[二月十六日]火曜日
ジュネが小説をもって来た。信じがたいすばらしさの三百ページ。《男娼たち[タント]》の神話のあらゆるドラマを創造している。当初の感じでは、こうした主題は取っ付きにくいと思われた(今朝彼にクギを刺しておいた)。次に、ぼくの軽率さを彼に侘びたくなっていた。この小説は恐らく彼の詩よりさらに驚嘆すべきもの。あまりの斬新さが却って真価を分かりにくくしているのだ。これは立派な一つの世界であり、これと並ぶと、プルーストの世界はディディエ=プジェの絵に似てしまう。ごく細部の線でさえピカソの難解な文字[グリモワール]のように燦然と輝いている。猥褻な花、喜劇的な花、悲劇的な花、夜の花、田園の花、薔薇の雪崩、それらが至るところに迸りでている。だがどうすればいいのか? だれでもこの本を手に入れ、広く撒き散らしたくなる。とは言え、それは不可能だ。だが、その不可能なところがとても良い。人を盲目にしてしまう純粋さ、容認しがたい純粋さの見本のようなもの。出せば必ず一騒動あるはず。真物の騒動[スキャンダル]だ。目下その騒動がぼくの家で、この本とともに自然に静かに炸裂している。ジュネは警察から負われている窃盗犯。彼が姿を消し、彼の作品が破壊されなければ、皆は安心できない。密かに数部ずつ出版していくことになるだろう。
ジャン・コクトー『占領下日記 Ⅱ』(秋山和夫訳、筑摩書房、一九九三)
(引用者注:『占領下日記』には夥しい原注があるが、連載ではすべて省略している)
ジャン・コクトーは十代の私の偶像のひとりだった。十五歳だった一九九五年に開かれた「ジャン・コクトーの世界」展に合わせ、日本でのコクトー再評価は盛り上がりを見せていた。コクトーが製作に関与した映画のほとんどが、この頃ソフト化されるか、ミニシアターで再上映された。渋谷ユーロスペースで上映された『オルフェの遺言――私に何故と問い給うな――』に胸を踊らせた時のことは忘れ難い。コクトーはその映画で監督・脚本を手掛けただけではなく、自ら主演していた。
『ジャン・コクトー全集』はまだ新刊で手に入り、コクトー展の前後には小説の代表作『山師トマ』、『白書』、『恐るべき子供たち』、エッセイの『阿片』や自伝『ぼく自身あるいは困難な存在』が改版、あるいは新訳で単行本化・文庫化され、小さな書店にも並んでいたのをよく憶えている。ジャン=ジャック・キム、アンリ・C.ベアール、エリザベス・スプリッジの三人による大著『評伝ジャン・コクトー』(秋山和夫訳、筑摩書房、一九九五)もこの時に邦訳された。私は日本でコクトーが持て囃されていた何度目かの時期に十代を過ごしていた。
母が在日フランス大使館に勤務しており、私自身も小学校からフランス語の授業がある暁星学園に通っていたこともあって、フランスは身近な国だった。職員の家族は大使館に出入りできた。フランス人やフランス系日本人の幼馴染たちと大使公邸の広大な芝生の庭を走り回り、植物が生い茂る小さな半島が隅にあるプールで夏休みは泳いだ。今思うと治外法権の場所で遊んでいたわけだが、それが日常だった。具体的な回想をあれこれ綴ることは差し控えるが、少年だった私の目に映った二〇世紀のフランスは日本と比較にならないほどの階級社会・学歴社会だった。社交を重んじる国で最も物を言うのは、これから語るとおりコクトーがジュネの著作を送り出す際に惜しげもなく用いた武器、コネクションに他ならない。
環境のお陰でフランス文学を読むようになったのは自然なことで、コクトーにもすぐ夢中になった。十四歳までに全集を読破してしまい、コクトーが見出したジャン・ジュネに興味が移り、その後は英米文学を読むようになる。既に中学校ではフランス語を第二外国語に回し、英語を第一外国語として選択していた。母や教師に強制的に教えられたフランス語にうんざりしたからだ。今では小学校から高校まで仕込まれたフランス語も完全に錆びついている。暁星学園で催事がある度に生徒全員で合唱する『ラ・マルセイエーズ』をそらで歌えるくらいのものだ。
