一九四三年七月二十一日 水曜日
ぼくらはジュネを救った。そのためにぼくは法廷に驚愕を与えなければならなかった。モーリス・ガルソン〔一八八九―一九六七。弁護士、歴史家、エッセイスト〕がぼくからの書簡を読み上げた。ぼくはそこにこう書いていた。「ジャン・ジュネを現代最高の作家と考えている。」この一節がジャン・ジュネを終身刑から救った。だが新聞がすぐこの事件に飛びついた。昨日の第一面は、いっせいに書き立てていた。《現代最高の作家、窃盗で逮捕》とか《盗癖詩人》などと。ぼくは少しも後悔していない。手紙にせよ、弁護側の証人として出廷したことにせよ、やるべきことをしたまで。
ジャン・コクトー『占領下日記 Ⅱ』(秋山和夫訳、筑摩書房、一九九三)
※前編はこちらからお読みください
裁判で弁護士のガルソンはコクトーがジュネを擁護した手紙を読み上げた。結果、裁判官はジュネに三ヶ月の懲役刑を課しただけで、終身刑は免れた。『占領下日記』には記録されてないが、裁判で朗読された手紙には「親愛なるガルソン。貴兄にジュネを委ねます。彼は肉体と魂を養うために盗むのです。これはランボーです。ランボーは罰せません」(『評伝ジャン・コクトー』)とまで書かれていた。無論、コクトーの言は法的にも倫理的にも詭弁だ。ジュネが「現代最高の作家」であろうと、ランボーのようなフランスを代表する詩人であろうと、被告は法の下に公平に裁かれなくてはいけない。正攻法でジュネの減刑をするためには、これまで犯した罪がすべて軽犯罪であることを強調するしかないはずだ。
ところが、困ったことに裁判官のパストゥイヤールは軽犯罪にも厳罰を与える変人だった。一ヶ月前にも小麦粉一袋を盗んだトラック運転手に最大級の量刑を言い渡している。そのうえ、尋問で「誰かがお前の本を買わずに、盗んでいったとしたらどうだね?」と訊くパストゥイヤールを、ジュネは「そりゃ、きっと、さぞ得意な気分がしただろうさ」とおちょくっていた(『占領下日記 Ⅱ』一九四二年七月二十一日)。「フランスでは(中国と同様)文学[レットル]は今なお何にもまして絶大な威力をもっている」(『占領下日記 Ⅱ』一九四三年二十四日)。コクトーは文学を重んじるフランス人の国民性に訴えかけてわからず屋の裁判官を威圧するしかなかったのだ。
裁判後、対独協力紙『ジュ・スィ・パルトゥー』をはじめとした新聞各紙は一斉にコクトーとジュネを攻撃し、なかにはふたりが同性愛者だと仄めかしたものまであった。コクトーは気にもとめなかった。ジュネは出所後の九月二日にコクトーを「自動車泥棒の友人」と訪問して「もう刑務所は願い下げだ、刑務所は嫌いでもなかったから捕まってやったが、以前は唯一道徳的な場であった刑務所が、目下のところすっかり不道徳な場になりさがったなどと語る」(『占領下日記 Ⅱ』一九四二年九月三日)が、一ヶ月も経たない九月二十四日にジュネはまたもや書店から本を盗んで逮捕される。
「彼はこれからも窃盗を続けるだろう。つねに不正なる者であり続けるだろう。彼を救うために危ない橋を渡ってくれた人々に、何時までも迷惑をかけ続けるだろう」(『占領下日記 Ⅱ』九月二十六日 日曜日)と流石のコクトーもうんざりしているが、今度は元警察庁局長でドイツ警察とフランス警察の仲介にあたっていたデュボワ、警察庁長官のテスカ、医師兼作家のモンドール博士ら友人に働きかけて、ふたたびジュネの救出に動き出した。
