■16ミリでの撮影について
三浦:この映画は月永雄太さんがカメラマンで16ミリで撮影されていますが、そもそも撮影期間ってどれくらいだったんですか?
三宅:19日、プラス実景1日ですね。
濱口:めちゃめちゃ少ない。
三宅:回したフィルム量が本編完成尺の4倍ちょっと、という感じ。この予算でだいぶ無理言って、プロデューサーの城内さんがフィルム撮影のいろんなリスクを引き受けて決断してくれて16ミリで撮れたわけですが、編集の時に、流石に素材の量が以前からぐっと減ったかもな、と思いました。自分がビビり過ぎたせいもあるんですけどね。日記の文字を撮るときも「あと一文字か二文字でカットかけるぞ……!はいカット!」みたいな感じで、編集の時に、もうちょっと撮ってもよかったな、と。大川さんごめん、みたいな。
濱口:でも結果として獲得されたものも多々あるのでは。
三宅:そうですね、いい意味で準備のテンションを各部が自然とあげていけた、というのはあるし、僕個人としても事前に準備する範囲と、現場で新たに作ることが何か、そのあたりを見極められたと思う。これまで撮影当日に考えていたことをロケハンの時点で考えるようにしたら、単純に、撮影現場の自分の脳の使いどころがシンプルになっていきましたよね。
濱口:シノミー(四宮秀俊)が望遠レンズで撮る顔ってものすごく際立ってくるけれど、今回は望遠レンズはかなり限られていて、32から50ぐらいのミリ数のレンズで大体撮っていますよね。[編注|四宮秀俊:三宅作品の撮影を多く担当してきたキャメラマン。『きみの鳥はうたえる』『Playback』など多数。なお、濱口監督の『ドライブ・マイ・カー』の撮影も担当している。]
三宅:はい、そうです。
濱口:しかもほぼカメラは動かない。これまでの三宅くんの映画だと、カメラが人物を捉えにいくような感じが多かったと思うんだけど、今回は人物を受け止める、あるいはそれ以上に、フレーム外に流すというカメラワークになっている。それが成立するためにはこれまで話してきたような準備がないとなかなか機能しない。レンズの傾向は月永さんの選択なのか、それとも話し合いで決まったのか。
三宅:そのあたりは、自分で撮影した『ワイルドツアー』とシノミーとやった星野源さんのMV「折り合い」で掴んだ感覚があって、自分としてはそれが念頭にはありました。それで、ボクシングをどう撮るってことから月永さんと話し合ったんですが、まずやりたくないことから言ったんです。ボクサーの背後からなめるような位置で一緒に戦うような視点のショット、これがボクシング映画の試合シーンの臨場感を出すための慣習のような撮り方だとすると、それはやらないようにしようと。場合によってはカメラはリングの上に上がらずに、距離の伸び縮みであるとか、身体の全身を撮りたくて、基本はフィックスでいきたい。さらには岸井さんの役どころも、彼女自身が持っている魅力についても考えると、絶対に彼女の顔に寄りたくなる。でも、これは全身の映画なんだ、全身で生きている人の映画だからと。顔の寄りどころはなるべく制限して、然るべきときだけ寄る。それ以外はなるべく全身で捉える、空間ごと捉えるのだというのが方針で、自然にフィックスでいこうとなりました。フレームサイズは少し悩みましたけど。基本的に僕がポジションというか距離や、何をどう見たいかの狙いを先行して提案して、具体的なレンズ選択は月永さんですね。
濱口:ケイコが鼻血を出すスパーリング場面で、まず三浦さんとまっちゃんがスパーをやって見せてから、見ていた岸井さんとまっちゃんの位置が変わる。そこで三浦さんが岸井さんとスパーリングを始めて、その間から見ているまっちゃんが映る。そこに誰かが来てまっちゃんがそっちを向いて話すと、画面外でバシッと音がして、ぱっとカメラが裏に回ってヒキ画になる。ケイコの鼻血が出ている。ここのフレーミングとつなぎはどう考えてあんなふうにできたんだろう? 本当に見事だなって。ここはやっぱりフレーミングによって、次のショットが呼び込まれている。
