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2021.10.29

第5回:ダンサーに魂はあるのか
──データベース・改変・再配布

踊るのは新しい体 / 太田充胤

魂の懐胎

 ここまでくれば、オルタやスポットに踊る体として何が足りないのか、もう明らかだろう。
 舞台で踊るダンサーが一種のモノであったとして、その体がいかなる意味でも自存しえない点は重要である。ところが、オルタは人間の手を離れ、同じかたちの仲間を持たず自存している。それゆえオルタの身体運用は、外部環境によって編まれながらも、踊る体としては実は高度に孤立している。データベースに接続されていないばかりか、自分の身体運用すら記憶しない。ランダムに延々と続く身体運用はいかなるボキャブラリーも蓄積しないし、いかなる文法も構成しない。オルタは自ら新しい言葉を話すが、他の誰とも話そうとはせず、したがって誰一人として彼と同じ言葉を話すことはない。
 いや、「誰一人として」と書いたが、そういえば一人だけいた。森山未來である。
 私が把握しているかぎり、森山は公の場でオルタと対話しようとした──あるいは対話することを迫られた──ただ一人のダンサーではないかと思われる。オルタに言葉を返すようにして踊った森山の内側には、わずかながらオルタの魂が刻まれているかもしれない。
 そういう意味では、件の映像作品はかなりいい線までいっていた可能性がある。キャンベルロックの例に倣っていえば、新たに「オルタ」と呼ばれるダンスが成立するためには、なにもオルタ本人がボキャブラリーを確定する必要はない。森山が別の場所で「オルタ」を披露すれば、オルタの身体運用もまた「ダンス」になった可能性がある。
 しかし残念ながら、現実にはそうはなっていない。そうならなかった理由は様々なレベルに存在すると思われる。身体運用自体の独創性や新規性がさほど高くないこと、わざわざ披露する場がないこと、森山以外にオルタと踊ったダンサーがいないこと……。やはりこれらを身体の内外に分けて整理すれば、オルタの内部構造とアルゴリズムがダンサーとしては天才的でなかったこと、オルタの外部に生態系をつくるだけのダンサーがいなかったこと、この2点ということになる。

 では、スポットのほうはどうだろう。
 スポットはオルタと異なり人間のデータベースと接続されているが、ローカルな運用の水準はなく、したがって人間のデータベースにはほとんどなにも付け加えない。ダウンロードのみで改変も再配布もしない、ただの再生端末に過ぎない。高い精度で振付を遂行し、決して誤ることはないが、正確には誤ることができないのである。万が一誤ることがあったとして、それを他の個体が拾って模倣することはない。したがって、スポットの群れが彼等自身の四本足のダンスを編み出す日は永遠にやってこない。
 四本足のダンスが確立するとしたら、それは彼等自身が更新する彼等のためだけのデータベースが確立することを意味する。もちろん、ソウルダンスを参照しながらロックダンスが成立したように、二本足と四本足は多くのボキャブラリーを共有することになるだろう。しかしそれでも、それらは決して同一の言語体系ではない。
 高い遂行機能と個体間の同一性を持つスポットには、そもそも別の個体とは違うやり方で踊るための動機がないかもしれない。考えてみれば「踊るための動機」というのも一考を要するアイデアで、合目的的な生活動作ではないダンスにはそれを生じせしめるなんらかの衝動がある。求められずとも踊る人間にはそういうものがあるが、合目的的にしか踊らないスポットがカメラの前やステージの上以外で踊ることは決してないだろう。ドン・キャンベルをしてそのように踊らせたものを魂と呼ぶのならば、やはりスポットにも魂はない。

 思えば平田の描く「人間らしさ」は、おおむね我々がよく知っている「人間」の域を出ない。
 すでによく知られた「人間」をその場に顕現させるために、必要なボキャブラリーは「人間」以上でも以下でもない。よく知られた「人間らしさ」を裏切る必要がどこにもないからだ。舞台の上に表象される魂は借り物だけでよく、舞台の上には魂の再生端末となるべく機械が立っていればよろしい、ということになるのであろう。
 俳優が借り物の魂の再生端末にすぎないのか、そうではないのかはここでは議論しないが、ダンサーの身体がそのようなものでないことまでは、もはや断言して構わないだろう。ダンサーが表象する「人間らしさ」、あるいは魂とは、舞台の上で生じるノイズではない。それは振付を間違えたり、即興を入れたりする可能性に開かれていることに起因するのでもない。ダンサーの魂は舞台の上でのみ生まれ育つのではない。ダンスは舞台の外にも常にありつづける。クラブ、ストリート、スタジオ、あるいは独りの部屋──観る者と観られる者とがいまだ分化しきってはいない場所。常に観られているわけではないが見られてはおり、したがってしばしば魅せようと振る舞うこともある場所。パフォーマンスと遊びのあいだ、表現と実験のあいだ、そういうあいまいな身体運用が成立するような場所。このようなパフォーマンスの発生母地、いうなれば原初の混沌のような場所で、ノイズは懐胎され、育まれ、満を持して観衆の前に産み落とされるのである。
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