みんなで同じ肉を得る
しかし、それだけではない。アバターの乗り換えには、扱うかたちが変わるということ以上に大きな意味がある。
そこに開かれているのは、同じかたちが無数の魂によって使いまわされる可能性、言いかえれば肉の体が一種の公共物になる可能性である。そのとき我々の魂は、音楽がダンサーにとっての環境であるのと同様、肉体そのものもまた一種の環境に他ならないというまぎれもない事実を思い出す。
言葉は他者に向けて発せられ、あらゆる段階において、他者という制約が言葉の編まれ方を変える。この場合の他者とは、「私」以外の人間だけでなく、「私」以外のすべてを指す。それらの他者をまとめて、環境と言い換えてみてもよい。
ダンスの場合、そのような他者とはたとえば音楽である。無音ならば自らの中で流れる音を頼りに踊ることもできよう。しかし環境に音楽があれば、音楽とどのような距離をとるかを選ぶことはできても、音楽からなんの影響も受けずに踊ることはそれなりに難しい。身体運用は身体の記憶を縦糸に、音楽を横糸にして編み上がる。結果として出力された運動が、あとから振り返ればその音楽抜きでは発生しえなかったであろうと思われることは少なくない。
音楽シーンの更新は、不特定多数の身体が同じ新しい他者に直面することを意味する。まったく新しい様式の音楽が供給されれば、それと体で対話するためのダンスシーンが生まれる。あまねく再現可能な新しい身体の使い方が発見されれば、ダンスシーンも大きく動く。流れの速いダンスシーンでは、踊るのをたった数日休んだだけで、他のダンサーがもう自分の知らないステップを踏んでいるという[9]。それはいうなれば、新しい環境を集団で開拓するための、身体運用のフロンティアである。開拓の歴史がある程度蓄積されたとき、一連のボキャブラリーはそれを発生せしめた音楽とともに、ひとつのジャンルとして名前を与えられることになる。
さて、音楽がそうであるのとほとんど同じ意味において、肉体はダンサーにとっての他者であると言ってよい。
体と魂が予想通りに同期して、同じかたちをなして動いている日常生活の大半の時間、我々はその事実を忘れて過ごしている。それは操作することの可能なオブジェクトでありながら、魂の運動と常に同じ軌跡を描いているとは限らない。描いた軌跡を見返すことさえできないまま、我々は描き続けねばならない。踊ることは、目をつぶって絵を描くことに等しく、目をつぶったまま描いた想像上のダンスはいかようにも美しくなる。実際に踊っている自分の体を目の当たりにして初めて、我々は自らの魂に課せられた肉の制約に気づく。
それでも我々は、いまのところ持って生まれた体で踊るしかない。そして、その体でいかに踊るかという問題は、たまたまそれを持って生まれた個体にのみ帰属し、複数個体のあいだで完全に共有されることは原理的にありえない。ここが音楽とは違う。我々は持って生まれた体で踊るしかないし、たとえ無数の体が同じフロアで群れていたとしても、踊っているときは一人ぼっちなのである。
この孤独といかに向き合うか、という問題の解として、ギブスン式の仮想空間、あるいは過去の偉大なSF作品群は、没入さえすれば肉の体を忘れられるという世界観を提示した。これに対してチャン式の仮想空間が提示するのは、みんなで受肉しなおすという別の解決策だということになる。まるでクラブに音楽が充満するようにして、新しい肉体が行き渡ること。同じリズムで無数の体が揺れるように、同じ肉の制約を無数の魂が味わうこと──。
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