今でもジュネの著作は読み返す度に驚きがあるが、コクトーに関してはそれまでの傾倒が嘘のように、十六歳前後からほとんど再読しなくなった。地味だが陰影に富む自伝的小説『大股びらき』とコクトー版『とりかえばや物語』とでも言うべき短編小説「マルセーユの幻影」を時折手に取るくらいだった。
プルーストやジュネを読んでしまった後ではコクトーは霞んでしまう。コクトーは手掛けた詩、小説、戯曲、映画、絵画といったあらゆるジャンルで才気縦横の作品を生み出しており、その平均点の高さは驚異だ。しかし、アメリカきっての読み巧者エドマンド・ホワイトが、『ジュネ伝』(鵜飼哲、根岸徹郎、荒木敦訳、河出書房新社、二〇〇三)で「コクトーは下手な文章は一行たりとも書かなかったが、素晴らしい本を一冊書き上げることもない天才だった。彼はまず何よりも一個の個性であり、感性であり、一つの存在だった」と評したのは正鵠を射ている。万能の才人であろうと、いずれかの分野でたったひとつでも飛び抜けた作品がなければ、器用貧乏に過ぎない。
それ故、コクトーを読み返すのは躊躇してきた。十代の頃に敬愛していた詩人に幻滅するのはあまり愉快な体験ではない。今回、意を決して二十年越しに全集と『占領下日記』を再読してみたところ、それがまったくの杞憂に終わって安堵している。コクトーの創作自体にではなく、彼の優れた紹介者としての側面には今でも感動した。
冒頭に掲げた『占領下日記』の文章をご覧になって戴きたい。一文ごとに意外性のある、隙のないスタイルで書かれた、エスプリの塊のような名文だ。ここまで明晰な作家は、ある程度の長さを持った作品を書くのには向かない。コクトーの文章は気が利き過ぎている。小説や戯曲はもちろん本業の詩もアフォリズムだらけで、印象に残る言い回しはあっても、構成は器用さだけが目立つ。この種の作家は断片の集積である評論集やエッセイ集、回想録や日記といったノンフィクションに属するものに向く。
コクトーは若い頃から卓越した批評眼を持ち、新しい才能を見抜くのに長けていた。二十四歳のコクトーは書評で刊行されたばかりのプルーストの『失われた時を求めて』の第一篇『スワン家の方へ』を絶賛している。『スワン家の方へ』は多くの出版社に刊行を断られた小説だった。ガリマール社ではアンドレ・ジッドたちが原稿をボツにした。プルーストは社交界に入り浸る軽薄なユダヤ人の俗物として甚だ軽く見られていたからだ。最終的に出版費用の半額をプルースト自ら負担して『スワン家の方へ』はようやく刊行された。コクトーはプルーストが『失われた時を求めて』を出版する前から畏敬の念を抱いていたが、プルーストが高く評価されるようになったのは『スワン家の方へ』の発表から六年後、『失われた時を求めて』の第二篇『花咲く乙女たちのかげに』でゴンクール賞を受賞してからだ。
それからも評論集『雄鶏とアルルカン』で後に「フランス六人組」と呼ばれる作曲家たちの評価に先鞭をつけ、スキャンダルで人気が低迷していた歌手のエディット・ピアフに戯曲を書いて復活させた。デザイナーのココ・シャネルとは常に協力関係にあった。後半生で手掛けた戯曲や映画のほとんどは、恋人でもあった俳優ジャン・マレーのために生み出された。優れた才能を持つ芸術家とあらゆる分野で共振し、触媒として作用するなかで、コクトーは「編集者」の仕事と言っても過言ではない、若く才能溢れる作家の発掘を最も得意とした。その手腕はコクトー自身によってノンフィクションに記録されている。
コクトーは編集者として類まれなる読解力だけではなく、スキャンダルを怖れない勇気も持ち合わせていた。まだ十代だったレイモン・ラディゲに小説『肉体の悪魔』を書かせて宣伝に奔走し、新世界賞を受賞させるために動く。第一次世界大戦中の銃後の女性と少年の不倫を描いた『肉体の悪魔』は騒動を巻き起こしたが、コクトーは怯みもせずに引き続きラディゲに遺作となる小説『ドルジェル伯の舞踏会』を書かせた。放埒な生活を送り、仕事に意欲を見せなかったラディゲに代わって、コクトーは『ドルジェル伯の舞踏会』の著者校正までしている。
