人間圏、非生命の神秘
2016年に亡くなった金森修は、自らの仕事を「科学思想史」と呼んでいた。
ガストン・バシュラールに始まりジョルジュ・カンギレム、ミシェル・フーコー、フランソワ・ダゴニェと続くフランスの科学認識論を、金森は日本にいち早く紹介してきた。金森自身の言葉を借りれば、科学認識論とは科学史と科学哲学の融合であり、科学的思考に対する精神分析であった。科学的な営為の外側には、科学者の理念や思想的背景があり、科学者をとりまく界隈の力学がある。そして個別の科学の来歴が「科学史」として語られるとき、そこには必ず、何らかの規範的な意識が介在する。こうした科学にまつわる「科学外的」なものに焦点をあてて、時代を彩ってきた科学がどのような「認識」のもとで発展してきたかを紐解くのが金森の仕事である。
そんな金森の仕事は、2010年あたりを境に明らかに変質している。
見過ごしがたい特異点は2つある。ひとつは2010年に出版された、錬金術やゴーレムに関する伝承ばかりを扱う『ゴーレムの生命論』。そしてもう1つは、没後2年が経ったのち2018年に出版された件の遺著『人形論』である。どちらも金森にとって、まったく専門外の話題なのは言うまでもない。とりわけ最期の仕事が科学ではなく「人形」だったことへの疑問は、金森の足跡を追う者なら誰もが抱くに違いない。
実際のところ、金森は金森で、2つの本のなかで神経質なほどに弁明を重ねている。「中核に到達するのは、実は私には無理だ」「『半可通が余計な口出しをするな』と、どうか怒らないでいただきたい」[3]「(自分の専門領域と)かなりずれていると直感される」「個人の圏域や能力を大きく超えている」[4]等々……。反面、巻末にならぶ膨大な量の参考文献は、単なる余技の範疇をはるかに超えている。素直に見れば、弁明も文献の多さも研究者としての謙虚さと真摯さの表れであろうが、どうしても頭をよぎるのは「憑かれている」とか「突き動かされている」という形容である。
いや、彼は自分の仕事を全うしただけなのだ、というのが一般的な見方なのかもしれない。『人形論』を含めた晩年の著作に対するよくある評価は、「人間以外の存在について論じながら、結果的に人間について論じている」というものである。たしかに、最後の数年間の著作は、いつも終盤で同じような話題にたどりつく。それらはみな、「人間」なるものの境界線をめぐる認識の議論であった。
人類は、技術によって自らの存在を外側に押し広げようとしてきた。過酷な環境でも、病を患っても、技術の補助によって生存できるようになり、ついには本来生命を保つことの難しかったものでさえ、技術を外骨格のように身にまとい生きるようになった。その様態は強化された新しい人間のようでもあるが、逆説的に骨格の内側にある生命そのものは、生きるための技術を発揮することなく生きているこの危うい境界線上の存在は、常に境界線そのものの引き直しによっていつのまにか「人間」の外側に置かれていることがありうる。現に、こうした者たちの一部は、「脳死」という認識論的なスイッチによって、モノとして贈与と交換の原理に組み入れられることにもなった。あるいは戦時中に人体実験の検体となった捕虜、あるいは科学と権力によって家畜のように健康を管理される、今日の我々自身……等々。
と、こういう議論自体はなんら珍しいものでもないが、目を引くのは金森がこの「どこまでが人間」という境界線の内側を、〈人間圏〉という奇妙な造語で呼んでいることである。
〈人間圏〉とは、境界線の内側にいる者は「人間」とみなされ、外側にいる者は「人間」ではないものとして扱われる、そのような領域のことである。技術は人間が人間として生きていくことのできる領域を拡大し、死んでいたはずの者や生まれていなかったはずの者さえ〈人間圏〉の内側に囲い込む。その反面、技術がそれを必要とする場合には、議論や人々の認識の変化によって境界線が内側に引き直され、「人間」が「資源」とみなされることもある。技術は〈人間圏〉の拡張を欲望し、認識は〈人間圏〉への囲い込みを、あるいは〈人間圏〉からの締め出しを行う──〈人間圏〉という奇妙な空間的比喩にそって言い直せば、金森の〈人間〉観と技術論はそのようにまとめられる。
そのうえで、という話なのだが、『人形論』における金森の眼差しは「〈人間圏〉からはみ出す存在」にではなく、どうやら「〈人間圏〉内に突如として現れる、人間ではない者たち」に向けられている。別の言い方で言えば、金森はまるで生命倫理を扱っているかのような構えで、実は非生命の神秘を扱っている。
上記のような脳死患者とは逆に、基本的にはモノであるが単にモノとも言い切れない存在として金森が挙げるのは「現代のゴーレム」たちである。万能細胞によって作り出される、誰の身体にも属していない培養肉や臓器。あるいはその延長にある、来るべき未来としての人工生命。それらの技術の根底にある、錬金術から今日の再生医療に至るまで科学の歴史を貫く、ゼロからモノ/生命を生み出す神の技術への欲望。
ゴーレムや人形とは、つまりは〈人間圏〉の辺縁におかれた者である。それらは人間の手によって作られ、人間のかたちを与えられることによって〈人間圏〉の周縁に現れるが、決して人間とはみなされない。その姿は、〈人間圏〉からの締め出しをくらった人間たちと、一見重なり合うように見えなくもないし、そういう風に考えれば、金森が科学哲学の仕事の延長として人形を扱ったことに一応の筋は通る。
しかし実際には、金森自身の言説空間において、人形たちはそれらの境界線上の人間よりもはるかに自由に、そして唐突に、〈人間圏〉の敷居をまたぐ。それらは〈人間圏〉から締め出されているどころか、その境界線の内と外を行き来することができる。「娘の片腕」がそうであったように、あるいは、多くの私秘的な空間で今日もなおそうであるように、人形はまるで人間のようにして愛される。その不思議への憧憬。人間のかたちをしたオブジェクトがひとりでに動き出す、人間未満のオブジェクトが生命の鼓動を宿す、その瞬間に対する執着。むしろこれらの憧憬と執着のほうから出発して、最終的に彼自身の哲学へと戻りつくための理路を探していたのだと考えるならば、晩年の仕事のいくつかがなぜそのように書かれたのか、納得できるような気がする。
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