身体運用の複製と編集
自分の身体を現実空間で運用することは、時として非常に難しい。出力を客観的に評価することすら容易ではない。歌唱なら自分で聴いて、音が外れていると思えば軌道修正したらよい。運動とその調整のためのフィードバックループは比較的自然に成立する。ダンスではそうはいかない。出力の評価は常に視覚に依存し、我々は自分の身体を直視できない。
第三者がいれば言葉によるフィードバックを受けることもできるが、自分ひとりなら鏡を見るしかない。困ったことに鏡というのはあまりアテにならないもので、そこに映る自分の姿はだいたいにおいて実際よりも理想化されている。
おそらく鏡に映った視覚的なイメージが、内的な運動のイメージ、言い換えれば頭の中の「かっこよく踊っている自分」、あるいはそのイメージの源流にある「かっこよく踊っていたあの人」のほうへと引っぱられて歪むのであろう。こうした自惚れからアマチュアダンサーが独力で抜け出すためには、普通は動画撮影を必要とする。自分が踊ったものを、動画に撮って確認しては絶望し、理想像とのズレを修正してもう一度踊りなおし、それをまた動画に撮って……というプロセスを繰り返すわけである。一応はこれをフィードバックループと呼ぶことができなくはないが、自然さとは程遠い。
しかし、もし仮に、踊られたものが三次元のモーションデータとして保存されるならば、運動と調整のループには新しい選択肢がひとつ加わることになる。踊られたものの軌跡は踊られた瞬間から自分の身体を離れ、仮想空間に複製される。軌跡をモノとして扱い、粘土細工のように加工することが可能であるならば、完成されたダンスパフォーマンスに至る工程のすべてを生身の体で完遂する必要はもはやなかった。ある程度のところまでは自分の肉体で踊り、以降はモデルの肉体で造形する……いわば身体運用のハイブリッドの可能性が、すぐそこに見えているように思われた。そして、そのようにして完成されたダンスもまた複製可能なモノであるとするならば、CDに書き込まれた複製音楽をあらゆるプレイヤーで再生できるように、私の身体運用を私以外の肉体で再生することができるはずだった。
私の身体運用を再生する身体とは、ある意味で私そのものであるように思えた。私は一つの画面上で複数の私が踊るさまを夢見た。完璧に調整された私の身体運用がデータとしてインターネットの海を漂い、やがて漂着した見ず知らずの誰かの端末で、私とも私のモデルとも無関係な肉体において再生されるのを夢見たのだ。
残念ながら、これらの夢は今日なお実現していない。
当時金のない学生だった私には、モーションキャプチャの環境を導入する余裕もなかった。もっとも今思えば、Kinectを導入したところで今度はモーションキャプチャの精度や解像度が問題になっていただろう。仮に踊られたものを首尾よくデータ化できたとして、それを調整する作業もまた思い描いたようにはいかなかっただろう。モデルを粘土細工のように捩じって1コマずつ動きを調整する作業は、予想をはるかに超えて面倒だった。同じ理由で、棒立ちのモデルにゼロから振付をつけていく方法も、私にとってはまったく現実的ではなかった。
ただし、それはあくまでも、私個人にとってはという話である。民主化された魔法と広く開かれたプラットフォームは、集合知的に、生態系的に、いつのまにか私の夢想をある程度は現実のものとしつつあった。
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