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2023.01.20

第3回 石を探せ:ケベックにおけるアスベストの歴史と日本庭園

都市は人が壊して、また創る モントリオールの微視的建築史 / 本橋仁

モントリオールに滞在中の建築史研究者・本橋仁さん。モントリオールは60年代から70年代にかけて、万博、オリンピックとビッグイベントを成功させ、いまなお都市の成長は続いている。その影で古い都市は破壊もされてきた。一方で、そうした近代化への抵抗の歴史もある。そうした都市・モントリオールから、景観や住宅事情、あるいは芸術との関わりなどをめぐりレポートしていただきます。第3回目はボタニカルガーデンの庭石のふるさとを探す旅。

 

セットフォード鉱山にて録音
場所:46°02’27.8″N 71°21’21.7″W
収録日:2022年8月28日

 

いつの間にか、山を走っている。カナダを車で走っていると、時おりそんな感覚を得ることがある。昨年の夏は、カナダ国内を車でめぐる機会が何度かあった。カナダの平地と山の関係は、日本のそれと比べてずっとゆるやかだ。日本のように川が作る急峻な地形とは違う、プレートの隆起や氷河の削り取りにより生まれた谷はV字ではなくU字に近く、ゆったりとした渓間を形成している。
しかし、セットフォード鉱山を訪れた時は、カナダの他の地域とはまた異なる感覚を得た。何度もゆるやかに曲がったカーブの先に山は急に現れた。それも禿げた山。そう、ここは人工的にできた地形であったのだ。


セットフォード鉱山のブラック・レイク。操業をやめた静かな時間が流れていた。


モントリオールの東へ

8月。モントリオールの東を走ってみようと、妻と子を乗せて車を走らせていた。モントリオールから東に行った近郊は、イースタン・タウンシップス(The Eastern Townships)と呼ばれる。かつては、ケベックの一つの行政区であった。ワイナリーや酪農家などが並ぶ、農業地帯だ。カナダは、その広い大地を活かした一次産業が非常に盛んである。ちなみに、カナダの食料自給率は、2018年の農水省の試算では、カロリーベースで266%[1]らしい。37%の日本からしたら考えられない数字だ。ケベックに広がるこの酪農地帯が、こうした高い食料自給を支えているのだろう。またアメリカ合衆国との国境も近く、この地域は同時にアメリカからの観光地ともなっている。
さて、イースタン・タウンシップの訪問は、妻がサン ブノワ デュ ラック修道院(Saint Benoit-du-Lac Abbey)という修道院を訪ねてみたいと言っていたことがキッカケでもあった。この修道院で作られるチーズは有名で、まちなかのこだわりのスーパーでも見かけたりなどする人気商品だ。また、チーズほどには知られていないが、タイルが張り巡らされた修道院の建築自体がとても美しい。
この修道院は、ドム・ポール・ベロー(Dom Paul Bellot)により1938年に設計され、1941年に竣工している。ベローはフランス出身で、1900年にエコール・デ・ボザールを卒業するとベネディクト会の修道士となった。しかしこの頃、フランス第三共和政の反教権主義的な政策により、フランス国内では261もの修道院が閉鎖されたという。こうした中でベローもイギリスのワイト島(the Isle of Wight)に亡命をした。その後に、オランダやベルギー、ポルトガル、そしてカナダでも仕事をし、このサン ブノワ デュ ラック修道院の設計の依頼によって1936年にカナダに再来訪、修道院の完成まで立ち会った。さらに、いまは観光名所としても有名な、あのモントリオールの聖ジョゼフ修道院のドーム部分は彼の設計による[2]。そうしたなかで第二次世界大戦が勃発。フランスに帰れぬまま、ケベックで亡くなった。彼の墓は、この修道院にある。
礼拝堂はもう少し新しい。この建築は、ダン・ハンガヌ(Dan Sergiu Hanganu)により1990年に設計が開始され、1994年12月4日に献堂された。ハンガヌは、ルーマニア出身で、ケベックで活躍した建築家である。モントリオールの考古学博物館ポワンタ・カリエール(Pointe-A-Calliereの)設計者でもある。


ドム・ポール・ベロー(Dom Paul Bellot)設計によるサン ブノワ デュ ラック修道院(1941年)、
タイルが廊下に貼りめぐらされている。

さて、この小旅行の目的は、もちろんチーズが一番のお目当てであったが、私にはもう一つの目的があった。それがセットフォード鉱山(Thetford Mines)。日本庭園の石のふるさとを見たいというものだった。「でもなぜ、この鉱山が?」まずは前回の続き。ボタニカル・ガーデンの桜の後に話を戻そう。