この頃、コクトーは私生活で相次ぐ不幸に見舞われていた。ジュネと出会う直前の一九四二年一月二十日には最愛の母が亡くなっている。友人たちも相次いで死んでいった。一九四四年一月三十一日には劇作家のジャン・ジロドゥが急死する。同年三月四日、コクトーは強制収容所に連行されたユダヤ系の詩人マックス・ジャコブの助命嘆願に奔走していたが、それも虚しくジャコブは健康状態を悪化させて没した。パリ解放を目前に控えた同年の七月六日、レジスタンスに加わっていた元恋人の作家ジャン・デボルトもゲシュタポに拷問の末、虐殺されている。一九四五年四月十五日には弟子のモーリス・サックスがドイツのキールで銃殺されたが、『占領下日記』には書かれていない。サックスはドイツに連行されて以来、行方不明扱いになっており、ハンブルク爆撃で死亡したと噂されていた。真相が判明するのはサックスの死後暫く経ってからだ。
『占領下日記』の時代、コクトー自身のスタイルは過渡期にあった。『恐るべき親たち』で劇作家として既に成功を収めたコクトーは、一九三二年に監督した『詩人の血』で試した映画という表現技法に本格的に手を伸ばそうとしていた。一九四二年の記述は初めての商業映画『悲恋』(一九四三)にまつわるものが多い。『悲恋』の企画は映画会社を転々とし、製作に入っても監督のジャン・ドラノワとは主導権争いが発生している。家内制手工業である文筆と違い、映画は集団作業だ。明らかにコクトーは映画製作に慣れておらず、不平不満を口にしている。同様のトラブルは『恐るべき子供たち』(一九五〇年)の映画化でも発生した。『恐るべき子供たち』の原作と脚本を手掛けるだけでは満足せず、演出まで乗っ取ろうとするコクトーを監督のジャン=ピエール・メルヴィルは制止しなければならなかった。
『悲恋』の脚本を手掛けだけではなく、映画『幽霊男爵』(一九四三)では台詞を提供し、自ら幽霊男爵役で自ら出演する。一九四三年十一月にやっと公開された『悲恋』の商業的成功で主演したジャン・マレーは国民的スターとなり、マレーが映画で着ていたジャガード・セーターが流行するほどだったが、安寧の日々は訪れなかった。『悲恋』は原題のL’éternel retour、和訳すれば「永劫回帰」が示すように、タイトルはニーチェの著作から取られ、『トリスタンとイゾルデ』伝説を下敷きに、舞台を現代に翻案している。トリスタン伝説を元に楽劇『トリスタンとイゾルデ』を書いた作曲家ワーグナーをヒトラーは愛好し、その音楽をナチスの宣伝に用いた。反ユダヤ思想の持ち主だったワーグナーだけではなく、その影響から出発して離反したニーチェもナチスに政治利用されている。お陰で『悲恋』は対独協力する右派からはワーグナーに劣ると批判され、左派の批評家からはドイツ的だと指弾を浴びた。戦後には更に問題視される。
しかし、コクトーは映画に関わることを止めず、『ブローニュの森の貴婦人たち』(一九四四)の台詞を担当し、本業の詩作も続け、戦後発表されることになる戯曲『双頭の鷲』(一九四六)の台本と映画『美女と野獣』(一九四八)の脚本も書き上げている。
経済的に楽な生活をしていたわけでもない。『占領下日記』が始まった日には「明日が家賃の期限。ポケットをひっくり返す。十一フランしかない。これが僕らの全財産。だがぼくは皆から裕福だと思われている」(『占領下日記 Ⅰ』[一九四二年三月])と苦境を訴えている。その後も銀行口座がマイナス、つまり借金しかない、とボヤいている。コクトーが『占領下日記』時代から戦後にかけて住んでいたパレ・ロワイヤルのアパルトマンの中二階は狭苦しいことで有名だった。その部屋でコクトーは物書き志望の青年から引っ切り無しの電話や訪問を受けていた。同居するマレーが有名になってしまったことから、アパルトマンの入り口にはストーカー染みた少女のファンが毎日のように屯するようにもなってしまう。コクトーは仕事の時間が取れないと愚痴を零している。そして、ドイツの敗色が濃厚になるに従って、食料の配給は滞り始め、あらゆるインフラは機能不全に陥っていった。こんな状況下でコクトーは自分のことをそっちのけにして、ジュネの尻拭いをしていたのだ。
