたが、そのメンバーや関係者も次々に検束された。
不逞社は、アナキズムを紹介することを主目的とする結社で、雑誌を発行したり講演会を開いていた。また、新潟県の発電所建設現場で朝鮮人労働者が虐殺された事件に関して、現地調査を行ったこともある。朴烈と金子文子はやがて、皇太子暗殺を目論んだ罪で起訴され、1926年に死刑判決を受ける。だが、わずか10日ほど後の4月5日に恩赦によって無期懲役に減刑された。
死刑が恩赦になったのに、それから3か月余り後の7月23日ごろ、文子は死んだ。先回の連載で「自殺した」と書いたが、実は、その明確な証拠はない。また、それが正確に何日だったのかも、よくわかっていない。栃木刑務所は初め彼女の死を公表せず、後になって縊死による自殺、遺書はないと発表した。だが弁護士の布施辰治や同志たちは疑問を持ち、刑務所側と交渉し、すでに埋葬されて一週間ほど経っていたと思われる遺体を掘り出し、医師が調べたが、正確な死因はわからなかった。
文子の遺骨は朝鮮の朴烈の故郷に送られ、埋葬された。
一方、朴烈は1945年まで獄中で生き延び、在日本大韓民国民団の初代団長を勤めた後帰国したが、朝鮮戦争の際に北朝鮮に連行され、1974年に死亡した。北で重責を担っていたが、粛清されたともいわれている。
先回も引用した『何が私をこうさせたか』は、朴烈・金子文子の裁判を担当した予審判事の依頼によって書かれた記録をもとにしている。それが本人の強い希望によって本になり、春秋社から1931年に出版された。強い希望というのは、「世の親たち、そして社会をよくしようとしておられる教育家、政治家、社会思想家にもこれを読んでもらいたい」という願いだった。
この本を読むたびに目が惹きつけられてしまうのは、冒頭に置かれた「添削されるについての私の希望」という、メモのような文章である。次のようなものだ。
一、記録外の場面においては、かなり技巧が用いてある。前後との関係などで。しかし、記録の方は皆事実に立っている。そして事実である処に生命を求めたい。だから、どこまでも『事実の記録』として見、扱って欲しい。
一、文体については、あくまでも単純に、率直に、そして、しゃちこ張らせぬようなるべく砕いて欲しい。
一、ある特殊な場合を除く外は、余り美しい詩的な文句を用いたり、あくどい技巧を弄したり廻り遠い形容詞を冠せたりすることを、出来るだけ避けて欲しい。
一、文体の方に重きを置いて、文法などには余りこだわらぬようにして欲しい。
これは、編集を担当した同志の栗原一男に送られた、いわば事務連絡だ。栗原の考えで本に収録されたのだろう。彼の判断によってこの短いメモが後世に残されたことは、本当にありがたいことだったと思う。
このメモを書いたときの文子はおそらく23歳。生涯に、この一冊しか書き物を残さなかった人だ。また、苦学と労働と運動で、机の前に長く座っていることなど許されなかった人だ。だが、なんて賢いのだろう。なんてキビキビした頭脳を持っていたのだろう。彼女は自分に確かな文体があることを知っていたし、それを読む人たちのことも想定していた。つまり、自分をどう役立てることができるかを知っていたのである。
「社会主義は私に、別に何らの新しいものを与えなかった。それはただ、私の今までの境遇から得た私の感情に、その感情の正しいということの理論を与えてくれただけのことであった」
この一文にも、「文体に重きを置いて、文法などには余りこだわらぬように」という文子の意図が現れていると思う。
同じころ、文子は獄中で短歌を書いていた。栗原に当てたこんな手紙がある。
「少し歌作の稽古でもしようかしら? すまんがね、たしか新潮社版で『啄木選集』てのがある。探してなかったら、一つ買って下さるまいか。マニー私にある。用語や色彩において、あの人のが好きだ。真似るなら、あの人のを真似たい」
