内部構造と再生、魂の減衰
ふたたび金森修を参照してみると、彼は『ゴーレムの生命論』と『人形論』それぞれにおいて、1つの章をまるごと割いて自動人形を取り上げていた。
自動機械/自動人形の歴史は思いのほか古い。古代ギリシャやローマ、あるいはエジプトの古代文明でも、液体の運動や空気の圧縮を使った自動機械を作っていたという。
初めはごく簡単な玩具のようなものであったり、そうでなければ産業的に有益なものであったりした自動機械は、時代を下るにつれて精密化し、自己目的化していった。14世紀には例えば教会の時計塔に設置された人形のように、自動人形という姿で大衆的な認知を経た。人間をそっくりに模倣したアンドロイドと呼ばれる自動人形が登場するのは、18世紀のことである。
あくまで遊戯的で貴族趣味的な技術として複雑化を重ねた自動人形は、澁澤龍彦の言葉で言えば「生産社会に対する、隠微な裏切り」であった[7]。もっと直接的に言えば、機械のくせに役に立たないということである。そんな自動人形の歴史は、19世紀の後半に最盛期を迎えたのち、20世紀にゼンマイ仕掛けの玩具の登場によって陳腐化すると、その後衰退の一途をたどる。他方、偶然か必然か、ちょうど1920年代に相次いで公開されたカレル・チャペックの戯曲『ロボット』やフリッツ・ラング監督の映画『メトロポリス』あたりを境に、ロボットという言葉が浸透し、ヒト型の労働機械という表象が一般化した。
「ロボット」というのはチャペックの兄が考案した造語だそうで、もともとは機械ではなく人間そっくりの人造人間を指していたようだが、その後のSF史の中で機械を指す概念へと移ろっていった。日本でいえば、手塚治虫の『鉄腕アトム』が発表されたのが1950年代。その後ホンダ製作所が2000年に発表した「ASIMO」や先のペッパーに至るまで、ロボットの概念と人体表象の繋がりは連綿と続いている。
しかし総じて言えば、金森は機械仕掛けの人形をあまり評価していなかった。評価していないと言えば妙な言い方になるが、ゴーレムや人形を「面白い」と感じる金森自身の価値基準において、自動人形は端的に「面白くない」ものであったようである。
先の自動人形史を概観するなかで、金森はチャペックによるロボットの定義を参照しながらこう書いている。「ロボットとは、働く能力はあるが考えることのできない存在、労働機能性には優れるが〈魂〉を持たない存在だ」[8]。つまり金森は、人形には魂の可能性を認め、人間以外の動物にも部分的に魂を認めたにもかかわらず、ロボットには魂を認めていない。たとえそれらが、人間そっくりであってもだ。これはいったい、どういうことだろう。
たとえばゴーレム伝説を扱った『ニフラオート・マラハル』において、人間そっくりのゴーレムはまさしく人間そのものとして扱われていた。村では無口で不器用な変わり者として受け入れられ、人間として普通に生活したり、ときに人助けをしたりした。ゴーレムを土から作った時も、土に還した時も、錬金術師たちは彼が現れていなくなったもっともらしい理由を村人たちに説明されなければならなかった。
一方で自動人形は、その歴史を通じて「まるで人間のように」動くことこそが驚嘆の対象になってきた。そこには常に、「本当は人間ではないにもかかわらず」という前提がある。人間でないからこそ、我々は驚くことができるのである。
金森は自動人形を、同じく人間そっくりに作られた蝋人形との明確な違いにおいて低く評価する。いわく、「蝋人形はいわば〈内面を持たない表面〉であり、模倣と類似の根拠はただ全体の量感とその表面のみにある。他方、自動人形は表面の模倣を内部の機構に依存している」[9]。
蝋人形は動くための内部構造を持たない。筋肉はもちろんのこと、可動関節さえ与えられていない。にもかかわらず魂を宿すから面白い。対する機械は内部構造によって目的を運命づけられている。この「内部構造から出発した論理」は、やがてその論理を理解した鑑賞者に「まるで人間のように」動くことを当然の事実として前提化させる。驚きは初めこそ大きいが、いずれ必ず減衰する定めにある。
なるほど、その感じがつまらないというのは、直観的にはよくわかるような気がする。しかしなぜつまらないのかは、もう少し深く考えてみたほうがよいだろう。金森が踊る自動人形に魂を認めなかった理由は、その「つまらない」という感覚に隠されているはずだからである。
たとえばここにバレリーナの人形があったとしよう。台座のうえにパッセの状態で静止しており、ネジを巻いてやるとピルエットのようにくるくると回る。これは今日の我々の感覚において、とても踊っているとは言えない。我々はそれをオブジェとして美しいと思うことはあっても、面白いと思うことはないだろう。
もう少し複雑な運動が設定されていたらどうだろうか。二本腕と二本足がそれぞれ独立して動くようになっていて、ネジを巻くと20秒くらいのルーティーンで手足を自在に使って踊る。そんなよくできた自動人形が本当にあるかどうか知らないが、あったとしたら上のバレリーナよりは面白いに違いない。精巧なものなら多少は驚くこともできるだろう。しかし、何度かネジを巻きなおすうちに、それが同じ運動しか見せてくれないことを脳が理解してしまったが最後、すっかり飽きてしまうに違いない。我々は初めて人形が動き出すその瞬間、魂らしきものを人形に見出しかけるが、その魂は運動が再生されるたびに減衰し、数十秒のうちに消滅してしまう。
あらかじめ踊るための内部構造を与えられた機械が期待された振付を反復するとき、我々はある意味でしらけてしまう。それは、あらかじめネタが仕込まれていることのつまらなさであり、どういうネタが仕込まれているかを知ってしまったがゆえのつまらなさであり、つまりはネタが割れているということのつまらなさである。
江戸時代にからくり人形を初めて目の当たりにした人々は、まるで小さなモノに魂が宿っているかのような興奮を覚えたに違いない。しかし、やがてそこに種も仕掛けもあることを理解し、その「魂」がフィクションであることを理解すれば、人々の興味の対象は人形の魂ではなく、そのようなフィクションを可能にした技術のほうへと移ろっていくだろう。
すなわち、自動人形の魂は、外的なストーリーの強度に全面的に依存する。からくり人形が一時であっても魂の器となりうるのは、産業機械とちがってフィクションの外骨格を与えられているからでる。それが動くという事実が魅力的なのではないし、その運動自体が魅力的なのでもない。「本当は人間ではないにもかかわらず」という外部に支えられて、自動人形は初めて魂を得る。それは、フィクションとともに摩耗する一時的な魂なのである。
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