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2021.10.29

第5回:ダンサーに魂はあるのか
──データベース・改変・再配布

踊るのは新しい体 / 太田充胤

3DCG、VTuber、アバター、ゴーレム、人形、ロボット、生命をもたないモノたちの身体運用は人類に何を問うか? 元ダンサーで医師でもある若き批評家・太田充胤の「モノたちと共に考える新しい身体論」、連載第5回は踊る生身の人間の身体と魂を考えていきます。人がダンスを踊るとき何が起きているのか。人はなぜそれを「ダンス」と認識するのか、そして踊る体にとって「ダンス」とはどういう経験なのか? 

 

それがどれほど逆説的とみえようとも、未開社会の「歴史」と呼び得るようなものは、「かのはじめの時に」起こり、それ以来今日にいたるまで繰り返されてやまない、神話的な出来事にのみ還元されるのである。近代人にとって、真に「歴史的」とみえるもの、すなわち、唯一独自で不可逆的なものはすべて、神話=歴史的前例をもたないゆえに、重要ならざるものと見なされるのである。[1]

──ミルチャ・エリアーデ『聖なる時間と空間』

 

魂の減衰

 オルタの製作者たちによる「機械は運動によって魂を宿すか」という問いを180度反転させたところには、「どうして我々は、機械には魂がないという前提を捨てられないのか?」という問いがあった。
 ある種のモノにはたしかに魂が宿るが、その魂は繰り返し鑑賞されることによって宿命的に減衰する。観る者の予想を裏切る驚くべき身体運用であっても、初見の驚きはいつか必ず薄れていく。鑑賞者の予想の範疇を超えない=裏切らないモノは、その魂を保持し続けることができない。機械とは多かれ少なかれそのようなものであり、それゆえに魂をもたないものとみなされている。
 しかし、もしかするとこのことは、なにもモノに限ったことではないのではないか。生身の人間もまた、魂の減衰と無縁ではいられないのではないだろうか。

 我々が人間に魂を認めるのはいったいどうしてか、などという問いは、本連載で扱うにはあまりにも大きい。しかし、あくまでも機械をめぐる霊魂論の反転として問うのであれば、とりわけ人間が機械のような精巧さや人形のような造形美に漸近する場、すなわち身体表現の領域に的を絞って論ずることは妥当であろう。さて、振付を定められたとおりに踊る人間において、魂とはいったいなにか。決まった運動のパターンを再生し続けるからくり人形と、実質的になにが異なるのか。振付を踊る人間は、言ってみれば舞台の上で一種のモノになるのではなかったか。
 ここでただちに連想するのは、前回も触れた土方巽が舞踏を「命がけで突っ立った死体」と定義していたことである。ただし、優秀なダンサーが与えられた振付を完璧にこなす姿と土方が暗黒舞踏を踊る姿のあいだには、直観的にかなりの距離がある。どこかでまた繋がりそうな予感もあるが、こちらはいったんおいて別の連想のほうを追いかけてみたい。もうひとつの連想とは、これまた劇作家の平田オリザによる「俳優はロボットでいい」というテーゼである。
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