「マニー」とはマネー、お金のこと。
この手紙にも、とりつくろわない、何かぎっしりと身の詰まった、文子の人柄を感じる。そして彼女は、確かに啄木のような三行分けのスタイルで短歌を書き始める。
その中でも私は、例えばこんなのが好きだ。
どこやらの大学生と議論した
夢見て覚めぬ
獄の真夜中
これを読むと、文子の若さに胸をつかれる。二十代のときに理屈っぽいサークル活動をやったことのある人なら想像がつくのではないだろうか。寝入りばなに、かみ合わなかった論議の端々や、取り消したい失言、考えがまとまらず黙っていた悔しさが急に思い出されてドッと汗をかくような、生々しさ。
金子文子の手記の中で、最も印象深いのは朴烈との出会いだ。彼女には、上野の新聞店で働いているころから男性との出会いが複数あったが、要はロクな目にあっていない。なんとなく関係ができてしまった男に「子どもができたらどうするの」と訊くと「そんなこと知らないよ」と言われてしまったり、朝鮮人の学生に告白されてつきあったが、「そのうちに下宿を出て二人で家を借りよう」と言われたので期待していたのに、「次はドイツに留学するから」といわれておしまいだったり。
若さとバカさがこんがらがった、女にとっては一文の得にもならない、自尊心が損なわれるだけの疑似恋愛の舞台として、上野公園界隈がたびたび登場する。
そんなこんなを重ねた末に、彼女は朴烈に出会う。それはまず本人ではなく、彼が書いた作品との出会いだった。知り合いの朝鮮人留学生たちが作っていた雑誌の校正刷りに載っていた、一つの詩を彼女は読んだ。
私は犬コロでございます
空を見てほえる
月を見てほえる
しがない私は犬コロでございます
位の高い両班の股から
熱いものがこぼれ落ちて私の体を濡らせば
私は彼の足に勢いよく熱い小便を垂れる
私は犬コロでございます
「犬コロ」というこの作品に文子は強く惹きつけられた。「この詩のどこがいいですか」と尋ねられた彼女は、「どこがってこたあない。全体がいい。いいと言うんじゃない。ただ力強いんです。私は今、長い間自分の探していたものをこの詩の中に見出したような気がします」と、興奮して答えた。
唐突だが、私はここで、1968年に連続ピストル射殺事件を起こし、97年に死刑を執行された永山則夫の元妻、和美氏を思い出した。
彼女は沖縄人の母とフィリピン人の父の間に生まれたが、父が一人で帰国したため母が役所に出生届を出さず、戸籍がないまま成長した。このことは金子文子とぴったり重なる。
のちに母がアメリカ人と再婚したため、養子縁組をして教育も受けたが、悩みは深く、自殺未遂も経験している。そんな彼女は、飛行機の中でたまたま隣の席の人が永山の獄中手記『無知の涙』を読んでいたことから、初めてその存在を知った。とくに、そこに収められた詩「ミミズの歌」を見て、「この人は、私の心をわかるよね」と思ったのだそうだ。
目ない 足ない おまえ ミミズ
暗たん人生に
何の為生きるの
頭どこ 口どこ おまえ ミミズ
話せるものなら
声にして出さんか
心ない 涙ない おまえ ミミズ
悲しいのなら鳴いてみろ
苦しいのなら死んでみろ
ちなみにこの詩は、高田渡が曲をつけて歌っている。
永山と文通を始めた彼女はまもなく、知り合いが一人もいない東京へ来てしまう。そして、アルバイトをしながら面会に通う生活に入る。永山則夫もまた、貧しさに加えて、親から愛された実感なく育ち、人間不信の積み重ねから偶発的な殺人に及んでしまった人物だった。
やがて二人は獄中結婚し、和美氏は積極的に彼の裁判や創作活動を助けるが、それらは同情から始まった行為ではなかった。まず最初に彼女の方から、理解者として永山を求めたのである。これは金子文子と朴烈のケースによく似ているように思う。