呪われた作家モーリス・サックスも、学生の頃からコクトーの薫陶を受けていた。サックスは奔放な暮らしを送り、借金に苦しめられてコクトーの自宅から貴重な初版本を売り飛ばした。恩知らずの山師だったサックスをコクトーは辛抱強く見守っている。サックスはユダヤ系にもかかわらず、ナチスに秘密裏に協力し、結局ドイツに連行されて強制収容所に収監された挙げ句、銃殺された。サックスは日本ではあまり知られていない。全訳は一九二〇年代の日記の形式を用いた小説『屋根の上の牡牛の時代』しか存在せず、『すばる』二〇〇三年十一月号で詳細な評伝と作品の抄訳を含んだ「特集 モーリス・サックス――回想する放蕩児」が組まれたに過ぎないが、その作品はコクトー譲りのエスプリとジュネの登場を予感させるような毒を併せ持っている。死後刊行された代表作『魔宴(原題:Le Sabbat)』の全訳が待たれるところだ。
そして、編集者コクトーの最大の功績が、ジュネの小説『花のノートルダム』の出版だった。『占領下日記』ではその経緯が語られている。まずは日記それ自体の成立について説明しておこう。『占領下日記』はパリがドイツの手に落ちて二年が経過した一九四二年に書き始められた。コクトーと敵対していたシュルレアリズムの法王アンドレ・ブルトンはアメリカに逃れ、愛憎入り混じる関係にあったジッドもこの年、チュニスに去った。ライバルたちが次々とフランスを後にするなか、コクトーはパリに留まり続ける。
『僕自身あるいは存在の困難』という一九四七年の自伝のタイトルが示しているように、コクトーは軽薄な世渡り上手ではない。器用な作品と裏腹に彼の生き方は不器用だ。彼の前半生はピカソとサティと共作したバレエ『パラード』が引き起こしたスキャンダル、ジッドとの反目、シュルアリストたちからの攻撃、ラディゲの早すぎる死、阿片中毒と打ち続く困難の連続だったが、『占領下日記』が書かれた時代がコクトーの最も苦難に満ちた日々だったのは疑う余地がない。
戦中、コクトーはブルジョアの同性愛者だったが故に対独協力紙『ジュ・スィ・パルトゥー』に攻撃され続けていた。中傷記事の数々は『占領下日記』の巻末に付録として収録されている。一九四三年七月にはひとりでシャンゼリゼ大通りを歩いていたところを右翼の反ボルシェビキ・フランス義勇軍の隊員たちに襲撃されて、失明しかかった。その一方で、ヒトラーお抱えの彫刻家アルノ・ブレーカーや『夜ひらく』で知られる小説家ポール・モランをはじめとする対独協力者とも付き合ったため、コクトーはレジタンス側からも白眼視されていた。パリ解放二日前の一九四四年八月二十三日、ジャン・マレーと食事に向かっていたコクトーは連合国軍に属するフランス国内軍に狙撃されている。銃撃がコクトーを狙ったものなのか、流れ弾なのかはわかっていない。
苦難に彩られた『占領下日記』の筆致は陰鬱だ。全編に渡ってジッドの偏狭さへの苦言が書かれており、ポール・ヴァレリーには辛辣で、若き日に賞賛した亡きプルーストに対しても批判が散見される。恋人のジャン・マレーや、コレット、ココ・シャネル、ピカソといった友人について語る時にだけ、コクトーの文章は明るさを帯びる。
過去を振り返った文章やインタビューに顕著な、宣伝のための伝説化は『占領下日記』では見られない。例えば、パリ解放にあたって連合国軍に参加していたヘミングウェイが、コクトーを救出したという伝説がある。実際のところは、ヘミングウェイはパリに入るが否やお気に入りだったホテル・リッツのバーを「解放」して居座って飲み続け、そこにコクトーを招いたに過ぎない。コクトーは事実をそっけなく綴っている。
というのも、この日記は公表を意図していなかったからだ。『占領下日記』がコクトー生前に刊行されることはなかった。コクトーがレジスタンス側の芸術家とも対独協力した芸術家とも分け隔てなく関わっていたことから、友人のジョルジュ・オーリックとクリスチャン・ベラールは「往復の平手打ちを何発もくらうつもりか」と言って、コクトーに出版を諦めさせたという。『占領下日記』にはコクトー直筆の十二冊のノートと、複数の校閲者の手を経たタイプ原稿という二つの異本が残されており、双方とも不完全だった。編者のジャン・トゥゾーは両者を比較して直筆原稿に欠けていた部分をタイプ原稿から補い、タイプ原稿から削除された箇所を直筆原稿から復元する、という厄介な作業を行う必要があった。ようやく出版されたのはコクトー生誕百年にあたる一九八九年のことだ。
