展覧会の会場をホテルを思わせる空間に変質させ、展示空間をその上を歩ける池のような広がりに変えるなど、鑑賞者の認識を揺るがし、心地よいめまいを生み出す作品を作り上げてきた現代アートチーム目[mé]。インタビュー企画「Creator’s Words」の第4回では、目のメンバーである荒神明香さんと、南川憲二さんに出演していただいた。現在開催中の美術館での初個展『目 非常にはっきりとわからない』(2019年11月2日~12月28日 / 千葉市美術館)を出発点に、展覧会のコンセプトや重視しているという導線の作り方、そしてグループのコアを再確認させたある経験などについて話してもらった。
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――目[mé]の美術館での初個展『目 非常にはっきりとわからない』が2019年11月2日より千葉市美術館にて開催されています(会期は2019年12月28日まで)。まずはこの展覧会のコンセプトを教えてください。
荒神明香:千葉市美術館さんからお話をいただいたときに、チバニアン(千葉時代)と呼ばれている新しい地質時代に関するニュースを見たんです。チバニアンは、地球磁場逆転地層、地球のN極とS極が最後に逆転したことを証明する地層と言われていて。それが気になって南川と一緒に見に行ったんですね。そうすると入り口は思いのほか取って付けたような単管で組まれた道であったり、その脇には「いちご狩り」みたいなノリで「チバニアン」って書いたのぼり旗がたくさん立っているような場所だったんですよ(笑)。
一同:(笑)。
――かなりユルいんですね(笑)。
荒神:ユルいんですよ。まず、そのことに驚きました。その後、道を進んでチバニアンとされる地層が見えるところに降りていくと、詳しい説明が看板に記載されているんです。しかし、最後の一文のところで「現在研究中で、事実かどうか、本当にそうなのかどうかは、まだわからない」といったことが書いてあって、それに私も南川も少し衝撃を受けて。地磁気逆転地層ということも勿論衝撃でしたが、同時にそれが本当かどうかもわからないという情報を一緒に得ていることも含めて面白くて、そうするとそこにたどり着くまでの通路もよりおかしく見えて。
普段私たちって「白亜紀」とか「ジュラ紀」とかの地層がダイアリーのように積み重なっている地面の上に、ポンっと乗っかって暮らしていますよね。その大昔から積み重なっている層の中に、N極とS極が逆だったかもしれない層があるというのは、想像もつかないようなことだな、と。そんな、自分たちには、途方もないくらいわからない地球の運動の上に立っているということに、改めて衝撃を受けました。
家やビルが当たり前のように建っているこの風景、みんなが普通に暮らしている日常というものを、天変地異が連続して起こっていた地球側から見たら、自分たちが普通だと思っていることが、変に見えてくるんじゃないか?という考えが生まれ、そのことを南川と話していく中で、今回のプランが出来上がっていきました。
南川憲二:キュレーターの畑井(恵)さんが打ち合わせの際に「2020年に美術館がリニューアルする前のタイミングで、美術館を問い直すような展覧会にしたい」ということをおっしゃっていて、僕たちも作家として、「そもそも作品を置いて、それを観ることってなんだっけ?」「鑑賞者を監視する人はなぜ必要なのか?」という当たり前だと思われていることを問う展覧会にしたいと、漠然とではあったんですが、考えていました。それはチバニアンでの経験ともつながる問いだったと思います。
――なるほど。タイトルにある「非常にはっきりとわからない」という言葉も、自分たちが立っている土台の不確かさだけが確かであるというような実感や、前提となっているものを疑う過程から生まれたものなのでしょうか?
南川:チバニアンの体験とリンクするタイトルではあるんですが、地層を見に行くよりも前に荒神が言ったことを僕がノートにメモしていて、それがこの言葉なんです。今おっしゃっていただいたような展覧会の方向性は固まっていて、そこにはまるような言葉を探したら、過去にあったという感じですね。
――展覧会よりも前に、この企画に合った言葉が生まれていたということですね。それは、なんのときに荒神さんがおっしゃった言葉か教えてください。
南川:『アクリルガス』という作品を考えている際に出てきた言葉ですね。
――『VOCA展2019』に出品されて、佳作を受賞された作品ですよね。今回の展覧会にもこの作品が展示されていますが、それはタイトルを生み出すきっかけとなった作品だからですか?
南川:そうですね、まさに。『非常にはっきりとわからない』のコンセプトを練っていく段階でその言葉を思い出し、自然と『アクリルガス』を展覧会に取り込むかたちになりました。『アクリルガス』は平面作品なのですが、それを状況や空間というものに拡張したのが今回の展覧会だと言えます。『アクリルガス』制作時に、『非常にはっきりとわからない』の企画を荒神と一緒に練っていたので、同時進行だったんです。
ちなみに『アクリルガス』は、樹脂の中に絵の具を溶かし、絵の具が融解している最中に固めるという制作方法なんです。その制作方法は、目の実際の制作を担当しているインストーラーの増井(宏文)が考えたんですが、型に流し込んで、硬化してからパカってめくるんです。めくるまでは誰も見れないんですが、作品として出せるものを1個作るのに、失敗作がだいたい16個ぐらいできるんです。めっちゃ効率が悪くて(笑)。
――成功と失敗の基準はどこにあるんですか?
