庭を見るとき、わたしたちはなにを見ているのか? 庭をつくるとき、庭師たちはなにをしているのか? そもそも、庭のかたちはなぜこうなっているのか?
美学者であり庭師でもあるユニークなバックグラウンドを持つ気鋭の研究者・山内朋樹による、作庭現場のフィールドワークをもとにした「令和版・作庭記」。連載第2回目は、作庭現場に到着し、その先で見たもの、考えたことを具に記述していく。新しい庭園論の幕が上がる──
本連載が待望の書籍化!
『庭のかたちが生まれるとき 庭園の詩学と庭師の知恵』
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件名をかえて保存する
二〇二〇年四月七日の朝、福知山に向かった。
大山崎で名神高速道路から京都縦貫自動車道に乗り換える。山にはヤマザクラやタムシバの白い斑点が差し、鮮やかな落葉樹の若芽が萌しはじめている。町も山も暖かい陽光のなかで霞んでいた。京丹波わちインターチェンジで下道に降り、由良川に沿って山間部を進むと綾部の市街地が現れる。この町から西へ、福知山市街に向かう途上の山裾に観音寺はある。
昼前、およそ二時間かけて現地に到着したとき、大聖院庭園はまだ着工されておらず、前日に電話で聞いていたとおり事前準備が進められているところだった。古川三盛と三人の職人たちが、大聖院北側の一段低い敷地にある詩風館──旧多聞院──の庭から大ぶりな石を掘り起こし、大聖院へと移している。まずは素材となる石を集めるのだ。
古川と簡単に挨拶を交わし、さっそく作業記録を開始する。
石を運び出しているということは、ここ詩風館にも庭があったということだ。ところが庭に入ってみても、丸く刈り込まれた場違いなほど大きなサツキしか見えない。よくよく見てまわるとあちこちに古い石があるのだが、かつての庭の構想は肥大化したサツキに呑まれ、見られるはずだった景石はただの石──庭師の語彙では自然石だろうか──のように忘れ去られている。
職人たちはほとんど自然石と化した景石を掘り起こし、トラックに積載して一段高い敷地にある大聖院庭園へと運び入れている。自然石を再び景石とするために。
石を積載したトラックは駐車場で転回して大聖院庭園へと登っていく。駐車場では境内の作業にあたっていた総代──檀家衆の代表にあたる──と仲間たちが見事に咲きそろった枝垂桜を見上げていた。
「今年の(桜)はほんまに綺麗や」[1]。青く澄んだ空を背景に揺らぐ薄桃色や白の斑点を見つめながら総代が言う。「今年の桜は素晴らしいよ。いつもはこれら(は品種が違うので開花が)揃わんからね。いまが綺麗や。あと二、三日したらこれ、散り始めるからね」。
これほど桜が見事なのはこうして彼らが見守っているからだろう。
比喩ではない。彼らは実際にこの寺を見続け、作業をとおして守り続けているからだ。そう告げた。「わが菩提寺となるとね」。総代は笑う。
「わが菩提寺」──この堂山の裾野に広がる集落では多くの人がこの寺に骨をうずめることになるだろう。相次ぐ転居によって地元感覚を喪失し、地元とは無縁の仕事に就いているぼくのような人間からすれば想像しがたいことだが、こうした檀家衆の想いや行為がこの寺を、あるいはこれからはじまる作庭工事を支え、見守っているということだ。
総代と別れ、大聖院に登る。この庭もいまや平らな草地の周囲に植物が列植された小さな広場のように見える。
詩風館庭園もサツキの膨張によって庭の構想が失われていたが、ここでもまた、石組の添えものに過ぎなかったはずのサツキやツツジが枝葉を広げ、主従を逆転させて石の存在を覆い隠してしまっている。
サツキやツツジはおそらく毎年刈り込まれてきただろう。にもかかわらず、手入れする者たちも気づかぬうちに植物が少しずつ膨張してしまうということはよくあることだ。異様に膨れあがったサツキやツツジに占拠されている古い庭もまたいたるところにある。