『占領下日記』にジュネは一九四三年二月五日の記述で初めて姿を現す。コクトーは若い友人ロラン・ローダンバックの推薦で、ジュネが百部のみ自費出版した十三ページしかない詩集『死刑囚』を読んだ。当時のジュネはセーヌ左岸の古本屋で店番をしながら、窃盗を繰り返すこそ泥に過ぎなかった。
時々は奇跡が起きる。例えばジャン・ジュネの『死刑囚[ル・コン・ダネ・アモール]』。僅か四部しか残っていない。他は彼がすべて破棄したのだ。この長編の詩はすばらしい。ジャン・ジュネはフレーヌ〔パリ南郊の町。監獄がある〕から出所した。(この小冊子[ブラケット]には監獄での日付が記されている。)《フレーヌ。一九四二年九月。》二十歳で殺人を犯し、一九三二年三月十二日サン=ブリュー〔ブルターニュ地方、コート=デュ=ノール県の県都〕で処刑されたモーリス・ピロルジュを讃えたエロチックな詩。ジュネのエロチスムは、けっして衝撃的なものではない。彼の猥褻性はけっして猥褻ではない。何か巨大な偉大な力が全体を支配している。最後を締めくくる散文詩は、簡潔で、不敵で、高飛車だ。完璧なスタイル。
(『占領下日記 Ⅱ』)
「ジュネのエロチスムは、けっして衝撃的なものではない」というコクトーの指摘は重要だ。フランスを代表する出版社であるガリマール社が作品の刊行を始めてもジュネはポルノ作家と見做されることが多かった。犯罪者たちを描いているため、スキャンダラスな作家として扱われてもいた。現代では「芸術か猥褻か」という二項対立は無意味と見做されるようになった。「猥褻な芸術」はもちろん存在し、ジュネの作品もそれに区分される。しかし、インターネットに夥しい数と種類のポルノグラフィがひしめき、犯罪や暴力を主題にした小説・映画・TVドラマがひたすら発表されている現代から見て、果たしてジュネはポルノ小説家や犯罪小説家として「衝撃的」だろうか? 答えは否だ。ジュネの真価はそこにはない。コクトーの慧眼はすぐにそれを見抜いている。『死刑囚』を読んだ八日後の二月十五日、コクトーはジュネと初めて会った。
[二月十五日]月曜日
とうとうジュネに会った。(……)少しずつ彼はぼくを信頼し始め、自作の新しい詩「眠るボクサー[ル・ボクサー・アンドルミ]」を披露してくれる。あまりに傑作な一節があり、ぼくとベラールは大笑いをした。すると今度こそぼくらがからかっておらず、その笑いも最高の驚きから我知らず生まれたことを見事に理解した。
エレガンス、平衡、叡智、それらがこの非凡のマニアックな人物から発散されている。彼の詩はぼくにとって、今という時代で最大の出来事だ。だが、エロチスム(出版不能)に守護された彼の詩は、密かに手から手へと手渡しで読まれていくしかない。(『占領下日記 Ⅱ』)
コクトーの絶賛は収まらなかった。ジュネはそれに気を良くしたのか、翌日には小説をコクトーの元に持ち込む。それが『花のノートルダム』の原稿だった。ジュネほどあからさまな性描写は行わなかったが、ジッド(『コリドン』、『一粒の麦もし死なずば』)もプルースト(『失われた時を求めて』)もコクトー(『白書』)も同性愛を主題にした著作を既に発表していた。二〇世紀初頭、同性愛にフランスは寛容だった。しかし、ドイツ占領下で環境は激変していた。ナチスは優生学に基づき、ユダヤ人とともに同性愛者を強制収容所に送り込んでいたからだ。コクトーが賞賛と驚愕の間で揺れ動いているのも無理はない。同性愛と犯罪を讃えた『花のノートルダム』を公にすれば、ジュネだけではなく、コクトーの身にも危険が及ぶ可能性があった。
