庭を見るとき、わたしたちはなにを見ているのか? 庭をつくるとき、庭師たちはなにをしているのか? そもそも、庭のかたちはなぜこうなっているのか?
美学者であり庭師でもあるユニークなバックグラウンドを持つ気鋭の研究者・山内朋樹による、作庭現場のフィールドワークをもとにした「令和版・作庭記」ともいうべき庭園論、待望の連載。徹底的に庭を見よ!
本連載が待望の書籍化!
『庭のかたちが生まれるとき 庭園の詩学と庭師の知恵』
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庭を見る──ただ庭を見るといってもその内実はさまざまだ。
ぼんやりと眺める。カメラやスマホで気に入ったポイントを切りとる。直感的な好悪で判断するのでもいいだろう。「あ、いいな」「きれい」「この庭あんまだね」。
あるいは庭をきっかけにしてなにかを体験しているということもある。たとえば行楽シーズンに用意されることの多い抹茶、甘酒、茶団子。現代の暮らしからはほとんど消えかけているものを東屋や庭の見える座敷で飲み、食べる。一緒に訪れた恋人のことしか見ていなかった、というのでもいいだろう。
忘れてならないのが四季折々の花、ビロードのような光沢をたたえる苔、色鮮やかな紅葉。そうした植物に変化をあたえる風や光のささいな変化を感じるのも醍醐味だ。
こうして庭を楽しむこともできる。それもいい。それも庭という場がもたらす経験の一部をなしているのだから。
「たのしいね」「きれいだね」「おいしいね」。こうして庭をとおり過ぎようとするとき、それでもなお、石や木が意味深な姿かたちで並んでいるのを見つめてしまうとき、ふと、心なしか、不安になる。
この石の群れはなんでこんな配置になっているんだろうか? あの木はなんであんなかたちをしているんだろう? そもそも庭と呼ばれるこの場所はいったい──?
こんな疑問が生まれても、庭は平穏そのものだ。人々の密やかな話し声、鳥の声、木々のざわめきのほかにはほとんど音のない静謐なこの場所では、すべてが静止して見える。石は群れなしてそこにあり、木々は確乎としてそこに立っている。こうなっているのだからこうなのだとしか思えない。風が吹き抜け、陽はあたたかい。
庭はそこにある──ずっとそこにあったかのように。
庭のレシピ
庭はまるで永遠的な存在であるかのようなふりをしている。ずっとそこにあったかのように。
そうなのだ。ぼくたちが庭を見に行くとき、幸か不幸か庭はすでにできてしまっていて、「あの石はなぜあそこに置かれているのか?」「この木はなぜこんな風に刈り込まれているのか?」、つまり「なぜこうなっているのか?」という問いはほとんどの場合行き場をなくしてしまう。
せめてどの要素が、どういった順序で、なにと関係しながらできていったのかだけでも見ることができればそのヒントになるのだが、たいていの場合、作庭にまつわる克明な記録──庭のレシピ──は残されていない。
庭はすでにできている。要するに、こうなっているからこうでしかありえない。
美術館で作品を見るより先に、作品の下や横に貼りつけてあるキャプションを確認したくなるあの誘惑。作品は多くの場合なにも教えてはくれないのだから、ぼくたちはキャプションに頼ることになる。庭ならパンフレットや立て看板や石碑に。
そこには目の前の石がどういう由来のものなのか、この庭のもともとの持ち主や庭師の人生、作庭当時の時代背景と庭の交わりといったさまざまなことが記してある。だから有名なわけね。なるほど。
なるほど?
運がよければ石組の意味についても書いてあるだろう。三尊石、鯉の滝登り、虎の子渡し、鶴島亀島に蓬莱山に座禅石……。だからあんな配置になっているのか。たしかに。
たしかに?
こうした説明で目の前にひろがるこの庭、この物体の羅列のなにが理解できただろう?
すべてはこのあからさまな物体の表にそのまま見えているのに、手がかりはなにひとつない。だからぼくたちはこの物体の浅みの奥で、歴史や故事の深みにおいて語るのだ。だからもう一度、あえてこう問いかけてみたい。
この物体の羅列はなにをしているのか? なぜこうなっているのか?