「犬コロ」と「ミミズ」。自分をつまらない生き物にたとえた詩に、大人の都合で振り回されて辛い子ども時代を過ごした女性が、惹かれていく。
文子の動きも、和美氏と同じくとても素早かった。雑誌を主宰していた人たちに「朴と交際したいから会わしてくれ」と言いおくと、1ヶ月ほども経ったあと、彼女が勤めていたおでん屋へ朴がふらっと尋ねてきた。それまでに文子は偶然、朴の風体を見かけたことがあった。一文なしなのに妙に王者のように堂々としていると思ったそうだ。
二人は翌日、文子が通っていた正則英語学校の前で待ち合わせ、神保町まで一緒に歩く。そして大きな中華料理屋に入ると、文子は、思い切って彼に言った。
「私はあなたのうちに私の求めているものを見出しているんです。あなたと一緒に仕事ができたらと思います」
「一緒に仕事をしたい」これが文子の求愛だった。
彼女は、自分一人が苦学をして成功しようとすることに意味を見出せなくなっていた。自分には、苦学以外に何かしなければならないことがある。彼女には社会というものがわかりかけていた。自分のような貧乏人は勉強もできず偉くもなれない理由がわかってきた。富めるものがますます富み、権力あるものが何でもできる。だから、社会主義が説くところも正当な理由がある。しかし社会に変革が起きても、それはまた別の権力がとってかわるだけである。民衆は果たして何を得るだろうか。
当時の文子の結論はこうだった。「たとい私たちが社会に理想を持てないとしても、私たち自身には私たち自身の真の仕事というものがあり得ると考えた。それが成就しようとしまいと私たちの関したことではない。私たちはただこれが真の仕事だと思うことをすればよい」
朴烈はそれを受け入れた。
「僕が反感をもっているのは日本の権力階級です、一般民衆ではありません。殊にあなたのように何ら偏見をもたない人に対してはむしろ親しみをさえ感じます」
朴烈は慶尚北道の田舎に生まれ、家運が傾いて経済的に苦しい中、高等普通学校で学んだ。3・1独立運動に参加したが、独立しても支配者が変わるだけで、民衆の苦しむことは同じだと考え、アナキズムに傾倒していった。17歳のときに東京へ来て以来、非常に苦労しながら自分の生活と運動を作り上げてきた彼は、定宿を持たず友人の家を転々とする生活だった。
文子の母がのちに語ったところによると、朴烈と一緒に暮らしているとき、文子はまるで女らしくなかったそうだ。当時二人は朝鮮人参のエキスや粉末を売って生計を立てていたが、文子は「断髪で、朝鮮服を着て、男用の鞄を下げて、ほとんど一日中何箇所かを歩き回っては、朝鮮人参の行商をやり、傍ら雑誌を出していたようでした」と言う。
そのときに使っていたチラシの写真が残っている。キャッチコピーは「資本家も労働者も政治家も 飲め飲め此の奇効ある朝鮮人参を」。下の方には「発売元・朝鮮人参商 朴文子」という名前が大きな活字で印刷されている。当時彼らは法律による婚姻はしていないのだが、「朴文子」としっかり書いてあることには強い意志が感じられる。
「朝鮮服」というのは男性用の衣服だろうか。粗末なものでもチマチョゴリを着ていたら、母親が「男のようだった」とは言わなかったのでは? と思う。
朴烈・金子文子は、爆弾を用意して皇太子殺害を目論んだということになっている。しかし、裁判で本人たちが語った計画は、具体性を欠いている。確かに爆弾を入手しようとしたことは事実で、二人はそれを「皇太子暗殺のため」と明言した。しかし実際には爆弾は手違いで手に入らなかったし、どちらかというと裁判で天皇制を批判し、記録させることの方が大事だったように思える。
「朝鮮民族は決して日化されていない、また日本政府が宣伝するほど日鮮人は融和されていない……奴隷たることを少しでも欲していない」。朴烈は裁判でそう語った。そのことを世界に示すには、皇太子への爆弾テロが最も良い機会であると。
