鏡の中の人形遊び
本章では、仮想空間の人形が踊ることを通じて魂を獲得するさまを見てきた。当然ながら、これと表裏一体の事象として次に扱うべきは、身体運用を通じた生身の人間の人形化である。
我々の身体は今日、しばしは平面にその姿をあらわす。それは、映画がそうであったような特定の視点からの記録ではない。記録媒体、通信媒体、再生媒体のすべてが一元化されることで、我々は映像通話のようなテレプレゼンスの技術の延長においてそれら平面の身体と出会う。
奇しくもCOVID-19によって、人類の多くはそのようなテレプレゼンスを一斉に経験することになった。言いかえれば、種としての人類はこのときはじめて、平面の身体を手に入れた。フィルター技術や背景設定、マイクを通した発声に、人類はすっかり慣れてしまった。仮の身体が再構成されるこの平面を、仮想平面とでも呼んだらいいだろうか。
古くは「踊ってみた/やってみた」、今ならTik Tokがそうであるように、平面では自らの身体にミームを流し込んで再生し、コンテンツ化する方法がしばしば好まれる。言うまでもなくミーム=魂は無数の身体で再生されて希釈されるが、それで構わないのかもしれない。鏡の中の人形はなにかを裏切ることを求められていない。
肉体の複製、あるいは代理という線で考えれば、仮想平面の人形が自分のかわりに踊ってくれる日はそう遠くないだろう。
先日、Zoomを通じて複数人で映像通話をしていたところ、メンバーの一人がサムネイルに自分の映像をキャプチャした静止画を表示して、あたかもその場にいるかのように偽装しながら席を外していたことがあった。これもまた、オリジナルを代理する技術のひとつである。おそらく彼が表示したような静止画が、ここからわずか数年のあいだに、自動的に微笑んだり頷いたり、適当なタイミングで相槌をうったり、つまりはそこに「いる」ということを自然にこなすようになるに違いない。それからさらに数年が立てば、四角い画面のなかに映った自分の体にモーションデータを流し込んで、自由自在に踊らせることさえできるようになるだろう。
人形遊びの対象は仮想空間の3DCGだけではない。人類は仮想平面という鏡の中で、自らの体を使った人形遊びを始めたのである。
[1]山川健一『ヴァーチャル・エクスタシー』幻冬舎、1998年
[2]斎藤環『メディアは存在しない』NTT出版、2007年、41頁
[3]同書、30頁
[4]同書、30頁
[5]同書、41頁
[6]同書、42頁
[7]https://gigazine.net/news/20200212-vtuber-projekt-melody/
[8]https://3d.nicovideo.jp/works/td63641
(第6回・了)
次回2022年1月28日(金)掲載