無数の情報を調べてこの庭の知見の深みに入り込む前に、あるいは調べた上でなお、ぼくたちはもう一度目の前の庭の浅みに立ち戻らなければならない。この物体の羅列の上に。
深めることでのみ理解するのではなく、浅めることでも理解すること。深さが発生する根拠に浅さとしての物体の配置の特異性を見てとること。
庭は石や植物や地形といった、さまざまな物体が配置された姿かたちとしてそこにあり、すべてはあからさまに見えている。しかし庭はすでに完成しているのだから、なぜ石がこのように置かれているのか、なぜ木があのように生えているのか、なぜこれらの物体の配置がこうなっているのか、その判断のひとつひとつの機微を理解するのは難しい。
たしかに見えているものから推測するのも面白い。とはいえ目の前の庭を丹念に見つめてもなおこう言うことができる。この石はなぜこの姿で置かれたのか? なぜこの配置になっているのか?
この根拠への遡行を止めるために必要なのはおそらく、物体の配置の理由それ自体を、物体の配置そのもののなかに見ること、あるいは物体の配置の生成プロセスのなかに見ることだ。「浅めることでも理解する」とはそういうことだ。
もちろんかたちの生成は複雑な意図や図像的な解釈や歴史的経緯とも絡みあっている。それらを捨て去るわけではない。しかしその奥へと理由をかき分けていくのではなく、それらをもう一度この浅さの上にもたらすことだ。身も蓋もないこの浅さに、あるいは浅はかさに。
だから庭を見ながらいつもぼくの脳裏をよぎっていたのはこういうことだ。
まさに庭をつくっている現場をはじめから終わりまでフィールドワークすることで、職人たちとともに庭のかたちが生まれるときに立ち会い、記録しながら、庭について考えることができないだろうか? 職人たちがおこなう造形的な試行錯誤を観察することで庭を理解することができないだろうか? ようするにこの物体の構成のいわばレシピを克明に書き起こすことはできないか?
提供された料理を楽しみつつも、手もとにはそのひと皿の味わいの秘密が記されたレシピ本を置いているような経験をつくりだすこと。素材の組みあわせかたや下処理の方法とその理由、それらをどのような順序でどれくらいの火入れをしてひとつの皿へとまとめあげるのか、果ては料理人たちがどのような言葉を交わし、どのような哲学にもとづいて作業をおこなっているのか、そんな生成プロセスの秘密を解きあかそうというのがこれからはじまる数回の連載と、数章を加えてお届けする予定の書籍の狙いである。
時をさかのぼって庭の具体的な生成プロセスを参照できるレシピ本、それはようするに、歴史や故事の深みに降りる手前で、散乱する物体の浅みで、もっと浅はかに庭を見ることをガイドする。
もちろん料理は楽しんで食べるにこしたことはない。庭だってそうだ。
「たのしいね」「きれいだね」「おいしいね」。しかしその皿が湛える物体の構成の機微に迫るには、ひとり嗅ぎ分け、噛み分け、味わい分け、下手をするとその場でメモをとりはじめるような、変態じみた経験の蓄積もまた必要だろう。
あわよくばレシピが手に入るなら読まない手はない。レシピを読んであらためて皿に向かうことは、この浅さの途方もなさを、この浅みにおいて味わうためのはじめの一歩にふさわしい。このひと皿がなにかを表しているとしても、どんな歴史的経緯をもつとしても、そうした深みの手前に広がる、浅はかな物体の構成へ。
観音寺大聖院庭園
だが、しかし、どの庭を?