三宅:この鼻血のシーンと、最後の試合で足を踏まれたのに誰も気づかないところ、ここの二つは具体的にケイコが危機に直面している場面で、共通するのは誰もが見逃してしまっている瞬間だということだと思うんですよね。だからパンチが当たる瞬間は、松浦さんが目をそらしてるっていうタイミングは具体的に決まってましたし、それに合わせて動きと編集点が現場で決まりました。ここではキャメラも一瞬見逃してしまう感じで、ちょっと遅れる。
濱口:なるほど。まさに活劇と言うか、アクションとドラマの一致がそこにあるから、これほどに「見事」って感じるんでしょうね。
三浦:ジムの空間は、きっと実際はそこまで広いわけじゃないんだろうけど、でも狭く見えない。
三宅:これはメイキングの写真なんですけど、こんな感じですよ。ジムの中は撮影部隊でパンパン。後ろもめっちゃ人がいるし、狭いです。
三浦:なのに視覚的な狭苦しさ、圧迫感を全然感じさせない。フィックスのショットが断片的に切り取る空間と音響とが組み合わさって、広がりを生んでいますよね。三宅映画は『やくたたず』(2010)のときから、自在に動く被写体を望遠レンズで追っていく、その運動感覚が印象的だと思っていたんですが、本作は、すごくタイトでシンプルな空間に運動が収まっていて、新境地を示していると思いました。空間の構成について言うと、画面の手前と奥で同時に別なことが起きていることも多いですよね。だから我々観客はあの広がりを感じるわけですけども。
三宅:空間的にありがたかったのはリングが奥隅にあったことですね。たとえばジムによっては、真ん中にドーンとリングがあってその周囲を取り囲むように練習スペースがあったり、あるいはもっと縦長のジムもロケハンで見学させてもらったりしたんですが、僕らが撮影したあのジムは、折り紙を二回折って開いたみたいな平面図になっていて、その第一象限みたいなところがリング。玄関がその対角にあって、鏡前に練習スペースとフリーで使えるスペースみたいなところがある。そういう配置に対して、ぶら下がってるサンドバックとかがうまく手前と奥を分けてくれたりする。
三浦:そう、サンドバッグがパーテーションみたいになって、いい感じの奥行きが生まれているよね。
三宅:だから、マスター(ショット)の方向は、その場面に奥行きが必要かどうかみたいな判断で事前に決められたんです。たとえば岸井さんがコンビネーションを松浦さんとやるときは、後ろのほうの音とか雰囲気は消したかったからキャメラは壁に向ければいい。泣いたりしてる場面だったら、やっぱりフレーム内に別の空間がほしいよねと思って、マスターは逆向きになる。そういうふうに整理できるので。
濱口:どの音を主役にするか、という思考からカメラポジションが決まっている、と。でも、そういう音との関係で、映る空間の抜けを考えられる人ってなかなかいないと思う。実際、言われてみればコンビネーションやってるときは、他の音がどこか都合よく消えていた。
三宅:設定上、他のジム生には帰ってもらったりしていますね。
濱口:練習中のはずなのに、ケイコとまっちゃんのスパーだけが響いてるなあと思ったけど、それがそういう思考の中でつながっているというのはいま説明されて初めてわかった。
三宅:そう悟られないようにやってますからね。たぶんあれが逆向きだと……
濱口:抜けが映って、妙に寂しい空間になってしまうと。
三宅:そういうことがロケハンの時点で月永さんと一緒に探れたのが大きかったですね。
濱口:なるほど。前々からそういう事前の構築ってできていたんですか?
