いまって、なに?
返ってきたのは笑い声だった。
朝美は人形に入れ歯をはめ込んでいた。
学校からの帰り道、道しるべのように点々と入れ歯が落ちていた。あとでわかった話では、夏に行われる児童館での肝試しのために職員さんが、閉業する歯科医院から譲り受けたものらしい。ダンボールに直に詰め込まれた入れ歯たちは、職員さんが乗る自転車の前カゴが揺れるたびに少しずつ落ちていった。
話を聞いたのは、三十年もあとのことだった。そのとき朝美は美術館の職員をしていて、休館日に造園業者のひとが中庭を手入れするのに付き添っていた。小さな美術館で、八十歳近いひとがひとりで植え込みを狩り揃えた。「病気してないから働かないといけなくって」と造園業者さんは笑った。彼女は朝美が高校生だった頃は鬱病で毎日、死のことを考えていた。あまりに無気力で死ぬ気持ちなんてなかったが、いつか回復したとき、発作的にやってしまいそうだな、と、あらかじめ知っていた鬱への情報と照らし合わせて漠然と予測を立てていた。彼女の友だちが、ときどき電話をかけてきた。彼女を笑わせようとして、あることないこと話しているんだと思っていた。ありがたいことだとはわかっているが、感慨がわかなかった。いつか思い出して泣こう、と思った。
友だちがしてくれた話のひとつに、歯を落とす女、があった。自転車に乗っている女が入れ歯を落としていくねん、ひとーつ、ふたーつ、みーっつ、と友だちがいっていたことを造園業者が思い出したのは、仕事を終え、退館表にサインをしているとき、目の前で、朝美の歯が落ちたからだ。スッ……と、蜘蛛が糸を下るように、上の前歯が一本抜けて、でもそれは蜘蛛じゃなかったので、ころんころんと床を転がった。
えー! と朝美がいちばん驚いていた。造園業者は、その光景で思い出した歯を落とす女のことを、だれかに話したくてたまらなくなった。話を聞いて朝美は、高校生のときに人形に入れ歯をはめ込んでいたことを思い出した。
歯を落とす女が児童館の職員で、肝試しのために歯を運んでいたことや、入れ歯が落ちていたことには気づかなかったこと、残った大量の入れ歯で歯の樹と歯の雲を作って、それが本当に気味が悪くて評判がよかったことは、造園業者もその友だちも朝美も知らない。知らないのだ。
朝美は、なんで入れ歯が落ちていたんだろう、と高校のころを思い出した。拾った前歯を手のなかに包み、歯医者への道中、つきそってくれた造園業者の話を聞いて、昔と同じような気持ちになった。その気持ちは、昔といまの区別を揺さぶるくらい鮮やかだった。
いま目に見えているものや身につけているものが、いや、それどころではなくて、この体さえもが湧いてくる記憶で白く白く焼かれて灰の山になっていくところを朝美は想像した。
何年とか、何日とか、何歳とかは、数字の上ではわかっている。加齢による心身の変化も感じている。けれど問題は、この記憶や思い出だ。いったい、昔ってなんなんだろう?
朝美は人形に入れ歯をはめ込んだ。その人形は、もっと子どものころに、ねんどで作ったものだった。ひとのかたちをしていて、なぜだか、捨てられないでいる。水で何度でも元に戻るという商品で、本当にそうだった。いまでも、元に戻る。けれど、ねんどのにおいは、高校生のときにはもうなかった。ねんどの全身から、もうにおいがない。何十個と、そのとき思いついたかたちを付け足して、大きくなったひと。ねんどには、記憶とかあるのかな。この机には? 家には? 景色には? 気持ち悪い、と友だちにはよくいわれる。ねんどには、きっとそのままの意味で。それを作っている朝美には、たぶん親しみを込めて。
朝美は思い出した。ねんどとおままごとをしたところを。ピクニックをしたところを。お葬式にいっしょに出たところを。これでしゃべることができる、入れ歯をつけてくれてありがとう、とねんどがいった。
朝美はねんどをまじまじと眺め、どうしようかな、と思った。ねんどの人形にいつか飽きたりしたら、大切にしていた分、かわいそうだ。それまでの年月分、なにかが自分の身にはね返ってきそうで、いつまでもいまとか昔とかよくわからないでいたい気がする。