3DCG、VTuber、アバター、ゴーレム、人形、ロボット、生命をもたないモノたちの身体運用は人類に何を問うか? 元ダンサーで医師でもある若き批評家・太田充胤の「モノたちと共に考える新しい身体論」、連載第4回は機械たちの身体運用を考えていきます。機械人間「オルタ」、人型ロボット「ペッパー」、4本脚ロボット「スポット」の夢の饗宴。
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土方は肉体素材を並べ、そして見る。物語は「その後でやってくる」。踊りはその物語を呑みこむ。物語は踊りの糧である。踊りはだれでもないもの、名づけられないもの、だがそれは非-他性の親密な肉であるかぎり、すべてにおいて隔絶した〈他なる者〉であるはずがない。物語はそうした無名の肉=闇の固有名である。……舞踏は肉に書き込まれた深淵の「仮説」であるにちがいない。[1]
──河村悟『舞踏、ただそれゆえに』
機械と対舞する
こんにちは。どこからきたの?
目の前の男にそう話しかけられて、人間のかたちをしたそれは「うう」と声をあげる。男に顔をのぞき込まれ、それは応答するかのようにわずかに首をかしげ金属の腕を持ち上げる。
顔と前腕だけは白い皮膚で覆われているが、それ以外の部分、たとえばその前腕を持ち上げる上腕や、白い能面を男へと向けている首筋には、むき出しの内部構造が銀色に光っている。
身長何センチ? ……いや、あんまり身長なんて聞くの、よくないか。
男は続けて問いかける。それは言葉では答えない。男が糸口を探そうとして次いだ言葉、答えそのものは実際にはどうでもいいその問いは、案の定というべきか、行き先を失ったまま宙に浮いて消える。
いや、しかし、それが男を無視しているとは言い切れない。本当は、それはちゃんと応えているのかもしれない。意味によってではなく身体運用によって。人間の言語的交流とはまったく異質な方法で。それ自身の内にのみ秘匿されたアルゴリズムで。
というのも、それはそもそもの最初から、外部環境に反応してその身体を運用するよう造られているのだった。
男の名前は森山未來という。俳優で、世界的に名前を知られたダンサーでもある。他方、人間のかたちをしたそれは「Alter3」、俗にオルタと呼ばれている。人間型ロボットの第一人者である石黒浩の研究室と、複雑系や人工生命を専門とする池上高志の研究室とが共同で造った、人型の機械である。
人間と機械とが対舞する件の映像は、ジュスティーヌ・エマールの《Co(AI)xistence》という作品だった。全長12分の作品だが、その一部がYouTubeでも公開されている。
私はその映像を、2020年に東京都現代美術館で開催されたメディアアートの展覧会「おさなごころを、きみに」の中で見た。
端的に言って、それは映像作品としては、森山の技量に全面的に依拠するかたちで成立している程度のものに思われた。踊る森山に対して、向かい合うオルタが踊っているとはどうしても言いがたかった。
いや、別に踊れることが偉いわけではないし、そもそも踊っているとオルタの側で銘打っているわけでもない以上、だからなんだということになるのだが、より適切に表現するならば、その身体運用に見入るようなところはほとんどなかった。モノとして目を引くはずなのはどう考えてもオルタのほうなのに、自然に目がいくのは何度見直してみても踊っている森山のほうだった。森山のソロと割り切って観れば面白くもあったが、それはほとんど独り相撲のようだった。目の前に機械が配置されたことの効果は、定かではないように思われた。
おかしい、と思った。肩すかしを食らったような気持ちもあった。というのも、私がかつて見たことのあるオルタは、もっと生き生きと踊っていたからだ。
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