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2020.12.24

第35話 クリスマスイブの話

〇〇の日の話 / 大前粟生

 くるみが大きく円を描くように歩き、朝美がそれを見ていた。
 四角い白い箱のなかでクリスマスイブが行われている。クリスマスイブ。そういうタイトルの展示だった。展示室を延々と回りながらくるみは、あらかじめ地域のひとから募集し、いまは床に散らばっている「クリスマスの思い出」を身につけていく。そのほとんどはもう使わなくなったオーナメントだったり、きつくややこしく絡まって何年も使われていない電飾だったりした。なかには家族で集まった写真などもあった。全員がこっちを向いて笑っているけれど、展示に寄付したということはやっぱり、もういらないものということだった。それでもあたたかいもののように思えた。きらきらとした飾り。子どもの頃のように、なにか楽しげなものと自分が境なく一瞬で繋がっていく。写真のなかの笑顔とそれを補強するように立っているクリスマスツリーと家の光。家はいいものだなんて特別思ったりはしないけれど、クリスマスというものへの印象は穏やかで、自分のなかにある素朴な気持ちが増すのを感じながら、展示室に熱を送るヒーターのにおいや換気したときのつめたい風を心地よく思い、朝美は床一面を新種の植物のように覆う電飾やオーナメントを眺めた。そしてくるみのことを。
 くるみもまた、この展示における作品だった。彼女自身がそう設定した。
 くるみは一言も喋らず、止まることなく円を歩き続けるので、思い出という祈りを呪いのようにして、呪いを祈りのようにして彼女にくっつけていくのはお客さんの役割だった。くるみは時間だった。円を描く度に経過するひとのかたちをした時間としてこの展示を作っていたが、しばらくお客さんがきていないので、彼女が歩く音と、肩にかけられた電飾が床と擦れて出す波の音ばかりがこの部屋を満たしている。朝美はこの美術館の職員として朝から部屋の隅に座り、じっと動かずにくるみのことを見つめ続けている。
 訪れた客は床に散らばるモノを手に取り、テープでくるみにくっつけていくことが求めれる。テープは思い出たちと共に床にいたが、他のモノたちとはちがう役割を持っているのだということがわかるように少し離れた場所に置かれ、姿も特徴的だった。ひとつひとつはなんの変哲もない、輪っかになった白いテープなのだが、いくつもが一メートルほどの大きさに積み上げられ、ひとのかたちのように見えなくもない格好に組まれていた。このテープは、訪れた者とくるみが展示を作っていく様を目撃する観客なのだとみなすこともできた。朝美はそう思っていた。客がくるみに思い出をくっつけていけばいくほど、テープの長さも数も減りその姿は見えなくなっていくけれど、消えているわけではなく、あちらからこちらへと移動しているだけ。
 展示は今日、まさにクリスマスイブの日で三日目になり、午後五時の閉館で終了する。この三日間でくるみは様々な姿になった。緑色の、けれどそれぞれ微妙に色味のちがう球体オーナメントばかりをくっつけられているときもあれば、大きい子どもくらいの大きさのクリスマスツリーを手に持たされて何時間も引きずっているときもあった。いまくるみは、網のように電飾を肩にかけているだけだったが、もっと大きなものを背負っているように朝美には感じられた。時間がそうさせているんだ、と思った。わたしが彼女を見つめている時間が、彼女が歩き続けている時間が、この部屋に思考というものを生んでいる。モノたち同士が繋がりあっていくような雰囲気ができていた。くるみは客がいないときも歩き続け、会期中一度も止まらなかった。朝美は何度か、休憩したら、といいそうになった。でもそうしなかった。彼女を見ることでわたしにかかるこのストレス、痛ましい気持ちもきっと大事なことなんだろう。だったら、わたしは見つめ続けよう。でも同時に、作品に参加したい気持ちにも駆られていた。他人の思い出を、記憶を背負って隣を歩きたい。そうだ、彼女とは反対の方向に歩き回ってもいいかもしれない。そんなこと実際にはするわけない、と軽いあきらめの気持ちに微笑みながら、朝美は頭のなかでくるみにモノを持たせたり、手離させたりした。時間を何年も経たせ、戻した。この想像は、失礼だろうか。いま、目に見えているもの以外を見ようとするのは。思い出を取り外すのも客の自由だった。作品とはいえ、客との接触時に作家が嫌な思いをしないよう朝美は会期中、客とくるみのやりとりを凝視していた。いまのところなにも起きていないが、自分が屈強な成人男性だったらよかった、と朝美は思う。そしたら監視員として彼女に安心感を与えられるかもしれない。朝美は自分の腕を見た。骨が透けてしまうんじゃないかというくらい細い腕だった。腕なんて毎日見ているのに、改めてまじまじと見ると、いつのまにこんなに老いたんだろう。
 くるみが円を一周するにあたって、彼女の体がこちらを向いて、目が合いそうになる瞬間があった。それは一日に何百回と訪れたが、くるみは朝美のことなんて見えていないように無表情でいるので、変顔をしてみたい衝動が何十回目かに朝美に訪れたとき、ひとりの子どもが走りながら部屋に入ってきた。ジュッジュッジュジュッジュジュバーーンと叫ぶ。子どもだと思う。それくらいの背丈で、頭には茶色い紙袋を被っていた。紙袋に、なんだろう、顔が、鬼の顔が描いてある。子どもは勢いよく展示室を走り回り、「え〜なにこれ。な・に・こ・れ」「だれ?」「しゃべる?」「わたしねわたしねわたしねダンスできるんだよっ」、モノたちを次々とくるみにくっつけていった。ひとの過ごしたそれぞれ異なるクリスマスイブの時間がくるみといっしょに歩き回る。子どもも自分にモノをくっつけた。どこかの家族の写真をいくつも紙袋につけると、くるみの横を歩いたり走ったり、円の中央に仁王立ちになったり、阿波踊りをおどったりし、飽きると、座ってぐうぐう眠りはじめた。毛布を持ってこようと朝美が思うと、「毛布を」とくるみがいった。