三宅:『ワイルドツアー』(2018)から使うような感じは少しあったかも。『ワイルドツアー』と『呪怨:呪いの家』をやってみて、それらが上手くいったかどうかということではなくて、ちゃんと演出さえすればマスターで画面が持つはずだっていうことがわかったので、こういうやり方になったかなと。
濱口:ジョン・カサヴェテスと同じこと言ってますよ、今。
三宅:そうなんですか(笑)。でもそれを教えてもらえたのは、三浦さんのゼミで学生たち向けに演出の授業やったからですね。
三浦:ゼミで、ゲスト講師として演出のワークショップをしてもらっているんですけれど、そこで三宅さんはいつも俳優の動きを全部通しでつけることの重要性を教えていますよね。それをロングショットで的確に捉えれば、シーンが成立するような動き。
三宅:そうそう。そのゼミで僕が喋っていたことって、実は僕はそれまでの現場では自分はやってなかったことなんです。でもそこで学生たちがたくさん試行錯誤してくれたからこそ、僕もやらなければと思い、『ワイルドツアー』の準備中に少し実験して、なんとなくわかることがあった。『きみの鳥はうたえる』だと、たとえば石橋静河さんの身体性というか動き優先で、そこから生まれてくるものを見つめればいい映画にしようと思ったから、僕が先行して段取りを組むようなことをあまりせず、演出は一緒に身振りや目線を考えるとかそういうあたりに集中していて、『Playback』ではもともと念頭にあるイメージみたいなものがやっぱり先行していたような記憶があるんですよね。その後だんだんと、キャメラを置く以前に何をすればいいかってことができるようになったんだと思う。
濱口:でもそのときにキーになってるのが音だったんだ、ということが今日改めてはっきりと認識できた。もともと映像で考えることはできていたけど、いまは音で考えることができているということですよね。
三宅:今回はそうですね。
濱口:音があるから映像の撮り方がある種限定されて、もうここにカメラを置けばいいっていうことまで決まる。それが決まると、ある程度予算が限定された状況であっても美術も効果的に決まっていく。この経済性。もはや些細な問題なのかもしれないけど、カメラポジションと関連した話で、三宅くんはイマジナリーラインってどう考えているの?
三宅:あんまわかってない(笑)。いや、理解はしてますけどね。
濱口:興味がない(笑)。たとえばこれをラインと呼ぶかどうかはさておき、渡辺真起子さんのジムで、真起子さんと岸井さん、三浦さんと岸井さんのやりとりは普通に視線の方向性を揃えた感じでやっている、でもまっちゃんだけがラインを越える感じになってる。これはなんでそうやったの?
三宅:あの距離と角度から、松浦さんの顔がみたい、という単純な理由だったかな。被写体重視だったと思うんですよね。ケイコが「家から遠い」と言い出したとき、松浦さんがどんな顔をしているんだろうって、撮影前から興味があった。で、あの顔の見え方に惹かれたので。
濱口:実際、そのあと関係性も一瞬揺らぐ。
三宅:「がっかりだよ」って言っちゃうことにつながる。このラインを跨ぐようなショットが例外的であっていいという根拠も、その点で一応成立しているわけですが、自分の最終判断の拠り所は、現場での生理的な見え方が大きいですかね。
濱口:やっぱり「正しさ」ってのは、そもそも存在するものじゃなくて、その場その場で作られていくもんなんだなっていうことを今改めて感じてる。ジムを出た後もよかったね。一つのフレームの中で、まっちゃんは「がっかりだよ」って言ってるけど、三浦さんの顔は笑っているように感じられるんですよね。そのことで妙に深刻ではなくて、風通しがいい。
三浦:「飯でも行こうか」っていう関係性だっていうのもそこでわかるんだよね。
三宅:真起子さんのジムに行くときに、松浦さんはサイズ合ってないスーツ着て、三浦さんは警備員の服で来るっていうの、僕らはだいぶ笑いを堪えながら撮っていたんですが、みんな笑ってくれないのかなあれは?