二人は朝鮮の伝統的衣装を着て法廷に立ち、朴烈は朝鮮語で人定質問に答えた。
裁判の過程では、朴烈と金子文子の意思疎通がうまくいっていなかった部分が現れてきた。朴烈は朝鮮のある人物に頼んで爆弾を入手しようとしたが、結果として失敗した。そしてこの経過のある部分が、文子には知らされていなかった。客観的には、罪とされる核心部分に、文子は無関係である。
彼女ももちろん天皇制反対の思想を持っていた。「人間は人間として、平等であらねばなりません。……天皇や皇室自身としても、動きのひどい民衆の心持の上に乗っかっているのは危ないことではあるまいか、それよりは、人間としての平等感に引き下がり、天皇などというて、自然的な平等の人間を人為的な不平等物としていることをやめさせた方がいいと思う」と尋問調書の中で言っている。しかし爆弾入手に限っては、無関係であり、罪をかぶるのは犠牲になることであった。
文子はそのことで相当に悩んだらしい。だが結果として、自分だけ助かろうとはしなかった。といって、朴烈に殉じたというのでもなかった。いや、外から見れば殉じたに近いのだが、あくまで自分の意志でそれを選ぶのだと、明らかにしている。なぜなら自分も、「大逆の名を持って呼ばるべき思想」を持っているからである、と。
「私は朴を知っている。朴を愛している。彼におけるすべての過失とすべての欠点とを越えて、私は朴を愛する。私は今、朴が私の上に及ぼした過誤のすべてを無条件で認める」とした上で、「どうか二人を一緒にギロチンに放り上げてくれ」と結んだ。
1945年に朴烈が、大歓迎のうちに出獄したとき、弁護士の布施辰治は歓迎会の挨拶で金子文子に触れた。「文子さんの死は、真に女性の純情を実践したもので、死んでいった文子さんもえらかったと思う。よく死んでくれたと思う。日鮮一体の国境を越えた同志愛を華々しくも実践した日本女性の典型として、朴烈君にも賞めてもらいたいが、在日朝鮮同胞の満場諸君にも賞めてもらいたい」。
文子が亡くなって20年も経った後で、思い出がセンチメンタルに潤色されてしまうのもわからないではない。だが社会活動家として有名な布施弁護士にしても、こんなことを言ってしまうのか。しかも布施弁護士はこれでは足りなかったようで、「文子可愛や/文子は死んだ/死んだ心が/なお可愛い/可愛い心を/抱いて寝よ」という小唄まで作り、朴烈もこれをたいへん喜んでくれたと書いているから、なお困ってしまう。
しかし文子の意図は「可愛さ」などは越えていた。同志として固く結びついた男女の間柄にも「えっ」というような齟齬の一瞬はあるのであって、そこに万感の思いが凝縮する状況はありうる。それでもなお一人で考え抜いたあげく、「私はこうする」と決める。
文子のいちばんかっこいいのはそこなのだが、するとなおさら、彼女の自殺が疑問に思えてならない。
わからないことはたくさんある。それらが残されたままで、『何が私をこうさせたか』は読み継がれている。このタイトルは、1927年に流行した藤森成吉の小説『何が彼女をこうさせたか』のパクリなのだが、本家よりも文子の本の方が、ずっと長生きした。
短かった彼女の生涯は、自前の考えを持つためのがむしゃらなもがきの時間だった。布施辰治弁護士は「女性の純情を実践した」と言うけれど、むしろ文子は自分の思考を精錬していくために、朴烈という朝鮮男性をとことん、使い倒し、咀嚼して、この一冊が残ったのかもしれないと思う。
去年韓国では『朴烈――植民地のアナキスト』という映画が公開されてかなりの人気を呼んだ。文子役を演じた女優さんの演技が素晴らしかったそうだ。日本でも一度映画祭で上映された。本格的な公開は難しいのかもしれないが、見る機会があることを楽しみにしている。
(続く)