《アクリルガス》 制作:2018年
南川:荒神が「はあ?」って言ったら成功です(笑)。
一同:(笑)。
南川:ほかの物が思い浮かぶような色合いだったり、なんかキレイとかなったら失敗です。
荒神:絵の具の広がりがなんらかのまとまりを感じさせるものはだめなんですが、たまに「初めて見た!」と思えるものが出来上がるんです。そうすると本当に「いい」「悪い」の判断ができないんですよね、初めて見たものなので。結構暴力的な体験なんですよ。思考がフリーズしてしまって。
――「判断ができない」という状況は千葉市美術館での個展全体を通しても感じることのように思います。企画はおふたりで考えられるということでしたが、その後、どう具体的なかたちに落とし込んでいくのですか?
南川:先ほども名前を出した増井にプレゼンをします。絵なども入れた、企画書を作って。前の日にどっちが何を話すかを荒神と打ち合わせをして、なんなら制作の過程で一番緊張するぐらいで。今回は、荒神と一緒にチバニアンを見に行ってから2~3カ月ぐらいじっくりとプランを練り、プレゼンに臨みました。増井が「おもろいやん」ってならないと進まないんです。ボツになったら、またプランを変えなくてはいけないので。
――今回プレゼンした際の増井さんの反応はどのようなものだったんでしょうか?
南川:増井から反応があるまでに、30分くらいかかったんですよ。プレゼン終わったときも、シーンとしちゃって。今回、いよいよヤバいぞと思ったんです。そうしたら30分くらい経って増井が「待って、待って、待って。キタキタキタ! あー、これはおもろい!」って興奮して言い出して。もう「よっしゃー」って感じでしたね(笑)。
荒神:「天才! 天才!」って言ってたね(笑)。
南川:そうそう(笑)。反応にこんなに時間がかかったこと、今まではなかった。
増井はどの作品のプレゼンのときも、作り手の視点ではなく、受け手の方の視点からプレゼンを聞くことを大切にしていて。自分がこれから作るという事実をカッコに入れて考えないと、「これ、面倒くさそう」とか「ちょっと待ってくれ」とか楽しようと思っちゃうから。自分が作るということを忘れて、観客の立場で想像してみるんだそうです。(空間に入るような仕草をしながら)「ああ、こうなってんやー。行くでー」とか言いながら動いたりして(笑)。
増井はそのときしか作品と出会えないんですよ。あとはもう作るだけで。僕らも同じですが、作品が生まれる過程を一番間近で見る人になるので、新鮮な目で作品を見ることはできない。
――このインタビューは、『アクリルガス』以外の『目 非常にはっきりとわからない』の展示作品と展示構成に関して具体的な情報を書かないことを条件にお引き受けいただきました。千葉市美術館の公式サイトなどを見ても、具体的な情報は載せないようにしていますね。
南川:Webマガジンや公式サイトなどのメディアに載った情報というのは、作品に関しての公式な情報に映ると思うんですね。作家が許可したものとして受け取られるはずなので。そうするとその言葉がお客さんの見方、つまりは導線の構築に関わってくるんです。自分たちが、導線そのものを作品としているので、情報の出し方というのは慎重にしています。
――「導線そのものが作品」ということの意味を詳しく教えてください。
南川:例えば、(パブロ・)ピカソの絵を見るときって、その絵の周りに人がたくさんいるってことが少なくないですよね。そのとき、ほかの人越しに絵を見ることになると思うんですが、前にいる人の後頭部のかたちが、ピカソの絵を見る行為にどれだけ影響しているかって、かなり重要なことだと考えていて。
ほかに例を挙げると、自分がお腹を下しているとき、フォーヴィスムの絵を見たら、けっこう直接的に体に影響を与えたり(笑)。
――すごい例ですね(笑)。
南川:単純なことですが、外的な条件や内的な条件って作品にかなり影響を与えますよね。わかりやすい話だと、すごく立派な額縁に入れてあって、高価なものと聞いて見たら、見方をかなり左右するかもしれない。
最初に話したチバニアンの説明文に関しても、「これはすごいもの」というふうに僕らは見方を固定してしまうような意味を持ってしまっていたわけで。実際の物以上に、そういう状況によって鑑賞体験が作られていることが少なくない。
逆に言えば、その部分、見方が生まれる環境を作るというのは、もっといろいろなことができると思うんです。導線、つまりは作品を見るための状況を、揺らぎだったり、動きを生み出すものにできる。そこに可能性があると思いました。展示空間の構成だけでなく、展示会場に来る前、どこでその情報を見つけて、どう思ってここ(展示空間)に来てというのも重要になってくる。
だから情報の出し方はいつも大事に考えていて、展覧会に応じて変えています。この展覧会に関しては、あやふやにしていきたい、と。情報出しを全部だめにしてしまうと、それはそれで強い意味を帯びてしまうので、あやふやにするしかないって感じですね。それでみんなが大変になっていますが(笑)。
――今回の展覧会だけでなく、資生堂ギャラリーで行われた『たよりない現実、この世界の在りか』や『さいたまトリエンナーレ2016』に出品された『Elemental Detection』でも写真の撮影を禁止されるなど、作品のイメージの流通にも気を配っている印象を受けました。ただ、例えば森美術館で開催された『レアンドロ・エルリッヒ展:見ることのリアル』に象徴されるように、撮影を可能にし、受け手が撮った写真をSNSで上げることで観客が増えるということが近年少なくないと思います。そのような体験が体験を連鎖させていくような状況を作ることに、現状関心はないのでしょうか?
