21世紀の『片腕』論
実は『片腕』には、冒頭の引用で書かなかった続きがある。
ひとしきり娘の片腕と寄り添い、愛でることに飽きた男は、次第に耐えられなくなり、あろうことか自分の右腕を外し、娘の片腕と取り替える。はじめは異物のように、男の右肩にだらりと垂れ下がっていた腕に、だんだんと血が通ってくる。白くほっそりとした手指の先まで、男の意識が通う。自分の身体と、いや自分の魂と接続し、さっきまでとは別のやり方で魂を宿した片腕に、男はあらためて恍惚とする。
その直後、はっとして気がついて振り返ると、ベッドにごろりと投げ捨てられたままの、自身の片腕が目に入る。男は取り乱し、衝動的に娘の片腕をもぎとると、自分の片腕と付け替える。先ほどまで人間のように接していた娘の片腕が、ただのモノのようにして投げ捨てられるのはその時である。
このくだりを描写しながら、金森は打ち捨てられる娘の片腕ばかりを話題にし、男自身の右腕にはまったく注意を払っていない。しかし人形論的に『片腕』を読み解くならば、娘の片腕がモノと人間を行き来することだけではなく、そのように認識した男自身の片腕が知らぬ間に人形化していることに妙味がある。娘の片腕に魂が移り、男の片腕が抜け殻となるさまは、我々が能動的に人形に魂を宿す理路があることを示唆している。魂は、我々の認識によってのみ宿るだけではない。我々自身の魂を分け与えることによっても宿るのである。
娘の片腕の使い心地はどうだっただろうか。あわよくばその腕で踊ってみたいと思っただろうか。そのように娘の片腕で生きたとき、残された男の片腕はすでに人間であるかどうかが怪しい。男はみずからの肉体もまた物質であることを実感し、自分の片腕がまさしくモノとして自存しているさまに恐怖した。
しかし、このとき仮に、捨て置かれた男の片腕も、魂を分けた娘の片腕も、同じひとつの魂によって駆動することができるとしたら。ひとつの魂が管轄する「散乱した四肢」の総体を、「身体」と呼ぶことができるとしたら。BMIの普及など待たずとも、すでに「世界に散乱した四肢」はフィクションではない。もしも『片腕』が21世紀に書かれていたのなら、外された男の片腕は、外されてもなお生き生きと動いていたに違いない。もっともこれは、3本腕の身体を運用するのに十分なくらい、男の魂が高い次元にあればの話だが。
さて、金森の思考には今後も随時頼ることになるだろうが、今はこれくらいにしてひとまず次に進みたい。
人間の技術によって作られたゴーレム、人形、あるいは3DCGモデル、そして人工生命。その運動、その生命、その一生。金森の仕事を通じて本稿で取り上げたこれらの話題を、フィクションの中で詳細に検討し思考実験したSF作家がいる。寡作で知られ、しかも短編ばかり書くことで有名なその作家の作品に、金森の思考の続きを読むことができる。
決してありふれた話題ではないこれらの対象を、金森とその作家が時を同じくして扱った偶然の符合に驚くべきだろうか。もちろん、答えは否である。その符合はこれらの「新しい体」が、今日論じられるべき話題であることを意味しているに過ぎない。とすれば、このSF作家もやはり、身体論の範疇で扱われるべき対象だが、今のところそのような切り口から語られているのを目にしたことはない。
もう既にお気づきだろうか。これから我々が扱うのは、当代最高のSF作家の1人、テッド・チャンである。
[1]ジョルジュ・カンギレム『正常と病理』滝沢武久訳、法政大学出版局、1987年、124頁
[2]川端康成「片腕」、『眠れる美女』新潮文庫、1967年、135頁
[3]金森修『ゴーレムの生命論』平凡社、2010年、8–9頁
[4]金森修『人形論』平凡社、2018年、8頁
[5]同書、71頁
[6]同書、76頁
[7]同書、219頁
[8]金森修『動物に魂はあるのか──生命を見つめる哲学』中公新書、2012年、221頁
[9]同書、212頁
[10]同書、235頁
[11]金森修『人形論』、62頁
(第2回・了)
この連載は月1回(第3金曜日)更新でお届けします。
次回2021年7月16日(金)掲載