コクトーは『占領下日記』でプルーストを度々引き合いに出してジュネを評している。ユダヤ系の同性愛者だったプルーストは『失われた時を求めて』を書くにあたって、自分の分身たる語り手をユダヤ系にしなかったのと同様、同性愛者という属性を決して付与しなかった。その代わりに登場人物のシャルリュス男爵、語り手の恋人アルベルチーヌ、友人のサン=ルーらを同性愛者として描いている。プルーストは自らの同性愛やユダヤの血に否定的だった。ドレフュス大尉がユダヤ人だったことから濡れ衣を着せられた所謂ドレフュス事件が起こった時、若き日のプルーストはドレフュスを擁護したが、晩年は保守的になり、右翼との接触が多い。コクトーは『占領下日記』の頃にはプルーストのこういった側面に批判的になっていた。プルーストが語り手から同性愛やユダヤ人といった要素を慎重に排除し、登場人物への観察という形に置き換えたことによって『失われた時を求めて』はマジョリティに受け入れやすくはなったが、そこには拭い難い同族嫌悪が刻印されている。プルーストに勝るとも劣らない力量を持ったジュネが同性愛に讃歌を捧げていると知った時、コクトーの目に『失われた時を求めて』が色褪せて見えたのは容易に理解できる。
しかし、まだ困惑していたコクトーはヴァレリーに相談を持ちかけている。「ぼくは愚かにも、また耄碌の上塗りのように、何かいい知恵はないだろうかと尋ねた。『焼き捨てるのさ』と、彼は言った。慄然とする言葉。ヴァレリーは白痴[イディオ]だ。果たして詩が分かるのだろうか?」(一九四三年二月二十二日)。この後、一段落費やしてヴァレリーへの非難が続く。「二〇世紀最高の知性」と謳われたヴァレリーはアカデミズムの権威だった。コクトーはバカロレアに三度も失敗した――二度目は試験すら受けず、マルセイユに逃亡した――落ちこぼれの詩人だった。それに比べてコクトーとジュネは階級の違いこそあれ、ふたりともドロップアウト組だった。コクトーは父が幼少時代に自殺しており、ジュネは母に棄てられた孤児で、同性愛者という共通点もある。ヴァレリーへの反発が後押した形となり、その日のうちにコクトーは『花のノートルダム』の出版を決意した。
コクトーは一週間後の三月一日(『占領下日記』では三月三日の日付)、『花のノートルダム』を三万フランで買い取った。この頃、ジャン・マレーは生涯の伴侶となるポール・モリィヤンと出会っている。コクトーはマレーとの恋愛関係を解消してふたりの関係を認め、マレーだけではなくモリィヤンも家族として自分のアパルトマンに迎え入れた。コクトーはモリィヤンに『花のノートルダム』の出版名義人を任せ、ジュネの友人だった作家のフランソワ・サンタンに校訂を依頼している。
コクトーは上品なブルジョアの息子として生まれ、母親を悲しませないために同性愛を描いた『白書』を匿名出版せざるを得ず、ジュネほどこの主題を探求できなかった。コクトーが気づいたとおり、ジュネは詩より小説でその才能を発揮した。『花のノートルダム』はコクトーのあらゆる小説を凌いでいる。『死刑囚』には明らかにコクトーの影響が伺えた。たとえば、死刑囚が少年水夫についての性的な妄想を抱くセンテンスがそうだ。コクトーは自分の作品にエロティックな水夫をよく登場させていた。『花のノートルダム』でそれは薄れ、ジュネは独自の作風を打ち立てている。その小説は格調高い詩的な言葉遣いと泥棒や男娼といった下層階級の俗語が混淆された文体を持っていた。
監獄の独房で犯罪者を思い浮かべては自慰に耽る「ジュネ」は、女装の男娼ディヴィーヌの生涯をその死から語り始める。肺結核で血を吐いて死んだディヴィーヌの葬式が終わると、時間は二十年前に巻き戻され、パリにやってきて売春を始めたディヴィーヌとその恋人でヒモのミニョンの出会いが描かれる。やがてディヴィーヌの恋人たち、兵士の大天使ガブリエルや大男の黒人セック・ゴルギ、美少年の殺人犯「花のノートルダム」が次々に姿を現し、小説は駆動する。
