きのうのクリスマスイブの展示がまだ体に残っている。
朝美は川べりを歩きながら、ときどきしゃがみ込んで石や枝を手に取ってはポケットに入れた。おばあさんすいませーん、と声がした方を見ると子どもが手を振っていて、足元にボールが転がってきたのだと気づくまでに少しかかった。子どもが手を振っていることを忘れて、ボールをポケットに入れると、おばあさんすいませーん、とまた聞こえたから思い出し、ボールを投げると、思っていたよりも飛んだから、おばあさんにしてはよく飛んだ、と朝美は気分の高揚につられるように、じゃあ、きのうじゃないのかもしれないと思った。クリスマスイブという名前の展示は、今日のどこかで自分が思い出したんだろう。あたたかさが体に残っていた。あたたかいものがクリスマスだった。それは毛布だったり、お茶をしているときや、犬だったりした。ポケットのなかの石や枝もそうかもしれない。自分とはちがう時間がくっついているのは、安らぐことのような気がした。私はそばにいて、うれしくなった。そうそう、気づいてると思うけど、これはぜんぶ、私が死ぬまでと、死んでからの話。
ボウェェェェェェンボチン! 音がした。
耳鳴りのようだけど、実際に聞こえていた。
ボールで遊んでいた子どもが向こうの芝生で、耳を塞ぎ、目を閉じていた。
その方向に、ゆっくりゆっくり、朝美は歩いていった。だいじょうぶだよ、といってあげる。そしてこういうのだ。
しあわせになること
しなないこと
なにそれ、と子どもがいった。
わからない。でもおぼえている。