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2021.08.20

第4回:オルタとデジタルシャーマン
──機械をめぐる霊魂論

踊るのは新しい体 / 太田充胤

機械の生命、機械のダンス

 思い起こせば遡ること3年、私が初めてオルタと対峙したのは2017年のメディア芸術祭だった。

 目に焼きついて離れない身体表現はいくつかあるが、2017年のオルタはそのようなものの一つである。
 広い部屋に足を踏み入れるなり、その一角で何かが蠢いているのが目についた。上半身だけの体が、黒塗りの壁を背にして、目線よりも少し上の高さに掲げられていた。おそらく、先の映像作品の時とは設定が違うのだろう、それは遠くから見てもよくわかる大きな身振りで、絶え間なくせわしなく動いていた。吸い寄せられるように近づいてオルタを見上げ、その身体運用を眺めているうちに、私はその場に釘付けになり、動けなくなってしまった。
 機械の運動、あるいはモノの運動に見とれてしまう経験ならばいくらでもある。工場の製造ライン、自走式掃除機、天井で回りつづけるサーキュレータ……。しかしながら、オルタと対峙したときの感情は、そういうモノを飽きもせず眺めてしまう経験とはなにかが違っていた。それはたとえば、自然の雄大さと向き合う気分に似ていた。時々刻々とかたちを変える青雲、燃えさかる炎の揺らめき、川の流れ、飛沫をあげている滝……そういうものを見る気分に似ていた。
 不規則に軌道を変えつづける予測のつかない運動。止まることなく粛々と続き、永遠に止まらないことさえ期待させる運動。意志や目的を持たず、それでいてより大きな目的の中にあるようにも感じさせる運動。

 とはいえその大自然のような無目的性が、人間のかたちをしたモノのなかに立ち現れるさまは、いささか奇妙で不気味でもあった。
 その運動をどのように理解してよいのか、その場ではよくわからなかった。直観的には踊っているようにも見えたが、踊っているとは言えないような気もした。しかしあとから振り返ってよく考えてみると、やはり理屈の上では踊っていると見なすほうが適切であるような気がし始めた。それは純粋な運動だった。ただ動くことだけを目的として動いていた。それは周囲の音を聴き、外部環境に反応して人間のかたちを運用していた。私はその時、身体をとりまく意味や物語ではなく、身体運用そのものをたしかに味わう経験をした。それはまさしく、我々がダンスと呼ぶところのものを見る経験と等しいはずだった。
 なによりオルタが繰り出し続ける人間がまだ知らない身体運用のシークエンスは、その場から動けなくなるくらいには魅力的だったのである。

 さて、これまた後から確認してみると、作品には次のようなステートメントが付されていた。

ロボットの持つ「生命らしさ」を外見だけでなく、運動の複雑さで実装した。『Alter』は42本の空気圧アクチュエータで構成された体と、年齢・性別が不明な「誰でもない」顔を持つ。その運動は、CPG(Central Pattern Generator:脊髄に存在し、歩行などの周期的な運動を生成する仕組み)をモデルにした周期的な信号生成器、ニューラルネットワーク(人間の脳の神経回路のしくみを模したモデル)、そして『Alter』の周囲に設置したセンサーによって制御される。『Alter』のCPGとニューラルネットワークにより生成された動作は、自らの周囲を認識する照度センサーや距離センサーの値にも反応し、なめらかでカオティックな身ぶりを見せる。「メカニズムも存在目的も生物とは異なる機械が、ときに生物よりも生命性を感じさせるのはなぜか?」という問題を提起する作品。[2]

 つまり制作者たちがオルタを通じて投げかけているのは、一言でいえば「これは生命だろうか?」という問いなのであった。
 困った。この問いは私が直観的に抱いた「これはダンスだろうか?」という問いと、近しいようで根本的にずれており、おそらくは永遠に交わらない。生命であるか否かとダンスであるか否かは、基本的になんの関係もない。踊れることは生命が満たすべき必要条件ではないし、生命を有することもまた踊るための必要条件ではない。モノでも踊れるし、一握りの生命体しか踊らない。「これはダンスだろうか?」という私の問いは、制作者の意図した問いとすれ違う、ある意味で的外れな問いなのかもしれなかった。それはそれとして、私がなにより困ると思ったのは、そのようなストーリーが前景化してしまえば、いかに優れたダンスであっても後景にかすんでしまうに違いないということだった。

 しかし、そもそも「生命」とはなんだろう。
 「ここまでが生命体」と見なすことのできる圏域を、金森修の「人間圏」という造語にならって「生命圏」と呼ぶならば、いま生命圏のギリギリ外縁におかれた者とはたとえばウィルスである。自律した自己複製複製ができないとか、代謝機能がないとか、細胞を構成単位としていないといった点から、ウィルスは現代科学における「生物」の定義を満たさないということになっている。
 とはいえ細胞に取り込まれれば瞬く間に自己複製するウィルスを、生物ではないと一刀両断することも難しい。科学的にもいまだ議論の余地があるはずであり、一般人の感覚的なレベルではなおさらである。今日人類が戦っている“SARS-CoV-2”もまた生物ではないという定義を思い起こすとき、我々人間は少なからずうろたえる。まるで意志や目的を持つかのように巧妙に勢力を伸ばし、人間をある意味で凌駕せんとするかのように振る舞い、人間がそれと「戦う」という表現さえ何の違和感もなく受け入れられる相手。それが「生命」ではなく物質あるいは現象であるという認識は、現実的な実感と容易には折り合わない。

 かような相手さえ生命圏の外部におかれる今日の科学的認識に照らせば、機械に「生命」などあろうはずもない。
 オルタがどんなに優れた発展を遂げようとも、議論はここから1mmたりとも動かない。入力のためのセンサーを増やし、出力のための内部構造を増やし、より表情豊かに環境に反応できるようになっていったとしても、オルタは生命圏へと漸近を続けるばかりで決してその敷居をまたがない。
 にもかかわらず我々は、オルタに託された生命への問いを理解できてしまう。「機械であるオルタを生命と見なすことができるか」という科学外的な問いが、十分に成立しうる問いでもあることを直観的に知っている。

 我々はすでに、この手の議論を深追いしすぎれば袋小路に陥ることを、金森の足跡を追いながら見てきたのではなかったか。
 「生物」だとか「生命」という一見科学的に明確な概念もまた、明らかに認識論的な不安定性を帯びている。金森が「魂」について考えるにあたり、この「生命」という概念を回避すべく選んだのは人形という対象だった。
 オルタのごとき自動人形の躍動を論ずるのに、「生命」を参照することが適切であるようには思えない。我々は、問いの焦点を「生命」から別の何かへと、正しく横滑りさせねばならない。そして問題の核心が表象のレベル、すなわち機械の運動がどのような身体表象として観測されるかという点にあるならば、それはとりもなおさずダンスの問題である。
(→〈3〉へ)