『花のノートルダム』の語りは時間も空間も飛び越え、ディヴィーヌの男娼生活と、ディヴィーヌが本名のルイ・キュラフロワとして暮らしていた少年時代を行ったり来たりし、途中でしばしば「ジュネ」の独白が挟み込まれる。「ジュネ」は自らが創り上げた虚構だということを盾にして、物語や登場人物に自由自在に介入する。「花のノートルダム」が裁判にかけられて処刑され、ディヴィーヌも冒頭で描かれたように死に、監獄での「ジュネ」の独白に立ち戻って小説は終わる。入り組んだ構造を持つメタフィクションにもかかわらず、『花のノートルダム』は「ジュネ」が語る夢想という設定を一貫して用いているため、堅牢な統一性を有している。
主人公のディヴィーヌは文学史上、稀に見るほど魅力的なオカマだ。私個人の体験に限っても、十四歳の時に読んだ『花のノートルダム』に魅了され、後に自らも女装するようになったのはディヴィーヌの影響が大きい。それまで女性しか相手にしてこなかったミニョンを恋人にしてしまうディヴィーヌの存在によって、異性愛者は『花のノートルダム』を抵抗なく読み進めることができる。同性愛者にとってディヴィーヌは共感できるばかりではなく、手が届かないはずの異性愛者と次々に情事を重ねる理想の化身だ。ディヴィーヌというキャラクターによって、『花のノートルダム』は『失われた時を求めて』とは別の方法で、マジョリティにもマイノリティにも読まれるよう機能する装置を持っている。
語り手「ジュネ」は彼が描く下層階級の犯罪者たちがブルジョアの読者にとって絶対的な他者だとしばしば強調するが、これは挑発であり、真に受けてはならない。ジュネは最後の小説『泥棒日記』まで一貫して登場人物を英雄的に語ったが、彼が賛美したのは片腕の泥棒や貧しい男娼、乞食、ヒモ、感化院に収監されている少年といった英雄でも何でもない人々だ。殺人犯の「花のノートルダム」ですら気の弱い若者でしかない。ハンニバル・レクター博士シリーズに代表される天才的な犯罪者の英雄譚とジュネの小説は全く異なる。大した犯罪すら成し得ないジュネの主人公たちに現実で後光が差すことなどない。しかし、ジュネは下層生活を美しく描き出し、慈しみに満ちた筆で社会の底辺にいる人物に宗教的な魅力を付与した。それによって読者は自分たちが経済的な・階級的な余裕に守られて、足元に広がる奈落に目を閉ざしているだけに過ぎず、自分の生活も犯罪者のそれとまったく変わらないと気づくのだ。逆説的ながら、もしかしたらジュネが描く犯罪者のように読者たる私たちの凡庸な生もささやかな輝きを放つかもしれない、とまで思わせる力が、彼の小説にはある。
抽象的だろうか? たとえば犯罪者ではなくても人は殺意を抱くことはあるだろう。私も長きに渡ってとある人物に殺意を抱いていた。実行に移していたら今頃ジュネの主人公たちと同じ監獄の中にいたはずだ。それをしなかったのはただ単に事態が好転したからに過ぎない。
フランソワ・サンタンによる『花のノートルダム』の校訂は三月二十三日に「ほぼ終了した」。対独協力者でありながら共産主義者の著作も刊行していたロベール・ドゥノエルに依頼し、コクトーは少部数での秘密出版の準備を整えた。コクトーは「ジュネはずっと監獄暮らしだった。これで彼は自由」(『占領下日記 Ⅱ』一九四三年三月二十三日)と楽観していたが、盗癖のあるジュネは五月二十九日に書店でヴェルレーヌの『艶なる宴』の豪華本を万引して逮捕されてしまう。いずれも軽犯罪ばかりだが、過去九回有罪判決(ホワイトの『ジュネ伝』による)を受けていたジュネは、島流しのうえ終身刑になる可能性があった。『評伝ジャン・コクトー』によれば「盗みはやめたまえ。君は、泥棒は下手だよ。きっと捕まってしまう。だが君は素晴らしい作家なのだ」とコクトーは既にアドバイスしていたが、ジュネは留置所から「いつかあんたに、牢屋の方がうまく書けるんだって言ったことを思い出すとおかしくなってね」(『占領下日記 Ⅱ』一九四三年六月十一日)という手紙を送ってくる始末だった。
にもかかわらず、コクトーはすぐさまジュネの救出に取りかかる。ジュネに有能な弁護士モーリス・ガルソンをつけ、減刑嘆願の手紙を託した。ジュネの裁判の日、一九四三年七月十九日、コクトーはマレーとモリィヤンを連れ、傍聴席の最前列に陣取っていた。
つづく(後編は2019年11月22日公開予定)