ヒトのかたちの魂
あれから10年もたった今、どうしてこんな話題を蒸し返す気になったのかといえば、いつのまにか時代が進んで、本稿で見てきたような状況が一歩進んでいるのに気がついたからである。
先日、池袋の映画館に映画を見に行ったときのことだった。
本編上映前の予告編で見慣れないアニメが流れていた。「夜子・バーバンク」と名乗る3DCGの女性キャラクターが、情報番組のような体裁で来月公開の新作映画を紹介をしている。こんなところにまでアニメが使われるようになったのか、という小さな驚きと、なぜわざわざこのような体裁で予告編を上映するのか、という違和感を抱きながら眺めていたが、どうも様子がおかしい。まず、映画館で流れるアニメとしてはキャラクターの動きが妙にぎこちない。口上もテレビで耳にするナレーターのそれとは程遠く、それらを真似た素人のような独特のたどたどしさがある。そこまで考えて、ああ、これは噂に聞くバーチャルYouTuberなのだと見当がついた。
2011年、YouTubeが広告プログラムを解放し、一般ユーザーが動画投稿を通じて収益を上げられるようになると、これを生業にしようとする人々が現れた。YouTuberと呼ばれるこれらのユーザーは自らがメインパーソナリティとなって、まさしく「やってみた」的なこととか有益な情報だとかを動画にして配信しているわけであるが、このご時世、なにもそういうことを生身の身体でやらなくても構わないと考えたユーザーが、モーションキャプチャとCGのモデルを使ってYouTuberをやるようになった。こうしたユーザーは、2016年12月に投稿を始めたトップランナー「キズナアイ」がそう名乗っていたことから、今ではバーチャルYouTuber、略してVTuberと呼ばれている。
興味深いことに、夜子某は特有の拙さにおいて直観的にはVTuberっぽいと感じられたが、しかし、その場でVTuberであると確信することはどういうわけかできなかった。よく考えれば、あらかじめ知らなければ確信しえないのだ。当該のキャラクターがモーションキャプチャによって動き、同じ身体から発せられた声をあてられているのか、あるいはアニメとして作られたものに後から声優の声がつけられているのかは、作業工程を明かされなければ知りえない。夜子某の存在が脳裏で宙ぶらりんになったまま家に帰って調べてみると、はたして、夜子某はVTuberであった。とはいえ、企業の広告案件として制作された動画が、普段の投稿と同様にモーションキャプチャで作られている保証だって、実はどこにもないのだった。これも、一種の哲学的ゾンビ問題である。
ハリウッド映画に登場するCGとは異なり、VTuberのモーションキャプチャの精度はそれほど高くないが、それでも無意識の動きがキャラクタとしての存在感を醸し出しているとも言われるくらいにはモデルがユーザーの身体運用を反映する。しかしだからといって、画面のなかで動くVTuberが、実際に身体を運用しているのか、はたまた別の身体によるモーションの複製を流し込まれているのか、実は我々には知りえない。最近では「キズナアイ」もテレビの音楽番組に現れて歌ったり踊ったりしているが、あれだって「中の人」がわざわざ現実空間のスタジオで動いているのか、初めから仮想空間のなかだけで処理されているのか、本当はわからない。
さらにややこしいことには、そもそもが仮想空間の中に存在するVTuberにおいては、身体運用ではなく肉体のほうを複製することも比較的容易である。すでに「キズナアイ」の肉体は、ネット上の別のユーザーによって素人目にはほとんど見分けがつかないほど精巧に複製され、3Dモデルデータとして広く流通している。「キズナアイ」の振付付きのオリジナル楽曲「AIAIAI」も、その振付がモーションデータ化され流通している。試みにYouTubeで「キズナアイ MMD」と検索してみれば、「キズナアイ」が「AIAIAI」を踊っている動画が無数にヒットする。もちろん、その大半はオリジナルの「キズナアイ」が投稿した動画ではない。こうした海賊版(というわけでは別にないのだが)と、音楽番組で流れる映像との違いを、我々は容易には指摘できない。というか、同じモデルが同じ身体運用を再生しているのだから、事実上そこにはほとんど差異がない。さて、目の前で動いているモデルの、「中の人」とはいったい何なのか。それは存在するのか、しないのか。哲学的ゾンビ問題は、ここにきてもう一段煩雑になっている。
しかし、VTuberではなく3Dモデルの立場で考えてみたならば、話は意外にシンプルなのかもしれない。ああそうか、存在しない身体を持つ者たちは、10年の時を経て、ついにヒトのかたちをしたオリジナルの「魂」を手に入れたのだ。言ってみれば、ただそれだけのことである。
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