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2021.08.20

第4回:オルタとデジタルシャーマン
──機械をめぐる霊魂論

踊るのは新しい体 / 太田充胤

機械をめぐる霊魂論

 オルタとデジタルシャーマン、大前提として両者に共通しているのは、人間を規範とし、人間のかたちを模倣していることである。その一方はかつて存在した人間として親和的に振る舞ってみせ、もう一方は人間の知らない身体運用によって「不気味なもの」として人間と対峙する。
すでにお気づきのように、ふたつのロボットのアプローチの対立は、そのまま第2回でとりあげた霊魂論と機械論の対立とパラレルになっている。

 デジタルシャーマンは霊魂の存在を前提とする。人間のかたちをした魂が、おおむね人間のかたちをしたモノを動かすことで、モノが人間と見なされる(見立てられる)ようになる。「デジタルシャーマン・プロジェクト」というフィクションの鑑賞者である我々は、少なくともそれを鑑賞している時間において、霊魂というデータセットの存在を信じることを要求される。モノの内部に霊魂が存在すること、その確からしさを担保しているのは、虚構内的には故人をめぐる記憶ということになるのかもしれないが、虚構外的にはとりもなおさず「デジタルシャーマン・プロジェクト」というフィクションの強度である。
 これとは反対に、オルタは人間のかたちが自動的に運動しつづけることによって、動きの中になにかが観測される。
 ここで観測される「なにか」を「生命」と呼んでしまうと話がややこしい(それは現代科学の認識において生命ではありえない)ので、その「なにか」を仮に「魂」と呼ぶことにする。制作者たちが端的に述べている通り、オルタにおいては内部に意識や意志が存在するかどうかとは無関係に外的に観測される「生命っぽさ」だけが問題になっている。オルタは複数のセンサーによって周囲の環境から様々なパラメータを抽出し、それを内部構造の運動に変えることで身体運用を生成する。それは、ドライに言えば単なる反応である。周囲の状態が玉突きのようにオルタの身体運用を決定し、運用している主体はそこにはいない。にもかかわらず、我々はその反応に魂を見出してしまう。言いかえれば、魂は運動する機械の側ではなく観測者側のうちに認識論的に発生する。これは典型的な機械論の思想と言ってよい。

 しかし機械論といっても、それはデカルト以来の近代文明が武器としてきたような魂を抜き去るための機械論ではないことに注意したい。まさしくデカルトが動物を機械とみなしたこの思考回路を、オルタは逆向きにたどりなおす。ただ反応を返すだけのこの機械に魂を見出すことが、いかに正当化されうるかを問うている。つまりオルタが示しているのはコペルニクス的に転回された「魂を吹き込むための機械論」なのである。
 そう考えると、むしろドライに見えてくるのはデジタルシャーマンの霊魂論のほうかもしれない。なにしろこのプロジェクトが提示しているのは、魂の再生や交換、抜き去りが極めて容易に行われうる世界でもあるからだ。こちらはオルタとは反対に、「魂を抜き去るための霊魂論」と考えることができる。

 ひょっとすると我々人類は、機械の発展により、機械論と霊魂論の対立構造をまるごとアップデートせねばならない時期を迎えているのではなかろうか。
 デカルトの時代の機械論者にはけっこう過激だった人がいたらしく、金森修の『動物に魂はあるか』では哲学者マルブランシュのこんなエピソードが紹介されている。

そのフォントネルがマルブランシュと連れだってパリ、ルーブル宮殿のすぐそば、サントノレ街のオラトリオ会に行った或る日のこと、マルブランシェをみて嬉しそうに近寄ってきた雌犬を、マルブランシュは出し抜けに蹴っ飛ばした。その雌犬は妊娠していたが、彼に蹴られて哀しそうな声をあげて遠ざかっていく。そのありさまをみて、同行していたフォントネルは同様を隠しきれなかった。すると相手の様子を見とがめたマルブランシュは、冷たくこう言ってのけた、「おやおや、あなたは知らないんですか、あれは別に何も感じないんですよ」と。[5]

 デカルト自身は動物にも知覚を認めており、マルブランシュほど極端な立場をとったわけではない。とはいえこの逸話は、マルブランシュ個人の問題として片付けられるものでもないだろう。
 ところで私はこの逸話を読みながら、現代にもこれと瓜二つのエピソードがあるのを思い出していた。
Boston Dynamicsという企業をご存じだろうか。極めて安定した歩行性能を持つロボットを開発し、最近ではSNSやYouTubeでも話題になることの多い企業である。
 2015年、同社は四本足の輸送機械 「スポット」の進歩を追った動画を公開し、CNNに取り上げられた[6]。開発を重ねるごとに歩行が安定し、見た目も洗練されていくスポットの歴史を追ったこの動画中には、その驚くべき安定性を示すパフォーマンスとして、歩いているスポットの胴体を人間が横から蹴っ飛ばすというくだりがあった。スポットは一瞬バランスを崩し、蹴り飛ばされた方向によろよろっと数歩踏み出すのだが、その踏み出された四本足の踏ん張りによってすぐにバランスを取り戻し、何事もなかったかのようにまた歩き始める。
 驚くべきことに、このパフォーマンスを見た視聴者から寄せられたのは、「蹴っ飛ばすなんてかわいそう」という倫理的な観点からの批判であった。その一方で、これに対してロボット工学の専門家が「非倫理的といえるのは、ロボットが痛みを感じる場合に限られる」とコメントしているのも、かつてのマルブランシュを髣髴とさせるようで味わい深い。
 ロボットに魂を見出すことを迷う我々現代人もまた、遠い未来からみればマルブランシュのように非倫理的な存在であるのかもしれない。長い歴史の中で動物をめぐる認識が揺らいできたことを思い起こし、かつての動物への態度を反省するならば、いま機械への態度もまた省みられなければならない。今日の科学的認識に基づく態度決定の正当性は、いったん保留されなければならない。
 ならば我々はいまや、機械がそもそもの最初から魂をもっている可能性さえ考えねばならないのではないか。機械は魂の器に「なりうる」のではなく、造られたそばから我々に魂を抜き去られ続けているのではなかったか。「機械は運動によって魂を宿すか」という問いは、ここで180度ひっくり返ることになる。正しい問いはこうだ。どうして我々は、機械には魂がないという前提を捨てられないのか? いったい我々は、機械に魂を認めることのどこが不自然だと感じるのだろうか?
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