濱口:解釈としては三浦さんは自分の他の仕事の途中で来たんだなと。まっちゃんは仕事の途中なのか、このジムへの訪問が大事なことだからスーツを選んだのかはわからない。でも会長もそうだけど、二人ともわざわざ忙しい合間を縫ってくるぐらいに、本当にケイコのことが心配なんだなってことがわかる。
三宅:やっぱり移籍ってすごく大事なことであって、かつトレーナーってやっぱり専業ではなくて副業がある方も多いと。それで、三浦さんは警備員の格好で来ちゃえと、そして松浦さんは裏設定で給食配達員みたいな仕事にしていたんだけど、とりあえず成人式のスーツでというオーダー。つまり型が古くて、サイズが合わないスーツでということで衣裳合わせをしました。
濱口:それから真起子さんの感じもほどよいですよね。最初はちょっといい人なんだろうか、悪い人なんだろうかと思うんだけど。
三浦:ここは岸井さんの見つめ返す目が絶妙だったと思う。反抗的な感じというかさ。
三宅:かっこいいですよね。それから最後の最後、誠己さんがぶち切れてるときに、真起子さんだけ「あなたもなかなかファイターね」みたいな無言の視線を投げかけてくれているんですけど、これは僕も「やった! この顔撮れた!」と思った(笑)。衣裳合わせか当日の朝に、真起子さんから「この人悪い人? 悪い人じゃない? どっちだと三宅は思ってる?」って言われて、「悪い人じゃないっすよ」「オッケー」というような会話がありまして。
三浦:そういうコミュニケーションなんだ、面白いね。
三宅:ちなみに『きみの鳥はうたえる』の現場でも、真起子さんが家にやってきて柄本佑とばったり会う場面の段取りをする時に、「私この家に来るの何回目?」って言われて。思わず「えっ?」って言った瞬間に、「ああ、もういいもういい」って言われました(笑)。おかげでその後、その手の質問は全部事前に答えられるように準備するようになったので、めちゃ感謝しているんですが。あと、ジムでiPadを使うっていうアイデアは真起子さんからの提案だったし。
濱口:この映画でのレンズの選択って、大体標準か、そこからもうちょっと広いやつで撮っている。ケイコのノートの寄りとかは当然望遠だったと思うけど、かなり限定されていますよね。でもここで使うのかって思ったのは、一度ジムの中でビデオを見ている会長の姿を見てから、もう一度ジムに入るところのケイコの横顔。
三宅:けっこう強いクロースアップね。
濱口:初見のときは格別意識しなかったんだけど、たぶんあの最初の引きの画でジムに入るところまで撮ってもいるでしょう?
三宅:撮ってます。
濱口:でも、それまであんまり使わなかったようなレンズを使って、そこの寄りを撮ろうと思ったわけですよね。この表情ばっかしは見逃してくれるなよ、というふうにも感じるけど、現場ではどういう段取りで撮ったんですか?
三宅:ケイコがお辞儀した後の目線の先、ドアを開けたところに実際に友和さんに立っていただいています。
三浦:ここで友和さんが映っていないのはちょっと不自然な気もしますね。
三宅:ここは目の前に友和さんがいてくれたからこそ、ケイコがきちんと会長を見れば確実に何かが起こる、だから素直に寄りが撮れた場面だったと思うんですよね。対比的なところで言えば、ジムが閉まるという携帯メールを受け取る、土手の上のフルショットがあるんですけど、ここは寄りを撮るか迷った。自分の人生を大きく変えるだろう情報を受け取ったときに、ケイコはどんな顔するんだろうって、自然に興味を持ちやすいところではある。でもあそこで寄ると、何かせねばと岸井さんに自然と察させてしまうというか、どこか無理をさせてしまうような気がした記憶があります。でもこのジムの玄関前の場面は、目の前にいる会長を見れば、やっぱり何かが無理せずに出てくるだろうと。その前に、会長がビデオを見てるところを目撃するケイコの顔を撮っていて、そのときに、ああ岸井さんは本当にすごいなと思ったんです。ここまでくるんだと。どんどんその顔に引っ張られていくところがあったから、ここでは素直に寄ることができたと思います。
濱口:そういったことがすべて表現的ではなくて、機能的というか。言語化できないようなレベルで、ある種の必然性に沿って捉えているような感じが全体としてあるので、ある場面で寄りが寄りだと気づかない。適切なサイズでなければ見えないものがちゃんといつも見えている。そういう各ショットのフレームサイズの確かさが本当にすごいですね。
三宅:それはやっぱり月永さんのおかげですね。たぶん、一度決めてセットしてもらった後にやっぱり変えてほしいとお願いしたのはおそらく二回しかないんです。
三浦:月永さんに変更をお願いしたというのは、たとえばどこ?