ここにもかつては別様の眼差しで眺められていた庭が、そして石組があった──。
大聖院庭園でことの成りゆきを見守っている住職と挨拶を交わし、この庭の来歴をたずねた。
「(大聖院は)本堂ができた頃に建ったんで天明か江戸中期か。もともとここには五カ寺の塔頭があったんですが明治に統合されて。ここ(大聖院)と下(詩風館)には同じような植物が植えられてますでしょ? 松も十本ほどあったんですが松食い虫にやられまして枯れてしまったんですわ」
サツキが膨張し、石が見えなくなっただけではない。庭の歴史からすればごく短いここ数十年のスパンで見ても多くの松が枯死するなどの変容があった。
誰かが構想した庭はあっという間に別物になって消えてしまう。石組をなしていたはずの景石はサツキの根元に隠れて相互の関係を失い、もはや見られることもなく、自然石のように転がっている。
しかし、だからこそ、新たな庭が構想されることになった。
「これはね、私がここの住職になってからの念願だったんです。昔、いまのこの本堂の向こう側(西側を指差しながら)に素晴らしい庭があったんです。それが昭和三九年に本堂が火災で全焼しました。そんときに先代が池があると建物が湿気る言うて、埋めて平地にしてしまったんです。子どもの頃は庭に池があって、鯉が泳いでて、竹藪があって──。湿気はなくなりましたけど、そのええ景色もなくなってしもて。心が落ち着く庭と言いますか、自分が住職になったらいつかここに後世に残る庭をつくりたいいうんが私の念願やったんです」
かつてあった庭、そこでの思い出。池、鯉、竹藪。これらを住職は「景色」と呼んだ。この失われた「景色」を、同じく構想の失われた大聖院庭園の上に、あらためて「後世に残る庭」としてつくり直すこと。住職にとってはこれこそが今回の庭づくりの根幹にある。
植物が生い茂り自然石が転がるばかりとなってしまった庭に景石を据え、ふたたび景色に変容させること。
「それで今年が開創千三百年になります。この寺が七二〇年にできましたから、その記念に。古川さんにはこれまでいろいろ改修でお世話になりました。せやからご縁があったということで古川さんにつくってもらうんがええかと。古川さんのお話を聞くなかで本物の庭を学ばせていただいて──私のところはまだ百五(歳)の老僧がおりましてね。それで六八の私とそこの副住職と一歳になってない孫がおって四代なんですが──きちっとした庭を後世に残したいと思いました」
後世のために「本物の庭」「きちっとした庭」を残す。桜の下で出会った総代は「わが菩提寺」と言った。古川もまた前夜の電話口で「完璧な庭」と言っていたのだった。こうした複数の意図が、庭づくりには絡まりあっている。
庭はまっさらな更地につくられるのではない。時を経てほつれた庭の廃墟の上に、見られることのなくなった石や、大きくなりすぎた植物の上に、人々の意図の絡まりの上に、新しい庭は上書きされる。石や樹木が住職や檀家衆の意図とともに束ねられ、構成し直される。
庭師はそのもつれの上で踊る。すべてを配置し直すことで、この庭を、件名をかえて保存する。
手入れと仮設的なもの
庭の景石とは、そもそも山や川に佇んでいた自然石を敷地に運び込み、加工することなくそのまま地中に中ほどまで埋めて周囲を突き固めただけのものだ。庭ではこの行為を「石を据える」と言う。
据えることでただの石は見られる石へと変容する。つまりは自然石を景石となす。景石は加工されているわけではない。だから景石はその存在を忘れられたり、掘り起こされてしまうと、いともたやすく自然石に戻ってしまう。
庭師をはじめ石屋や植木屋は、言ってみればそのへんに転がっている自然物を拾いあげることで、それらを見るべき対象へと変容させるのだ。
それゆえ自然石と景石の差は曖昧なものだ。自然-石と景-石。この場合の自然と景は見る者のモードの違いでしかないのだろうか?
