フィルムアート社は会社創立の1968年に雑誌『季刊フィルム』を刊行して以降、この50年間で540点を超える書籍(や雑誌)を世に送り出してきました。それらどの書籍も、唐突にポンっとこの世に現れたわけではもちろんありません。著者や訳者や編者の方々による膨大な思考と試行の格闘を経て、ようやくひとつの物質として、書店に、皆様の部屋の本棚に、その手のひらに収まっているのです。
本連載では幅広く本をつくることに携わる、フィルムアート社とゆかりの深い人々に、自著・他著問わずフィルムアート社から刊行された書籍について、それにまつわる様々な回想や追想を記していただきます。第11回目は、映画史研究者の岩本憲児さんにご寄稿いただきました。
フィルムアート社から翻訳のイロハを教わった
私は若いころ、ジークフリート・クラカウアーの「映画の理論」(Theory of Film, 1960)から強く影響を受けており、この翻訳を出したいと、試訳中の原稿を抱えていたことがある。その折、知り合った久保覚さんからフィルムアート社の奈良義已さんを紹介してもらった。奈良さんに会って私の希望を伝えると、奈良さんは逆に、まずこれを先にやってもらえないだろうかと手元の英語の本を私に差し出した。それはピーター・ウォーレンの『映画における記号と意味』(改訂三版1973)だった。かくて同書が私の初の翻訳本(1975)となった。編集担当者は池上顕さん。諸外国語に詳しいばかりでなく、日本語にも気を配り、原書には一切なかった注を、日本人読者のために必要ではないかと、しるしを付けては私へ渡し、付けた訳注は308。まだコンピューター時代とは言えず、すべてを紙媒体で調べていく厄介な作業で、翻訳のイロハを池上さんから徹底的に教わった。決して厳しく迫る人ではなく、ていねいに、穏やかに、しかしねちっこく、説得的に迫ってくる人だった。
当時は「構造主義」の流れがフランスから日本に寄せ始めていたころでもあり、言語学を基盤に映画の構造分析をするクリスチャン・メッツの方法は新鮮だった。だが私はピーター・ウォーレンの著書に親しみを感じた。エイゼンシュテイン美学の再検討、作家理論、映画の記号学などの各章では、歴史やジャンルを超えて多くの映画や芸術、フォークアートなどへの言及がなされていたからだ。訳本の巻末には既刊書の広告が掲載され、『メカスの映画日記』『アメリカの実験映画』『写真と芸術』など訳書や、滝口修造ほか『私の映画遍歴』、ほしのあきら『フィルム・メーキング』、寺山修司『田園に死す』があった。これらはフィルムアート社草創期の出版物だったが、『季刊フィルム』という雑誌が会社創立のきっかけだったから、単行本出版はそのあとになる。残念なことに、池上さんと久保さんは早く亡くなり、近年まで元気だった奈良さんも鬼籍に入ってしまった。池上さんのあと、一緒に仕事をした編集担当者の方々にもお礼を言いたい。
まだ手書き原稿やワープロの作業だった
以後、訳書ではフェリーニの『私は映画だ 夢と回想』、監訳ではモナコの『映画の教科書』ほか、編著では『エイゼンシュテイン解読』『フェリーニを読む』など、フィルムアート社との関係が続き、あるときは雑誌『芸術倶楽部』の「特集ロシア・アヴァンギャルド芸術」(1974.1-2)にも訳者で参加した。これはロシア・アヴァンギャルド研究会全員が協力した号で、日本における同芸術紹介の先駆的雑誌だった。フィルムアート社は創立20周年を記念して『「フィルム」スペシャル‘89』(1989.6)という『季刊イルム』の特別号を出した。この前年、私は大学から研究休暇をもらってパリに滞在、そこを起点にいくつかの国や都市を移動していた。「スペシャル‘89」には「パリ‐ロンドン映画往来」を書き、その前後に、『イメージ・フォーラム』誌(1988.9)へは「ポーランド映画の異端児 クルリキエヴィチ」を、『早稲田文学』(1988.10)へは「解禁されたソ連映画」を送った。まだ手書き原稿の時代である。ちょうど、ソ連でグラスノスチ(情報公開)やペレストロイカ(改革)の動きが活発化していた時期でもあり、ヨーロッパにいた私はひしひしとその動きを感じて、映画のみならず舞台芸術や美術展にもせっせと足を運んだ。
『映画理論集成』全3巻、そのあとにうっかりミス
『映画理論集成』(1982)にもエネルギーと時間を集中して取り組んだ。編者が二人になっているのは、たぶん、私一人ではと心配した奈良さんが年長の波多野哲郎さんを付けたのだと思う。のちには『新映画理論集成』①②(1998-99)も編纂、これはさすがに一人では荷が重く、武田潔、斉藤綾子の両氏に協力してもらった。外国の論文が多く、訳文には神経を使うので、この種の「編纂もの」はもう終わりにしようと心に決めていたら、今度は『日本戦前映画論集 映画理論の再発見』を手掛けることになった。これはアーロン・ジェロー、マーク・ノーネスに私が協力者として加わった、他社からの出版(ゆまに書房、2018.11)である。
その後の訳書では『フォトモンタージュ 操作と創造 ダダ、構成主義、シュルレアリスムの図像』(2000)の際に、フィルムアート社へ迷惑をかけたことがある。それは原著者の人名表記を間違ったからである。イギリス人の著者Dawn Ades 、この人は「ドーン・アデス」が正しい発音に近いことがあとでわかった。私は「ドーン・エイズ」と記してしまった。間違ったきっかけは、ロンドンで著者に会うアポを取ろうと電話したとき、「プロフェッサー ドーン・エイズ?」と言う私の呼びかけに、 先方の電話の主はわずかに間をおいて「イエス」と応えたからだった。電話のあと、せっかく当人に会ったのに、その場で名前の読みを確認しなかった失敗である。現在では同社のウェブサイト上の目録に「ドーン・エイズ(アデス)」と補ってもらっている。この本の内容は私の関心領域とも密接につながっていたので、翻訳作業自体は楽しくやれたのだが、最後の小さな詰めの甘さが残念でならない。
理論から歴史へ
若いころの関心は映画理論、映画の記号学、エイゼンシュテイン、フェリーニ、ロシア・アヴァンギャルドなどにあり、フィルムアート社との関りもこの線上にあった。その後は映画史、初期映画、とりわけ日本映画史、戦前映画史、その言説などに関心が移り、他社での出版が多くなった。とともに、海外の理論や研究動向を追うことから離れ、過去の映画論に注目するようになった。現在のフィルムアート社は変貌を続け、対象領域を広げて、芸術全般、いやそれすらも超えているようだ。いま同社のキャッチコピーは「ジャンルの越境」である。現在から未来へと対象を拡大し動き続けるフィルムアート社。刊行物での若い世代の活躍には目を見張らされるばかりだ。かたや体力も視力も衰えた私は過去の領域へ入りこんでいる。とはいえ、私は映画史の大河と支流の中を進み続けているのだと、そう思いたい。漂っているだけかもしれないが……。そういえば、最初の単著は『シネマランド漂流』(早稲田大学出版部、1985)だった。あ、そこでは映画とパフォーマンス、サーカス、オペラなどとの関係も論じていた。自分なりに越境していたのだ!
映画理論集成[新装版]──古典理論から記号学の成立へ
岩本憲児・波多野哲朗=編
A5版・上製|460頁|本体5,800+税|ISBN 978-4-8459-8242-4