三宅:ひとつは会長と鏡の前でシャドーしているケイコがちょっと涙を浮かべているように見える瞬間を捉えるショットですね。僕も月永さんも距離とサイズをどうすべきか結構迷って、僕からというより月永さんから「どうしますかねえ」と相談をしてくれたんだったかな。35ミリから50ミリに変えるみたいな感じだと思うんですけど。もうひとつは短いショットですけど、仙道さんが日記を読み上げている一連で使っている、ケイコが会長のグローブを見てる横顔のショット。これは最初に月永さんがキャメラを置いた位置の方が前後とのつながりがよかったはずなんですが、藤井さんの光に導かれてちょっと違う角度からみてみると、まだ見たことのない顔が見えていたので、キャメラ位置を変えてもらいました。
それで言うと、さっきのイマジナリーラインの話も関わりますが、ティッシュで涙を拭った松浦さんをリングの上で迎えるケイコを捉えたショット、あれはラインを跨いでるんですが、もうそれはラインよりも、あの光を優先にしたいですねと月永さんと話して、置き位置を決めましたね。あのジムは住宅やビルに挟まれていたので日当たりがいい場所では決してないんですが、後半にかけてデイシーンが多いシナリオで、それに応じて藤井さんが本当に見事な光、差し込んでくる光をさまざまに作ってくれて、それに誘われるようにして、予定よりも広いフレームになったり、向きを変えたりしましたね。最後の写真撮影の場面も、ロングショットは要らないつもりだったんですが、あの午前中っぽい光がたまらなくて。
■ケイコは我々の一歩先を進んでゆく
三浦:僕はこの映画のラストが本当に好きでして。そしてラストがとても重要な映画だと感じます。ケイコが敗北したその対戦相手と最後に川辺の堤防のところで偶然出会うところ、もうたまらないですよね。シナリオ構成の問題でもありますけれど、あれは早い段階からそういうオチにしようとしていた?
三宅:まったく見えてなくて、今の形のラストになったのはだいぶ撮影直前ぎりぎりでした。イン1ヵ月前を切ってたか、それくらいかな。
三浦:でもすごいシナリオだよ。だって、わかりやすい勝利の話でも成功の話でもなくて、むしろ負けることで解放されるっていう展開で、それが見事に成功している。思い出したのは『少女ムシェット』(ロベール・ブレッソン監督、1967)。孤独な女性が戦って戦って、ふっと力を抜いたときに世界がバーッと広がるという。そのラストについて「これは終わりではなくて始まりだ」ってブレッソン自身も言っていて、これは80分くらいの映画でしたけど、それに通じる古典的な構成美を感じました。ガチガチにボクシングをやって気を張り詰めた女性が、最後の試合でガクッと膝をついて意識が朦朧となってKO負け。でもそれでケイコの世界がある意味で開かれる。解放されたように見えたんです。同時に、観客である自分にとっても世界の見え方が変わるような感じがあったんですよね。ふっと武装解除して、街ゆく人とか、空を横切る鳥とか、なんでもない存在がすごく愛おしく思えるというか。あのエンド・クレジットの時間、本当に不思議です。こういう大きい流れは、撮影前にできていたわけですよね?