たとえば子どもたちが川で岩から岩へと飛び移って向こう岸を目指している。ところが流れの速い瀬は次の岩まで距離があって渡ることができない。子どもたちはどうやらこちらとあちらの隔たりに石を投げ入れ、その先へと歩を進めるつもりらしい。組織的な石運びがはじまる。
そもそも子どもたちの足場となっている大きな岩に目を移してみる。流れの上に顔を出しているそれらの岩は、巨大な岩の露頭だったり、山から転がり落ちたり激流に押し流されたりしてたまたまそこに落ちついた大ぶりの岩だったりする。
足元の岩は多くの場合もっとも安定したかたちでその場にとどまり、いま、こうして水の上に顔を出している。
この岩は自然に属するのだろうか?
子どもたちが川に投げ込む石はどうだろう。石は組織だって投げ入れられるのだが、石は川の流れに押し流されて転がり、あるものはそのまま下流に消え、あるものは安定したかたちでその場にとどまることになる。その様子は山から落ちてきたり、大雨の日の濁流に押し流されてきた子どもたちの足元の岩とほとんど同じものだ。
放り込まれていく石になにか細工が施こされているわけではない。呪術的紋様が描かれているわけでもない。ひとつひとつの石は、足元の岩と同じように、ただ偶然的にそこに落ちつくだけだ。
この石はいったいなにに属するのだろうか?
もちろんそんな分割線にはお構いなく、子どもたちは飽くことなく石を投げ続ける。ついには川面に石が現れる。適当に投げ入れられた石の配置はしかし、多少いびつに揺らいでいるとしても、全体として見れば分割線を越えてこちらとあちらを結んでしまっている。この目の前の瀬を、橋として、点々と打たれた飛び石として、いとも軽やかに結びつけている。
よくよく子どもたちが石を投げ入れた地点を見ると、大きな岩がいくつか集まって川の流れを狭めている。そこにはもともと迫り出した地形があった。ときには以前に橋をかけようとした子どもたちの作業の跡もあるだろう。もしかすると地形に刺激を受けただけでなく、過去の遺産を見つけたことからはじまった遊びだったのかもしれない。
ともかくも、いま、子どもたちはその迫り出しの突端を徹底した。
もともとの岩と子どもたちの石、くわえてかつて投げこまれた石の数々が綯い交ぜとなって橋がつくられたのだ。
子どもたちはついに、石を伝って川を越えて行く。
向こう岸に渡りたい、あるいはいつまでも水の上を跳びはねていたいという子どもたちの意図が、いや、意図ほども明確ではない欲望のようなものが、ひとつひとつの石の姿に、無数の石と石の関係に、つまりは石の「配置」に転写されている。
数分後には押し流されてしまうとしても、しかしいまはまだ川の流れを横切っているこのはかなくもろい仮設的な配置に。
ところがこの布石を維持するためには手を入れ続けなければならない。目を離すと石はいともたやすく押し流されてしまうからだ。子どもたちは再び石を投げ入れる。この繰り返される「手入れ」をやめるとき、この仮設的な配置はもろくも崩れ去ってしまう。配置は寸断され、橋は消えてしまう。
庭の石もまたこういうものだ。波打ち際に砂や石や流木でつくられた城や町のようなものだ。満潮の波がその配置を押し流したあとでは、その場に落ちる石や流木はすべてただの漂流物に還っているだろう。
石だけではない。庭では植栽も個体の成長にしたがって大きくなり、風や鳥や獣が知らぬ間に運ぶ種子が新たな配置を生み出し、植生遷移にしたがって、その環境下で可能な極相へと向かっていく。
にもかかわらず、その場が庭として感知されるのは、掃除や剪定といった手入れをとおして、部分的にであれ植物の茂り具合や大きさや遷移の段階が、変化しながらも一定の「程度」に維持されているからだ。
たとえ石しかない枯山水であっても、手入れをやめるとほどなくこの仮設的な程度は揺らぎ、雑草が生い茂り、樹木が生え、ついには森林になるだろう。
この仮設的な配置や程度こそが自然石や森林を変成させ、手入れの持続性こそがその変成を維持する。
子どもたちの石は、ある配置にしたがい、ある程度に維持されればされるほど橋に、あるいは飛び石になる。大聖院庭園や詩風館庭園は数百年という時間のなかでこの仮設的な配置や程度を見失いかけているということだ。
この意味で、庭とは持続的な手入れに依存する仮設的な配置や程度のことだ。
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