雨のボタニカル・ガーデン

5月、美しい桜を眺めた後にわたしは造園家・中島健の存在、そしてボタニカル・ガーデンの成立に興味を持ち始めた(前号を参照のこと)。どうやって、中島健はモントリオールで日本庭園を実現させたのだろうか?というプロセスへの興味である。そして、ボタニカル・ガーデンのライブラリーに連絡してみると日本庭園建設に関するアーカイブズをぜひ見に来てくださいという返事を受け取った。
アーカイブズを拝見しようと、あらためてボタニカル・ガーデンを訪れたのは、激しく雨の降る日だった。思えばモントリオールに来て、日本の梅雨のようなじっとり降る雨に出会う機会は少なかったが、この日だけは、雲に隠れた弱い日差しの暗がりの中で、激しく降る雨に出くわした。しかし、気落ちはしない。むしろラッキーかも?
というのも、日本では庭を見るなら雨の日がいいとさえ言われたりもする。雨によって苔や植物もまた一段と落ち着いた色を見せる。もちろん庭石も。人の少ない庭を、傘を差しながら歩いていると、この回遊式庭園のあちらこちらに置かれた庭石が、しっとりと雨に打たれ、ぐっと引き締まった黒でもなく、どこまでも黒に近い緑色をしているような印象を受けた。


雨のボタニカル・ガーデン、日本庭園。雨に濡れた庭石が、少し緑色に見えた。

水は、日本庭園にとって、とても重要な意味を持っている。その一つが池であり、滝である。中島健もこんな風に述べている。

雨は日本の風景にとって重要な要素である。雨は、日本庭園の風景にとって、重要な役割を演じています。水は、自然を表現する上でとても重要なのです。

Ken Nakajima. The Japanese Garden of the Montreal Botanical Garden.
Quatre-temps. Vol.12 No.2. 1998

植物園のアーカイブズを訪れると、資料や写真、それに図面が残されていた。写真の数々が教えてくれるのは、この場所が本当に何もない芝生の広場であったという事実である。写真を見ると、建設はダイナミックに重機を入れて行われたようだ。日本庭園に感じる自然。それは完全にコントロールされた人工物でもある。


建設中の日本庭園。M. Bourque Jardin japonais Sans cole Archives – Jardin botanique de Montréal

それに図面を見てみると、一つの石でさえ、いかに計画されてそこに配置されているかを読み取ることができる。この回遊式庭園には多くの分かれ道が設けられているが、特にその分岐には、まるでマイルストーンかのように石が置かれ、その場所を特徴づけている。あえては石の存在を意識させないが、無意識に目の行き場がコントロールされているようだ。というのも、この図面には「Focal Point=視点場」と書かれた場所が設定されており、これにより視点が操作されていることがわかる。そのために石は重要な役割を担うのだろう。


視点場の設定(Focal Point)

一見無造作に見える石の配置も、こうしてきっちりと一度は図面に落とし込まれた上で計画されたものだ。ただ、もちろん相手は自然石。当然予定通りに、必要な石が見つかるわけではないので、実際の石をもとに、その配置は改めて考えることになるであろう。日本庭園の回遊式庭園は、近景・中景・遠景と景色の重なり合いを楽しむものであるが、そこで重要なのは、視点場の存在であろう。

水と石とが組み合わさった時、見る人たちに、終わりのない自然の感覚をそこに想起させる魅力がある。

Ken Nakajima. The Japanese Garden of the Montreal Botanical Garden.
Quatre-temps. Vol.12 No.2. 1998

 


中島健による日本庭園の設計図。Focal Pointの文字が複数箇所に見ることができる。
P23-JBM025924 Archives – Jardin botanique de Montréal


石の配置計画が描かれた図面。
P05-JBM025942 Archives – Jardin botanique de Montréal


モントリオールで、石探し

そんな日本庭園と切っても切り離せない「石」。庭石を果たしてどこから調達したのだろうか。日本から石を運び込むという手段もあったかもしれない。しかし、前号でも述べたように中島健はその国々で可能な日本庭園のあり方を見出そうとした造園家でもあった。日本庭園としての骨格は残しながら、どう地域性との折り合いをつけていくかを自ら問うたのだろう。彼は、この地域の石に可能性を見出そうとした。
ボタニカル・ガーデンのエミール・ジャックマン(Émile Jacqmain)の協力を得ながら、石探しは始まった。しかし、すぐに壁にぶちあたるというのも、モントリオールの地質はもろく崩れやすく、それに彼の目的にかなう良い形を見つけるのは難しかった。中島は、玄武岩や火山性の岩のような尖った石をさがしていたが、そうしたものを見つけることは簡単なことではなかったのだ。
そこで、ボタニカルガーデン内にあるミネラルガーデンに鉱物の調査に連れて行かれた。困ったときにすぐ現物が見られる。研究機関でもあるボタニカルガーデンの強みだろう。そこで中島は蛇紋岩に興味を示したのだった。そこで、ジャックマンは、同じような蛇紋岩をさがしに、彼を蛇紋岩ハンティングに連れて行くのであった。