三宅:そうですね、この企画をオファーされた時点でシナリオがあって、それは自伝の再現というか、生まれたところから始まるライフヒストリー全体を語るような物語だったんです。でも、僕はプロット作りから検討させてもらって、結果「試行錯誤の日々」という章だけに絞って、再現ではなくフィクションにしました。ちなみに、実際には小笠原さんはボクサーを引退した後ブラジリアン柔術をやってるということを知って、めっちゃかっこいいな、と。ああ、もうずっとこの人は何かをやるんだって。一度プロボクサーなることを諦めていた時期に空手もやられていて、とにかくずっと何かをやってる。シナリオを書いてたある時期には、ラストシーンはケイコが歩いていてふっと横を見たら、道着の人がいる道場があって、ふらっと入って、「えい!」って柔道か何かを習っているところで終わるみたいな、スポーツのジャンルが変わる終わりにしようと思ったの(笑)。
三浦:すごい飛躍だ(笑)。
三宅:これには誰もついてきてくれなかった(笑)。でも、僕はどうしても小笠原さんのチェンジする感じがすごいなと思ったんです。なんと言えばいいか、ケイコという登場人物はつねに我々の一歩先を行っている感じがする。変化に抗いつつ、ある時にそこに対応してすうっと先に行く。そういうことをこの映画でも表現したいと思って柔道場のアイデアにしようとしたけど、うまくいかなかった。で、あるときに、自分が負けた対戦相手と出会っちゃえばいいんだと気づいた。この映画は寂しさとかで終わるわけじゃない。あえて最後の場面のケイコの感情を単語一個の言葉にするなら、悔しいんだなって。そりゃ悔しけりゃ続けるわと。僕も映画を作るのって、毎回悔しいと思いながら次をやっているから、じゃあ会っちゃえばいいんだ、これなら自分でも書けるかも、と。エンドクレジットについては、撮影前からスタッフと話していて、一緒にロケハンしていた制作部の大川さん主導で、あの場所とこの場所にしようなんて探っていました。芝居場所には都合で設定できなかったけど僕らが気に入っていた場所を整理して、最終日に残っていたフィルムで撮影しにいきました。
三浦:対戦相手が着古した感じの作業着姿で来るところがいいですよね。彼女もケイコと同じようにこの街で自分の人生を生きている普通の存在だという当たり前のことが伝わってくる。
三宅:演じてくれた青木選手も実際にプロのチャンピオンだった人なんです。このお願いをしようと「一生のお願いです」と言った瞬間、「絶対に嫌だ」と内容を伝える前に言われました。「お芝居でしょう?無理無理!」と。
三浦:最初はリングの上だけっていう話だったんだ。
三宅:そう。オファーをした後に思いついたから、「もう一日ください、ラストでケイコに出会ってください」と。ボクシング映画もそうだし、障がいについての映画でもそうなんですが、こういう題材はえてして「頑張ればいいことあるよ」っていうイデオロギーを持ちやすいなと気になっていて。勝利で終わるっていうのはそういうことになる。でも自分がいまの時代で映画を作っていると、いやいや、何かを続けているといいこともあるけれど、きっと悪いことだってこの先あるでしょうと考えざるをえない。だから、その変化にどう対応するかについての物語を描きたかった。変化の中でどういう生き方があるのか、そういうものを自分も見たいと考えたから、ああいう構成になってるんじゃないかなあ。
三浦:すごく開かれた終わりだよね。ケイコはそれまでずっと川辺の淵みたいなところを好んでいて、でもそこは「臭い」とも日記に書いていた。だから、堤防の上に駆け上がる動きに、ものすごく感動しました。あと、駆け上がる直前の、長いクロースアップが捉える、岸井さんの微細な表情の変化。『きみの鳥はうたえる』のラストの石橋静河さんの顔もそうだったけど、あの最後の顔も素晴らしかった。
濱口:あれはさすがに試合の場面の撮影のあとに撮っている?
