父が迷わずに帰ってこられるように火を焚いた。母と私と三井さんでケーキをたべた。三井さんは私の母と父が離婚したあとに父と何年もいっしょに暮していた。
父は二種類の日記を書いていた。亡くなるとき、これもいっしょに燃やしてほしい、と三井さんに、何冊かのぶあついぶあつい黒い表紙の手帳を渡していた。もう五十年近く前、というか、私が生まれたときから日記を書きはじめたらしい。その日の出来事があたりさわりなく書いてある、白い表紙の日記と、その日の恨みつらみが書いてある黒い日記。母は白い日記のことは知っていたが、黒い日記のことは知らなかった。
「わたしねえ、あの黒いやつこっそり見てしまってんよお」
と三井さんがいう。
「えーほんとにい」
と母。
ふたりとももう70代だ。
「なに書いてあったと思う?」
「どうせ酒のことでしょ」
「まるみちゃんは?」
「えーなんだろ。病気のこと?」
「ふたりともほんまにそれでいい? あてたらケーキあげるよ」
「「えー」」
私と母が声をそろえていう。三人で笑う。
母と三井さんはいつから友だちなんだろう。
「正解はねえ、」
三井さんがいう。
「白紙でしたー! ばばーん」
両手を万歳のかたちにしながら立ち上がってそういった三井さんは、即座に座り直して真面目な顔つきでいった。
「ぜーんぶ白紙。恨みつらみとか、いっこもなかったんやねえ」
白紙。
意外だった。ほとんど記憶にないけれど父はそんなによくできた人間ではなかった。お酒がやめられなかった、そのただひとつのことが母と私と妹の生活をうまく成り立たせなかった。でも、私たちと別れてなかったら、父は三井さんとも出会えていなかった。
妹はこなかった。
「いやまあ、日記に書かへんかっただけで恨みつらみを抱かなかったわけではないやろうけど」
と三井さんがいう。
「それにしてもなあ……」
母が三井さんの背中を両手で撫でた。
ひとがひとの背中に両手で触れているところ、たぶんはじめて見た。
母の手は、そういう蜘蛛くらい大きかった。
私も遅れて三井さんの肩に手を置こうとしたとき、そこはあらかじめなにかが触れていたように生あたたかかった。