3DCG、VTuber、アバター、ゴーレム、人形、ロボット、生命をもたないモノたちの身体運用は人類に何を問うか? 元ダンサーで医師でもある若き批評家・太田充胤の「モノたちと共に考える新しい身体論」、連載第6回は人間と人形との「往復」、デジタルとアナログのあわい、生命と非生命のあわいから立ち現れるものとしてのダンスを考えていきます。
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ヴァーチャル・エクスタシーってのは、本物なんだ。ちゃんとあるんだ。わかるかな? あるってことの意味が、もう変わってしまってるんだ。あなたの体は、ぼくのなかじゃ永久に老いることがないのさ。
──山川健一『ヴァーチャル・エクスタシー』[1]
人形はいかにして魂を得るか
平田オリザが演劇について述べた「俳優はロボットでよい」という主張は、ダンスにとってもある程度までは妥当だろう。高い精度で振付を再生するダンサーは、皮肉なことにその技術の高さゆえ、舞台の上では一種のモノになる。モノとはつまり、それ自体はある程度交換可能な再生端末のことであり、そこにいかなる魂をも代入可能できるような代物のことである。
そのうえで、ダンサーにはそれを裏切る選択肢も残されている。自らボキャブラリーを編み出して遊び、即興で踊る自由が残されている。身体を独自に運用し、裏切り続けるものだけが、モノ化することを拒んで踊り続けることができる。優れたダンサーは多くの場合、そのような能力を備えている。
人間のダンサーのポテンシャルを擁護し、機械による代替可能性を否定しようとするならば、ひとまずはこういう言い方になるだろう。しかしながら、本稿の目的は必ずしも、そのような人間賛歌にはない。
人間とモノがこれほどまでに近接する、ダンスという奇妙な「場」について考えること。金森修が半ばまで描いたような人間と人形との往復運動、あるいは魂の認識論的なon/off──そのような回路を開通させる事象として、ダンスを考えること。興味深いのは、ダンスのそのような性質が、デジタルとアナログのあわい、生命と非生命のあわいにおいてこそ明瞭に立ち現れるということである。ここに身体の今日性があり、新しい体のダンスがある。
新しい身体論を3DCGダンスから始めなければならなかったことの意味は、いくつかの回り道を経てさらに明瞭になりつつある。
MikuMikuDanceという仮想空間で、生身の人間から身体運用を盗んで複製し、再生し、生き生きと踊ってみせる3DCG。彼等/彼女たちに魂として与えられるモーションデータの流通と、それらを整理したオープンアクセスデータベース。彼等/彼女たちの踊り方は、生身の人間が伝統あるジャンルと接続され、振付やレパートリーを借用しながら踊るさまを現代式に戯画化しているようにも見えなくはない。
ロボットのダンスを通じて魂について考えてきた我々は、もはや画面の中の初音ミクが「魂実装済み」と評されることにさほど驚かないし、VTuberのモーションアクター/声優(つまり生身の人間)が「魂」と呼ばれることにも驚かない。ただし、それならば今度は、彼等/彼女たちの魂がどのようにして発生し、どのようにして減衰するのかについても考えてみるべきだろう。
MMDと同じ3DCGでも、テッド・チャンの小説に登場するデジタルペット「ディジエント」の場合は減衰しえない魂を持っていた。彼等は振付を踊るだけでなく、新しい身体運用を編み出すことが──小説内ではそこまで書かれていないがたぶん──できる。のみならず、思考し、会話することができる。ディジエントの魂は減衰しない。同じ理由で、人間という使い勝手の良い魂を手に入れた3DCGモデル=VTuberたちもまた、その魂を減衰させることはない。
MMDで使われるモデルたちはどうだろう。同じ3DCGでも、VTuberとは違ってただモーションデータを流し込まれて踊るしかないモデルたちは、Boston Dynamicsの踊る犬型ロボット「スポット」と同様、彼等/彼女たち自身のダンスを発展させる仕組みを持っていないように見える。しかし、それではそこに魂が成立しえないかといえば、どうもそうではないらしい。
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