三宅:さすがに試合のあとです。クランクアップじゃないけど、試合の撮影のあとですね。これは撮影前のときも、今も考え続けたりしていることですけど、ケイコさんってボクシングに夢中になってるとも言えるし、一方でボクシングのリングの中に閉じ込められている感じもあって、その両方を撮っていったわけです。最終的には、ボクシングジムっていう大切な場所はなくなるけど、それと同時にそこから自由になったようにも、傍目からは捉えうる。どっちでもある。そういう考えや生理感覚が全体のカット割りとか段取りに、意識している部分も無意識な部分も含めて、影響してると思う。ジムが閉まることで暗く落ち込む方向に行くんじゃなくて、そういう大きな物語の流れにケイコさんが抵抗するというか戦っているというか、自由になっていくような、その経緯にこそ生まれうる、気持ちを切り替えていく顔とアクションを僕らは撮ったのかもな、と現時点では思っていますね。とにかくそのアクションを目にすれば、よしひとまずケイコさんはもう大丈夫だと思える気がする、という感じで、そこでこの物語を終えることができたように思います。
およそ一年前には『ドライブ・マイ・カー』の現場について濱口さんから本当に貴重な秘密をたくさん教えてもらい、あの時点ですでに『ケイコ』は完成済だったので、先に聞きたかったよ、と思ったりもしました。今回は、果たして自分が何を思い出して話せるだろうかと緊張もしていましたが、率直にとても楽しかったです。お二人のおかげで、映画作りというものは本当に多くの人の手で、数々の協働作業の積み重ねの上で成り立っているという事実を具体的に明かせる機会になり、ありがたいことでした。まだまだ多くの、というよりもどの部署の誰の仕事かとはもう分解できないような無数の細部で一本の映画は出来上がっていて、役者やスタッフが誰か一人欠けたり、もし他の人だったとしたら、どのショットも一つとして同じではない別の映画になっていたはずです。
今日は質問をいただきながら振り返らせてもらいましたが、じゃあ今後例えば他の製作委員会などの下で今回と同等かそれ以上の準備や現場をできるかというと、まったくわからない。基本的には、常に厳しい戦いが待っているはずです。詰めて考えれば日本経済全体の話にもつながるので、本当に厳しい。まあ正直、予算の多寡の問題だけでもなくて、考え方とか想像力の問題なのだけど。今回は題材からくる必然性もあったし、岸井さんや松浦さんらの途轍もない献身ぶりや事務所などの然るべき判断とサポートもあったおかげで、こちらもあの時点の条件内ではできる限りのほぼベストは尽くせたと思う。もちろん、現場のスタッフとは「あれもこれもまだまだで、こうやればもっとうまくできるはず」と改善点をいまもよく話していて、僕自身の中にも、自分は現場の叩き上げじゃないというコンプレックスがあって、そのせいでちょっと折り合いをつけすぎたかもしれないと思うような反省点が毎度ある。そういう時に、濱口さんが『ドライブ・マイ・カー』や『偶然と想像』で実践されてきた準備や考え方が本当に刺激になっています。今後僕らも自分たちなりに、ボクシングのような肉体的な準備が必要のない題材であったとしても、どうでもいい慣習や雰囲気などに流されずその都度然るべき作り方を模索し続けられたらと思っています。
長々とすみません。今後も変わらず定期的に、映画づくりのいろんな側面について、さまざまな映画をみることを通して具体的に探る時間を一緒に過ごすことができたら幸いです。今日は本当にありがとうございました。
2022年10月14日、青山学院大学研究室にて収録
構成:フィルムアート社
『ケイコ 目を澄ませて』
監督:三宅唱
キャスト:岸井ゆきの 三浦誠己 松浦慎一郎 佐藤緋美 仙道敦子 / 三浦友和
原案:小笠原恵子「負けないで!」(創出版)
脚本:三宅唱 酒井雅秋
撮影:月永雄太 照明:藤井勇 録音:川井崇満 美術:井上心平 装飾:渡辺大智
製作:「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会
制作プロダクション:ザフール
配給:ハピネットファントム・スタジオ
2022年/日本/99分/カラー/ヨーロピアンビスタ(1:1.66)/5.1ch デジタル/G
©2022 映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS
この物語は実在の人物や出来事に着想を得たフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関わりはありません。
公式サイト happinet-phantom.com/keiko-movie/
公式Twitter:@movie_keiko
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