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2021.07.16

第3回:仮想空間と四本腕のダンス
──かたちが踊る、かたちを換える

踊るのは新しい体 / 太田充胤

今日の没入様式、今日の記号的身体

 話は少し逸れるが、2018年に『レディ・プレイヤー1』という映画が公開されたのを覚えているだろうか。「ソフトウェアオブジェクトのライフサイクル」が発表されてから10年後、ちょうど我々にとってもVR技術が身近なものになりはじめた頃のことである。数多くのSF映画を手掛けてきた巨匠スティーブン・スピルバーグの監督作品なのだが、彼が描いた仮想空間は──というよりも、仮想空間に没入する人類の姿は、端的にいって滑稽だった。
 映画の舞台は、近未来のVR型オンラインゲーム。もちろんゲームである以上、その中で活動する人間=キャラクターは、自由自在に飛んだり跳ねたり、それはもう超人的な身体能力を発揮する。一方で、そこに没入するプレイヤーは、攻殻機動隊のように電脳を搭載したサイボーグでも、初めから仮想空間で育った人工知性でもなく、生身の人間である。彼等が仮想空間の体で感じ、動く方法は、ヘッドマウント式のディスプレイ、グローブと衣服のかたちをした装着型のコントローラ、そして足元には全方向に動くトレッドミル。どうやらプレイヤーは、仮想空間内で人形を走らせているあいだ、現実空間を肉の体で走っているらしい。いわば肉の体をコントローラとして、仮想空間内の肉を動かしているわけだ。
 現実の運動が仮想身体の運動にどのように翻訳されているにせよ、現実空間の体はそれ相応に汗をかかねばならないはずだ。仮想空間で超人的な身体運用を発揮するとき、プレイヤーの肉体はその負荷を少なからず受けて時に悲鳴を上げるだろう。そのくせ、スタープレイヤーとしてゲーム界を騒がせる同作の主人公は、現実空間では軽度肥満のギークとして描かれる。このあたり、制作陣は自分の体でVRゲームをプレイしたことがなかったのではないかと思わせる滑稽さがある。
 奇しくも私は、同作を『マトリックス』シリーズを観たのと同じ映画館で鑑賞した。映画館を出て、ここははたして現実空間だったか、これは生身の体だったかと、『マトリックス』のときと同じ錯覚に襲われ、それを心地よく感じもしたのはたしかである。その一方で、人類の想像力は映画においてさえ、我々が肉の軛から逃れることを許さなくなったのかと隔世の感もあった。
 もちろん上記の没入環境は、仮想空間のオブジェクトが肉のコントローラの動く通りにしか動けないことを意味しない。これらのデバイスは、我々が仮想空間における身体を二つのレベルで運用できることを意味している。我々の肉体そのものがコントローラとなる水準のほかに、現実空間での肉体の動きを翻訳して、別のやりかたで仮想身体に反映する水準がありうる。たとえばボタンを押すという指先の運動が、移動とか視点変更というかたちで、仮想身体に指先の動き以外の根本的な変化をもたらすこともあるわけだ。両手に握ったコントローラとはつまり、現実空間と仮想空間のあいだ、肉と肉のあいだに介在する翻訳装置にほかならない。

 我々の魂は翻訳によって何を捨て、何を手に入れるのか。受肉することのやり直しとは、結局のところ取捨選択の問題であるようにも思われる。
 たとえば今日利用可能な技術だけでも、五本の指の動きを適切に翻訳すれば、我々は仮想空間で指を失う代わりにイカのような八本足で踊ることができるのではないか。

 私個人はイカの体を試してみたいとかなり強く感じる。流線型の体で泳いだり、八本足と二本腕を駆使して存分に踊ってみたいと思う。しかし現実問題として、イカのためのコントローラは広く普及してはいない。理由は技術的なものから商業的なものまでたくさんあるだろうが、もっとも本質的な点は、世の中のニーズが肉のかたちではなくオブジェクトの記号性にこそあるということなのではないか。
 そういえば、第1回で少しだけ触れたVTuberを含むVR界隈には「バ美肉」というミームがある。バ美肉とは「バーチャル美少女受肉」の略で、「バ美肉おじさん」のように使われることからもわかるように、現実空間では美少女でない体を持つ者が、仮想空間において美少女のアバターを身にまとうことを意味する。
 やはり美少女というくらいなので、それらのアバターはすべて、二本腕・二本足のかたちをしている。ユーザーは体のかたちを乗り換えていると言えなくはないが、体の見た目を乗り換えているところが大きいような気がする。もちろんかたちと見た目は不可分であるし、「おじさん」の身体運用と美少女の身体運用は同じではないから、魂のかたちをある程度変える必要もあろうが、最も大きな変化が生じているのは提示される記号の水準である。
 批評誌『ユリイカ』で「バーチャルYouTuber」特集が組まれた時[10]、「身体」という言葉を使って件の対象を論じた論者はごくわずかしかいなかった。そのわずかな論者も、アバターのかたち、たとえばそれが二本腕か四本腕かなどという点には露ほどの興味も示してはおらず、論じられていたのはまさに、新しい肉が記号として提示されるやり方についてだった。
 まあ、当たり前と言えば当たり前なのだが、そろそろ四本腕で踊るYouTuberみたいな人が登場してもいいのにな、と密かに思っている。私が知らないだけで、広大なインターネットのどこかにはもういるのかもしれないが。

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