『花のノートルダム』はジュネがまだ獄中にいた一九四三年末に印刷を完了したが、製本されたのは三十部に留まる。高値をつけられた『花のノートルダム』は裕福な好事家たちの手に渡った。初版三百部すべての製本が完了して配本されたのはパリ解放以降の一九四四年の秋のことだ。パリ解放後も事態は変わっておらず、秘密出版だった。『花のノートルダム』が並べられた書店に発禁本を押収しようと警察が踏み込み、その場にいたマレーが何食わぬ顔で本を小脇に抱えて立ち去る危うい一幕もあったほどだ。コクトーはジュネを牢獄から解放するために手を回していただけではない。ジュネが文学的評価を得られるよう詩人のポール・エリュアールやロベール・デスノス、作家のコレットとマルセル・ジュアンドー、『新フランス評論』の編集長ジャン・ポーランら文壇の有力者に『花のノートルダム』の原稿を密かに貸し出してもいた。ジュネは一九四四年三月十四日に出所した時、コクトーの尽力によってパリの出版界で既に名声を勝ち得ている自分を見出した。しかし、ジュネの仕打ちは酷いものだ。
一九四四年三月二十四日 金曜日
収容所[キャンプ]を出たジュネがやってきた。相変わらず。見せかけの良心の呵責と、他人への要求で身構えている。自分に起こったことが奇跡であることを納得する。だが来週になると、それを当たり前と考え、彼は前と同じ愚行を繰り返してしまうだろう。彼にとって、そしてぼくらにとって不幸なこと。
(……)ぼくは彼らにジュネのことを理解してもらうべく努めた。だがジュネにとって他人のことなどどうでもよかったのだ。自分だけが純粋で、自分だけがすべての権利を有していて、そして、そして……。ぼくは熱があったが、彼はぼくに厳しい言葉をぶつけてくるのだった。(彼の純粋さ。それは素晴らしい[アドミラブル]。ぼくは口ごもる。ぼくが間違っているので、やはり口ごもってしまう。)
(『占領下日記 Ⅲ』)
コクトーは批判に心を痛めているが、寛容さを失っていない。ジュネは一旦謝罪するが、ふたりの間柄は険悪になっていく。ジュネは新たな擁護者となるジャン=ポール・サルトルに接近しつつあった。コクトーはジュネの裏切りに気づいていている。
一九四五年一月二十五日
書くのを忘れていたが、一九四五年になってジュネと会っていなかった。ポール〔・モリィヤン〕がジュネと出会った。ジュネは密かに、ぼくの立ち回り方についてプルーストが最も高貴な友情を複雑化させていた幾多の事件に類似した何か後ろ暗い事情があるのではないかと考えていたらしい。ぼくと会いたくないと言っている。ぼくは、彼を狂わせてしまうのだ。彼は自己防衛のすべを心得ている(あるいは自己防衛できると思いこんでいる)一個の生き物のように、ぼくを削除する。
(『占領下日記 Ⅲ』)
コクトーはサルトルに批判的だった。サルトルの『出口なし』を観て「フランス人は、ほとんどいつの場合でも行動と批評を混同する。結局は問題劇[ピエス・ア・テーズ]が好みだ。『何かを証明する』劇や、実際はその正反対なのに詩的と取り違えている絵画的で幻想的な劇が」という手厳しい評を残している(『占領下日記 Ⅲ』一九四四年七月一日)。サルトルの方でもコクトーを軽く見ていた。後にサルトルはジュネを論じた大著『聖ジュネ』を書き、精神的に追い詰められたジュネはサルトルからも離れている。