もちろん料理の完成形は重要だ。とはいえレシピである以上欠かすことができないのは、まっさらな素材の段階から完成までを丁寧に追うことができるかどうかだろう。とりわけ、庭の制作の秘密は庭師や施主でもなければなかなか目にすることができないのだから。
作庭現場をはじめから終わりまでほとんど毎日調査し続けるという迷惑なお願いをこころよく聞き入れてくださったのが、京都府北部の福知山に鎮座する古刹、補陀洛山觀音寺である。
二〇二〇年にちょうど開創一三〇〇年を迎えた観音寺は、地域の人々が堂山と呼ぶ小高い山の北側斜面の谷地を寺域としている。訪れる参拝者は寺域のもっとも北に位置する控えめな総門をくぐり、左右に阿形、吽形を擁する仁王門を経て、清流とアジサイの植え込みに彩られる細い参道を南へと、堂山の裾野に入っていく。
かつてはいくつも塔頭が点在していたが、多くの寺がそうであるように、明治の廃仏毀釈や戦後の農地解放によって観音寺もまた大きく姿を変えた。いまは五十三世住職小籔実英のもと、彼が主導した「関西花の寺二十五カ所霊場」中の第一、紫陽花寺の丹州華観音寺としてその名を知られている。
歩を進めると清水が削った谷底の参道と両脇の山の地形とのあいだには大きな高低差がつきはじめる。左手には山林状の斜面、右は大聖院敷地を保持する石垣と土塀。林立する大きなモミジの天蓋に覆われた谷底を行く。
突き当たりには手水舎があり、両側に階段がある。左側(東)の斜面に据えられた階段を登れば江戸時代創建の本堂に行き当たり、右側(西)の短い階段を登り、門を潜ると平屋の大聖院玄関に行き当たる。
玄関を前に左手(南)を仰げば、堂山の裾野一面に紫陽花寺の面目躍如たるアジサイが一面にひろがっており、右手(北)を見れば、やや南北に長い矩形の平庭がある。この平庭こそが、今回フィールドワークの対象となった場所だ。
大聖院東面に広がるこの平庭を、ぼくたちはとりあえずニュートラルに「大聖院庭園」と呼ぶことにしよう。
門のそばに立て看板がある。この庭をつくったのは京都の庭師、古川三盛。「当寺旧庭にあった山石」を使ってつくられたこの庭の正式名称は「斗籔庭」という。空海の『性霊集』の一文「斗藪して早く法身の里に入れ」からとった言葉だという。「俗世を離れてゆったりとした心で眺める庭」──これが立て看板の筆者である「山主」、小籔実英の思いだ。なるほど。
しかしぼくたちがなすべきことはキャプションを読むことではなかった。いや、そうした情報を携えてなお、この目の前の殺伐とした物体の構成へと言葉をもたらすことだ。
これから時をさかのぼり、ぼくと一緒に作庭現場に入ろう。
躍動する物体、道具、職人たち──ひとつの庭が、石組が、植栽が、新たに組みあわせられる発生のプロセスをたどり直すことで、おそらく、あなたの目はこれまでより少し、職人的になる。
今回のフィールドワークでぼくが注目したのは、大きく分けると二点。ひとつは奇数章で記す庭の造形的な生成プロセスとその論理の系列であり(1章、3章、5章、7章)、もうひとつは偶数章で記す物体、職人、住職等の意図や振る舞いの絡みあいの系列である(2章、4章、6章)。
この連載では「はじめに」と第1章を公開する予定だが、あらかじめ全体像を記しておくと、奇数章ではかたちの生成や物体の配置の順序といったプロセスの記述が、ときに常軌を逸した詳細さ、つまりは異様な遅さで展開される。ハイスピードカメラで撮影したスローモーション動画を見ているかのように感じられるかもしれないが、スケッチや写真や平面図を参照しつつ、状況を見失わないように進んでいただけたら幸いだ。
偶数章では、上記のような造形的水準の傍らで、庭で使用される特殊な語彙、集団制作における意図のありか、庭師と物や道具との関係などにも注目している。これらは庭の造形にとって非本質的なトピックであるかのように思われるかもしれない。しかし本書では、職人の行為や集団内での振る舞いがかたちの論理ともつれあっていると考えている。
もちろん、これから案内する庭の見かたは、庭の経験の広がりのある側面にピンポイントで光を当てるものでしかない。本書は庭のかたちはどのように発生するか、庭のかたちをどう理解することができるか、という問いに貫かれており、それを発生の現場に遡って理解しようとするものだ。