セットフォード鉱山を目指して

私は、中島の背中を追い車を走らせた。ゆるいカーブの先に、ふと突然異質な光景が現れた。巨大な禿げた山。石が高く積み上げられていた。これらは採掘の過程で積み上げられた不要な石の山であった。その姿はほぼ地形になっていると言って良いであろう。ここがセットフォード鉱山だった。モントリオールからは、車で片道200キロ。東京から言えば、だいたい福島くらいの距離であろう。この地で、いよいよ彼は理想に適う石を見つけ出す。この発見に至る経緯は、ジャックマンの臨場感溢れる回想が面白いので、少し長いが引用しておこう。


突然現れる小高い、禿げ山。この街には、こうした風景が広がる。

最初に訪れたアスベスト鉱山では、残念ながら石を見つけることはできなかった。すこし残念ではあったものの、まだ探し続けた。次に到着したのは、LABクリソタイルが管理している鉱山であった。すでに操業が中止されているアスベスト湖(Lac d’amiante)の第三立坑に案内された。時刻はすでに5時。私たちは、急いだ。
ゲートに着くと、わたしたちはガストン・ベルロー(Gastom Verreault)を紹介された。ここのエンジニアで、LABクリソタイルの副責任者でもあった。彼はちょうど工場のパンピングシステムの故障で、緊急で呼び出されたところだった。
なんてラッキーなんだ。彼のように経験豊富で、知識のある人物にたまたま会えるとは。これは、きっとkami(日本の神様)の思召に違いない。

形式的なあいさつのあとに、ベルローは採掘場を案内してくれた。ダイナマイトの残骸、廃棄物処理場などさまざまな箇所に案内してくれた。なんと悲しい光景なのだろうか。巨大な錆びついた機械たちが、ひび割れた鉱山の泥のなかで、まるで突然警報でも鳴って、労働者全員がいままさに逃げ出したかのようだ。くたびれた車たちが粉塵を巻き上げて、わたしたちを覆ってしまいそうではないか。「STOP!」突然、中島が叫んだ。騒音は収まり、砂埃は静まった。ベルローさんが説明をしてくれた。「ここは橄欖岩(かんらんがん)の塊が散在しているのですよ。」ここにある鉱物は、くすんだ麦わらのようなものから、光沢をもつ深緑の色まで、変化に富んでいる。
中島は、トム・トリヅカ(トロントに住む、彼の教え子)が翻訳する言葉をじっと聞いていた。鉱山の標本をいくつか見ながら、山の上に登ったり降りたりしている。そして、その手についた灰色の粉塵を振り払うとこう言った。「これでいい」と。
なんという喜びだろう。ベルローは、最後に冗談交じりにこう言った。「アスベストは要らないかい? 欲しければ、いくらでもあげるよ」

Émile Jacqmain. Choosing Stones to Build the Japanese Garden.
Quatre-temps. Vol.12 No.2. 1998

以上、ジャックマンの回想でした。


セットフォード鉱山の歴史

このセットフォード鉱山の歴史にも触れておこう。なぜなら、この鉱山は世界の建築の近代化に翻弄された場所でもあるからだ。この鉱山では、さまざまな鉱石が採れたのだが、なかでもアスベストの元となるクリソタイルの産出で世界的に知られている。アスベストというのは、製品名の一種であり、中島がボタニカル・ガーデンで最初にみた蛇紋岩のなかに含まれているクリソタイルから作られる。
この地で最初にアスベストが見つかったのは、1876年7月であった[3]。このエリアに住む農家であるジョセフ・フェクトー(Joseph Fecteau)が最初の発見者とされている。彼は、セットフォードに住んでいた農夫であった。彼は、このアスベストの発見について、専門家に意見を求めた。最初に送ったケベックの専門家には、その価値を否定される。しかし、これをアメリカに送ったところ、その発見の偉大さに気が付かされるに至る。こうして、アスベストの採掘が、このセットフォードで一気に始まる。採掘当初の採掘量は、その記録が失われているようであるが、1889年には、1,800トンの採掘量があったとされる。その後、アスベストの採掘量は、どんどんと上がり、下表のように、1967年には54,976トンもの採掘がなされている。


アスベスト生産量と労働者の推移
Smith, George Washington. Bell Asbestos Mines Ltd. 1878-1967. Bell Asbestos Mines Ltd. 1968.