パリ解放後、コクトーは対独協力に関して作家協会から「嫌疑なし」のお墨付きをもらったが、戦中に取ったどっちつかずの態度によって孤立を深めていく。「ぼくに棲みついているこの壮絶な空虚感は、ぼくが危機の状態に踏みこんでいようといまいと、つねにぼくの域を粗相させ、方向を見失わせ、書くことも読むこともさせない」(『占領下日記 Ⅲ』一九四五年四月十八日)。コクトーは既に脚本を書き上げていた映画『美女と野獣』の製作の頓挫を憂鬱そうに綴り、日記は終わっている。
それからもジュネは犯罪に手を染め続けた。一九四八年、コクトーはサルトルと共に大統領宛てて公開書簡を書き、ジュネの恩赦を勝ち取る。恩赦の請願はコクトーとサルトルの連名になっているが、実際は書面作成をサルトルに押しつけられたコクトーひとりの筆によるものだった。恩赦以後、ジュネは二度と逮捕されていない。ジュネは『薔薇の奇蹟』から『葬儀』、『ブレストの乱暴者』、『泥棒日記』に至るまでの小説を次々に発表し、戯曲『女中たち』でも成功を収めた。名声を高めていくジュネと相反するように、サルトル、ボーヴォワール、カミュを中心とした実存主義の台頭によって、コクトーは時代遅れになっていく。
コクトーのジュネへの評価は終生変わらなかった。ジュネが離反の動きを見せている最中も『葬儀』を読んでこう書いている。「こんどの不和についても、どうしてぼくがジュネを責められようか?」(『占領下日記 Ⅲ』一九四五年一月二十五日)。翌日には「たとえすべての書物がジュネの書物のようであるべきではないにせよ、ジュネの書物は、もはや単なる書物ではないと言いたい。構成と線と色彩の壮麗な怪物性で、ピカソにも匹敵する」(『占領下日記 Ⅲ』一九四五年一月二十六日)と記し、それからも「ジュネという天才」(『占領下日記 Ⅲ』一九四五四月七日)と賞賛を惜しまなかった。
ジュネとの仲が疎遠になってからもコクトーの元には彼を慕う後輩の作家が世界各地から訪れている。アメリカからはテネシー・ウィリアムズとトルーマン・カポーティとゴア・ヴィダルが、日本からは三島由紀夫がやってきた。
編集者の役割を果たした『花のノートルダム』の出版に際し、コクトーは果敢だった。もちろん、占領下でのコクトーの政治音痴は弁解の余地がない。ヒトラーに熱を上げておきながら、パリ解放でド・ゴールを目にして夢中になる有様だった。しかし、編集者の仕事は良い作品を出版することだ。
『占領下日記』はジュネという作家を見出すことに始まって、傑作『花のノートルダム』の出版を決意し、占領下という不利な状況と引っ切り無しの逮捕という危険から著者を守り通して、その文学的な評価をも確立させたコクトーという稀有な編集者の記録だ。コクトーは『花のノートルダム』の出版を決めた日にこう書いている。「真の偉大さとはおそらくミケランジェロのように振る舞うことではないか? 法王を騙し、神を騙す。天井や公の場に、自分の秘密を忍び込ませてしまうこと」(『占領下日記 Ⅱ』一九四三年二月二十二日)。コクトーはそれを見事に実行した。権謀術数を駆使し、同性愛者の泥棒の言葉を世界に解き放ったのだ。しかし、コクトーが「忍び込ませ」たのは「自分」ではなく、ジュネの作品だった。私がコクトーを「編集者」と呼ぶ所以がここにある。
一九六三年十月十一日、最後まで友情に篤かったコクトーは電話でエディット・ピアフの死を知り、後を追うように息を引き取った。その日のうちに主を失ったミリ=ラ=フォレの邸宅にジュネから電話が掛かってきた。受話器から聴こえる声はコクトーの死がまだ信じられない様子だったという。