だから読み進めていくなかで、画像の解像度があがっていくように、見えなかったものが見えるようになり、石と石のあいだに躍動的な関係やぎりぎりの緊張関係があることに気づいたり、職人たちの言葉や振る舞いのひとつひとつに意味があるように見えてきたりするかもしれない。しかし反対に、もしかするとこれまで見えていたものが背景に退いてしまったり、ただ楽しんでいたものが楽しめなくなったり、やたらと庭の細部に囚われるようになるかもしれない。
ただ、これまで見えていなかった庭の見かたをひとつ増やすことをお約束する。そして、これまで気にもとめなかった近場の庭を、ふと見に行きたくなってしまったとすれば嬉しい。
前夜
二〇二〇年四月六日夜、古川三盛のもとで働きはじめて三年目になる若い職人から連絡が入った。翌日から観音寺で「つくり」──庭づくり──がはじまるという。いつか作庭の現場を詳細に見るフィールドワークをしたいと思っていた。そのため、もしつくりの仕事があるなら事前に連絡してほしいと、半年ほど前に彼に伝えていたのだ。
しかし明日からとはあまりに唐突だ。急な予定に対応するのはどちらかといえば苦手なので、内心、できれば次の機会にしたいとの思いが頭をよぎった。とはいえどういった庭をつくるのかは気になる。それだけ聞いてから判断しようと、夜八時半頃古川に電話をかける。
明日からの三日間で道具や材料の調達と準備をおこない、一日休んでそこから一気につくるとのこと。古川の現場は土日とは無縁で、およそ三、四日連続で働いたら一日休む。これが職人たちの基本シフト。屋外の仕事なのでもちろん雨になれば休み。着工したら完成まで、長期的な予定はいっさい立たなくなる。気は重いが、念のため今回の庭の現場がどういうところなのか訊ねてみる。
「完璧な庭ですよ。本堂の前ですしね。あそこは鶏かチャボを放し飼いにしていて、アジサイの咲く庭とのとりあわせで有名になりかけてるんですわ。あのね、若冲かなにかにあるでしょ。鶏かチャボがいてね。そういうの」。
「完璧な庭」というのはもちろんこれからつくられる庭の完璧さのことではないし、着工前の庭の完璧さでもない。さらに言えば「完璧」というのも完成度のことでさえなく、いまなら「完全に庭」とでも言い換えられるような、庭をつくる場所のそれらしさ、典型的な、いわゆる庭らしい場所だということだ。
そんな場所につくられる庭とアジサイと鶏のとりあわせ。伊藤若冲の《鶏図》や《群鶏図》などをイメージしながら、群れなす動物たちに倣った石組について綴る『作庭記』の記述を思い出していた。
山の麓や野筋の石は、群犬の臥しているようであり、猪の群の走り散るようであり、仔牛の母に甘えているようである。[1]
ようやく庭のフィールドワークを開始できるという思いと、突然明日から毎日福知山まで通うのは面倒だなという思いがない交ぜになっていた。しかし若冲の絵の喚起力と、完璧な庭という言葉に心惹かれてしまい、古川が喋り終えると同時に、愚かにもこう口走っていた。
「では、明日からお邪魔させてください」。
「若冲の庭」あるいは「完璧な庭」を求めて、思いがけずフィールドワークに出ることになってしまった。
「庭のかたちが生まれるとき」へ!
※写真はすべて著者による撮影
注
[1]「山のふもとならひに野筋の石はむら犬のふせるかことし豕むらのはしりちれるかことし小牛の母にたはふれたるかことし」(森蘊『「作庭記」の世界──平安朝の庭園美』日本放送出版協会、1986年、69頁)。以後『作庭記』の現代語訳は仮名遣い等を本文にあわせて適宜変更した上で森の著作から引用し、原文もまた同書同頁より引用する。
本書が森の記述にしたがうのは偶然とはいえ本質的な理由がある。古川は上京して間もなく森のもとで働き、ともに京都や奈良の古庭の修復や作庭に携わっている。つまり古川の庭の実践と歴史や文献解釈には森の思考が抜き差しがたく流れ込んでいるということだ。
(第1回・了)
この連載は月1回更新でお届けします。
次回2022年1月17日(月)掲載