セットフォード鉱山のアスベスト採掘は、世界でもトップの生産量を誇った。アフリカや中東諸国、アジアにも輸出された。そして、もちろん日本にも輸入されたのである。たとえば、当時の日本の建築雑誌を見れば、カナダから輸入されたアスベスト(石綿)が宣伝されている。


カナダ産アスベストを使用していることを謳う浅野スレートの広告。
名古屋商工会議所 編『名古屋商工名鑑 昭和36年版』名古屋商工会議所、1961年


滝山米太郎 編『浅野スレート : 石綿セメント製』浅野スレート、1928年


「世界に誇るアスベスト(石綿)鉱露天掘の現場。ここから出る石綿はカナダ対日輸出品目の第七位を占めている。」
東良三『カナダという国』日本出版協同、1955年


夢の素材・アスベスト

アスベスト、と聞くと一般的なイメージはあまり良くないだろう。その結晶の粉を吸い込むと発がん性があるとされ、今では使用が全面的に禁止されている。こうしたニュースは世間を騒がせ、さらに公共施設のアスベスト除去については常々問題にされているので、多くの方が、ネガティブなイメージをもってアスベストのことは知っているだろう。
しかし、アスベストはその負の側面が紹介される以前は、むしろ夢の素材であった。まず非常に有意になったのは、耐火性能だった。
日本では、ニチアスや浅野セメントなどがこぞってアスベストの新しい製品と使い道を提案していった。以前、古い建築雑誌をめくっていた時に鎌倉近代美術館の特徴的な外壁がアスベストであることを知り、驚いたことがある。アスベストは時代の寵児だったのだ。


住宅でできる防火の方法を紹介した本。左ページには簡便な防火法として、

アスベストのパネルを使った防火の方法が紹介されている。 『燃えない住宅』主婦の友社、1957年

アスベストというのは、ファイバー状の鉱物の名称で、それは大きく、クリソタイルと、リーベック閃石に分かれる。このセットフォード鉱山で採れるのはクリソタイルである。クリソタイルは、ケベックでも希少性の高い鉱物である。しかし、この付近では蛇紋岩の中に見つけることができ、広く産出されている。この鉱山のおかげでカナダは世界屈指のクリソタイル産出国となった。石の中からふわふわとした繊維が現れるというのは、イメージしにくいかもしれないが、次の動画を見ると、知らない方は驚かれることであろう。


石、ボタニカル・ガーデンへ

セットフォード鉱山で、日本庭園に相応しい石を見つけた中島。そこで選ばれた石が、後日、ボタニカル・ガーデンに運び込まれた。その総量は500トン。1987年9月中旬から10月半ばにかけ中島はモントリオールに再び滞在し、石の配置をデザインし始めた。100トンのクレーン車を使って、ローディングトラクターを使って、素早く工事は進められた。10月14日には、消防隊の協力を得て水が流し込まれたという。


セットフォード鉱山から、ボタニカル・ガーデンに運び込まれた石。
Déchargement des pierres. JBM-J-24. 28 aout 1987 Archives – Jardin botanique de Montréal


重機を使って、庭石は日本庭園に並べられていく。
Déchargement des pierres.JBM-J-24-118 28 aout 1987. Photo N. Rosa
Archives – Jardin botanique de Montréal


よく見れば、庭石もコンクリートによって固定されていることが分かるだろう。
JBM-J24-291 17 nov 1987 Archives – Jardin botanique de Montréal

実は庭石は無造作に転がされているわけではなく、しっかりとコンクリートでつなぎ合わされている。また、池もしっかりとメンブレン防水がなされている。その建設過程を見れば、実に作られた自然であり、それが日本庭園の特徴の一つとも言えるだろう。
こうして出来上がった日本庭園は、すでに今年で30年近くの月日が経とうとしている。春、夏、秋とこの日本庭園を訪れる機会があったが、その都度、この場所ではその時々に咲く花と枯れる木々とのハーモニーによって風景が移り変わっている。


秋の日本庭園、木々が色づき。そろそろモントリオールは厳しい冬。

(日本庭園編・完)

 


[1]
https://yomitai.jp/series/nofoodwaste/10-ide/3/
[2] Chantal Turbide. Fabulous Saint Joseph’s Oratory of Mount Royal. ULYSSES. 2021.
[3] Smith, George Washington. Bell Asbestos Mines Ltd. 1878-1967. Bell Asbestos Mines Ltd. 1968.


*写真については、特記したもの以外はすべて筆者撮影
*次回は2月10日(金)18時に更新予定です