午前三時の身体
クラブに続く階段を降りていくと、ヘッドフォンの音漏れのようにほのかに聴こえていたシャカシャカという高音が、少しずつ濃くなってくる。
エントランスで料金を払う。重い扉を押し開けると、むわっ、とむせ返るような濃度の音が皮膚を包む。まるでプールに飛び込んだときのように、皮膚がコンマ数秒だけ新しい環境に戸惑ってから、体はすぐにモードを切り替える。心拍数の2倍よりやや遅いくらい、BPM120程度の規則正しい音圧にしたがって、すでに体幹が周期的に揺れはじめている。
メインフロアへと至る狭くて暗い通路を、まるで水路を泳ぐ魚のような不自由さで進みながら、いつのまにか歩行は環境と混ざりあっている。皮膚が音を浴びているのか、足の裏が音を踏んでいるのか、あるいは心窩部のあたりから音が出ているのか、だんだんよくわからなくなっていく。水路の狭さゆえに体の一部に限局していた音の環境は、水路の出口を目前にして、予感として四肢体幹へ満ち満ちる。フロアへと一歩足を踏み入れれば、まるで河口から大海に躍り出た魚のように、身体が音の海の中を泳ぎはじめる。
体のごく一部、うわべだけでリズムをとっていた肉体は、頭のてっぺんから足先まで、隅々まで繋がっていく。僧帽筋、一つ一つの椎骨、腹直筋、骨盤、膝関節、足関節……いや、体を繋いでいるのは骨・関節や筋肉のようなソリッドさではない。もう少し有機的な何かが、身体の中で一つの波を伝え繋いでいる。この「有機的な何か」としての身体の位相は、自分で経験して知っている範囲では、こうして音の海に飛び込んだときにのみ現れる。
踊っては休み、休んでは踊る。踊りながら休み、休みながら踊る。時折知らない誰かと、言葉さえ交わさないまま一緒に踊ることもある。こうして朝が来るまで、絶え間なく音を体に浸したまま、断続的に音と体を関係させる。
午前零時。初めは従順に音を聴き、音を肉体に流し込んで揺れる。午前一時。自分の身体に蓄積されたボキャブラリーを、一つ一つ棚卸しして点検する。午前二時。ボキャブラリーとボキャブラリーが有機的に繋がっていく。
午前三時。身体にはこの時間にしか見せない顔がある。この時間にしか開かない扉がある。この時間にしか現れない身体の様相がある。このとき私は、いつのまにか私の知らないやり方で踊っている。いや、知らないというのはおかしい。なにしろ踊っているのは私の体なのだから。しかし実感としては、やはり身に覚えがない。踊りながら我に返って驚き、しかし音楽に押されてまた踊り始める。
午前四時。気がついたときにはもう、扉は閉ざされている。肉体は疲れはて、もうモノのようになっている。眠さを思い出す。始発まであと数十分。音の海で溺れそうになりながら、ぐだぐだと休むでもなく踊るでもない時間をしばし過ごしたあとで、今日はもうおしまいにしよう、と諦めをつける。始発はまだ来ないが、外に出る。季節によってはもう空が白んでいる。人間が歩いている。私は道行く人に混ざって駅のほうを目指しながら、このときいつも、人間に戻っていくような気分になる。
午前三時に発生した身体運用を採集して持ち帰るのは、そう簡単ではなことない。たとえていうならば、それは夢から覚めたあとで夢の内容を思い出そうとする感覚によく似ている。なにしろ、そのとき自分がどんなふうに踊っていたのか覚えていない。踊っている瞬間は、ああこれだ、この感じを覚えておかなければと思うのだが、朝になったら忘れてしまう。そのうちに忘れたことさえ忘れてしまう。しかし、なにかの拍子にそれを思い出すことができ、反復練習によって洗練し体に定着させることができれば、それは新しいボキャブラリーとして私の身体運用の選択肢に加わることになる。
もうひとつだけ、別の経験を挙げてみよう。
ダンス仲間を介して出会った人に、アフリカのどこの国だったかでダンスの修行をしてきたという女性がいた。彼女がジャンベと呼ばれる太鼓の生音を使ってダンスレッスンをするというので、受けに行ったことがある。
初めはジャンベなしで、基本的な動作の反復練習から入る。どちらかといえば足運びを主体としたスタイルだ。自分のボキャブラリーの中ではハウスダンスに似ていると思ったが、どうやら音の拾い方が全然違うようで上手くいかない。テンポに合わせて足は運べるものの、全体としてなぜか先生が踊るようにはならない。鏡に映った自分の姿がそうであるだけでなく、内的にも正しくないという違和感を強く残したまま、無理やり体を運んでいる。
こちらの違和感をよそにレッスンは進んでいく。今度は基本動作のシークエンスからなる一連の振付を、先生がとるカウントで反復する。初めはゆっくり、次第にテンポをあげて繰り返す。体はなんとかついていけているような気がするが、やはり納得感がなくぎこちない。
ひとしきり練習してから、では音を入れてみましょう、という先生の号令で待ち構えていたジャンベ隊が腰を上げる。手でたたくタイプの大小複数の太鼓を、何人かの叩き手が軽くたたく。ぺん、とか、コン、とか高い音がする。
ダンサーたちが最初の動きに入るのとほとんど同時に、ばらららっ、とジャンベの音圧がなだれこんでくる。あっ、と驚く私の意識より早く、体がもう音を拾って流れるように踊っている。正確にいえば、音が体を正しく踊らせている。私は踊りながら、全然知らない言葉で流暢に話すように踊っている自分の体を発見する。まるで散歩中の犬がリードを目いっぱいに引っ張って走っていくように、踊る体は私を裏切って先行し、私は後ろから必死でそれを追いかけている。
わずか数十秒程度のシークエンスを終えるころには、私の意識はジェットコースターに乗った後のようにぎらぎらと覚醒している。二回、三回と繰り返すうちに、だんだん自分の体がなにをやっているのか、意識のほうでもわかってくる。暴れ馬のように踊る体を、ようやく意識が乗りこなせるようになってきたところでレッスンは終わってしまった。家に帰って復習しようと体を動かしてみたが、あのジャンベの音なしでは同じように動いてくれないのだった。
踊るということは私の体において様々なやり方で実現されるが、自分で踊ってみないとわからないのはこういう状態ではないかと思う。まあ、私ひとりの経験と感想に大した意味はないが、しかし、身体表現という俎上に載らないダンスの実態については、ひとまずこのくらいで十分だろう。
このような水準においては明らかに、ダンスは振付と身体制御の問題ではない。ダンスはしばしば、振付を遂行し、身体を制御する以前の段階にも存在する。そもそも身体とは、意識的に制御されるばかりのものではない。身体制御の意志から解き放たれて踊り、しまいには絞りつくされた肉片のようになる体を、その時間、そのように動かしていた何か。おそらくダンス、あるいは魂とは、その「何か」のことを指している。
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