《たよりない現実、この世界の在りか》制作:2014年 制作場所:東京/資生堂ギャラリー 撮影:加藤健
南川:11月2日の展覧会オープンの直前、「いよいよ開きますね」とメンバーや広報を担当してくださっている磯野(愛)さんたちとで話しをしていたんですが、誰ひとりどうなるかわからなかったんですね。本当に。ひとり目のお客さんがどんな反応を示すのかさえ。でも、そのような状況を作り出すことが、みんながやりたかったことなんです。
例えば写真撮影をOKにして、それで人を呼ぶことを前提にすると、写真を撮らせるということがゴールになってしまう危険性もあると思うんですね。もちろん、エルリッヒも写真を撮らせることを目的にしているわけではないでしょうし、彼には彼の考えがあるんだと思います。しかし、写真を撮るという行為によって見に来た人が納得してしまい、わかった感じになってしまうということが起こるかもしれない。そのわかったような状況を生み出してしまうのはもったいないな、と。見に来た人がいろいろと考えたり、感じたりして「わかった!」と思ってくれるのは、うれしいんですが、僕らが結果としてゴールのようなものを準備するようなことはしたくない。それが「導線そのものを作品とする」ということだと思うんです。
――なるほど、わかりました。千葉市美術館内にあるショップでは現在、『目 非常にはっきりとわからない』に関連した選書フェアが行われていますね。そこで挙げられている本を紹介してください。
荒神:はい。全部、私が選びました。『目に見えないもの』(湯川秀樹著)、『生物から見た世界』(ヤーコプ・フォン・ユクスキュル、ゲオルク・クリサート著)、『知恵の樹』(ウンベルト・マトゥラーナ、フランシスコ・バレーラ著)の3冊です。
南川:どれも難しそうだけど、本当に知ってるの(笑)? 勤勉感を出そうとしてない(笑)?
――(笑)。書籍の内容と選ばれた理由を教えてください。
荒神:私の中では、この3冊は共通した部分のある本だと思っています。
『目に見えないもの』は、湯川先生がノーベル賞を受賞した研究をはじめるきっかけとなった幼い頃の話が書かれているんです。それが、とってもおこがましいのですが、私がひとりで作家活動をしていたときの作品のコンセプトと偶然似ていて。ある晩、幼い頃の湯川先生は、暗闇の空中にザワザワと光る物体を見つけるんです。それがなんなのかを調べていく研究が結果的にノーベル賞につながっていくんですね。だから、その夜の物体との出会いが湯川先生の原点とのことなんです。
それで、私も小学生の頃、似たように、暗闇を見つめていたら光るザワザワしたツブツブが見えてきたことがあって。それが、分子とか原子といった光の粒が見えたってことに思えて「これはすごい発見だ」と興奮して。それを突き詰めていったらノーベル賞とかもらえるのかも、とふと思ったことがあったんです。私はそれをアーティストとして作品にしたんですが、湯川先生は科学者としてそれを研究されていき、ついにはノーベル賞を受賞されるという。人が行動に移す前の原点が一緒というのが面白いなと思っていて。
――なるほど。この展覧会の土台というよりももう少し広く、荒神さんがものを作るうえでの核のような出来事とつながっているということですね。
荒神:はい。それで、『生物から見た世界』は動物から見た世界、動物による世界の見え方の違いが描かれているんです。その内容は南川がよく話す、「花は目を持っていないのに、なぜ色をつけるんだろう?」という疑問ともつながっていると思っていて。そういった視点が私たちの作品を作る根底になっているんですね。人って、生活の中で積み重ねてきた知識でものごとを見てしまうじゃないですか? でもそれによって大事なことを忘れてしまうという不安があって。そういうことが作品の根底にあるので、動物が見ている世界の違いを描き出したこの本は、視点を変えて考えるという目の姿勢ととても近いと思っています。
最後の『知恵の樹』は学生の頃に読んでいた本で、影響を受けたものです。『生物から見た世界』とも被る部分があり、これも目の作品制作の姿勢と近いことが描かれています。身につけた知識などをカッコに入れて、ただの漂う生物として地球上に置かれたとき、今まで知っていた世界とは全く違う空間が目の前に広がっていくと思うんですね。その視点で見てみたいということが、目の作品でやっていることの原点なのかも?と思うところがあります。