魂をめぐる技術
批評家で精神科医の斎藤環はその昔、ヴァルター・ベンヤミンを参照しながら、我々がCGに対して感じる「不自然さ」や「不満」とはつまり、アウラや無意識の欠如であると指摘した。あるいはまた、ロラン・バルトやセルジュ・ティスロンを引きながら、その不自然さの根拠を主体の痕跡の欠如に求めようとした。
CGとは、つまるところ徹底した確定記述の集積にほかならず、その徹底性ゆえに記述しえない「固有性」の欠如が、もっとも直接的に伝えられてしまうと見なすこと。(『メディアは存在しない』より)[2]
原稿の初出は2002年。既に20年もの歳月が経っている。単行本として出版されたのは2007年。すでに見てきたとおり、Vocaloidシリーズの第一弾である初音ミクの発売も2007年、MMDの公開は2008年だから、同書はまさしく、魂を実装する魔法の民主化前夜に出版されたものである。
2002年当時、斎藤がCGへの不満をあらわにしていた一番の理由は、それより少し前の2001年に公開されたフルCGの映画『ファイナルファンタジー』があまりにも期待外れだったことにある。同名のビデオゲームシリーズは当時随一の美麗なグラフィックを誇っていたが、それが映画化されるというのだから世間の期待もひとしおだった……と私自身も記憶しているが、結果的には興行的にも映画史的にも失敗に終わったらしい。
斎藤の不満は「それが実写ではありえないことを能弁に伝えてくる」[3]という文言に端的に表れている。リアルに作られたCGは、静止画で見ればまるで実写のようだが、動き出してみれば「瞬時にCGであることを露呈してしまう」[4]。そこに現実世界と同様の物理法則があるわけではないこと。キャラクターの表情筋が彼/彼女自身の内発的な感情で自然に動いているのではないこと。
そう、たしかに当時のCGとはそういうものだった。しかし20年後の我々が振り返ってみた時、斎藤の不満が示唆しているのは、当時のCG技術の未熟さだけではない。思うにこれはCG側の問題であるだけでなく、我々人間の側の認識論的な問題でもあるのだ。つまり、CGの運動を鑑賞する人間が、CGに対してまるで現実空間の人間のような挙動を欲望していたということである。
あるいはCGモデルの視点に立って、端的にこう言い換えてみてもよい。3DCGモデルは、このときまだ実写と見紛われることを欲望していた。仮想空間の人形は、現実空間で人間になることを欲望していた。逆に言えば、人間のことなど忘れて仮想空間で自存することを、まだ欲望してはいなかった。
CGとは確定記述の集積である、という先の言及のあとに、斎藤はすぐさま「しかし」と続けている。「これらの議論は正しくはあっても、結局は語りえない欠如を単に命名することによって塞いだだけにすぎず、CGの可能性に新たなものを付け加えることは期待できない」[5]。それでは、欠如しているものは具体的に何で、欠如を補完する方法、あるいは欠如による問題を回避する方法とは何なのか。
不自然さとはつまり、斎藤の言葉でいえば「『人間の動作』のシミュレーションとして、あまりにも不完全であるということ」[6]である。しかし、欠如しているのはそれだけではない。「CGにおいては、とりわけ『レンダリング』の過程が人間の認知過程をシミュレートしなければならないという制約を負わされており、まさにこの過程が人間から『痕跡=イマージュを再解釈する自由』を奪ってしまうのだ」。
ひらたく言えば、技術的にはまず人間の認知をシミュレートすることの困難があり、結果として現実空間の人間からは読み取ることのできる何かを、我々人間がCGモデルの挙動から読み取れないという不満が生じる。その「何か」が主体とか固有性とか痕跡とかイマージュとか、色々の難しい概念によって次々と言い換えられているわけだが、おそらくそれらの概念は平田オリザが「内面」と呼んで切り捨てるものと概ね同じことを指していると解釈して構わないように思われるし、本稿ではそれを魂──ただし、身体外的に認識される表象としての──と言い換えても差し支えないだろう。
そう、おそらく平田オリザにおいて、以上の斎藤の議論すべては演出の問題に還元されるだろう。ここでいう演出とは物理演算のことであり、表情筋に与えられる振付のことであり、アウラとはそれらの精度のことである。ロボット演劇において機械工学のみならず演劇工学が問題となるように、『ファイナルファンタジー』において欠如していた技術とはCGそのものをめぐる技術というよりも、魂をめぐる演出の技術であったのだ。
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