スクリーンショットによる出席
もう2、3年ほど前のことになるだろうか、当時普及し始めたばかりのビデオ通話アプリ「Zoom」でミーティングをしていた時のことだ。
その日の参加メンバーは12名。私のモニタには、私のぶんも含めて12枚のリアルタイム映像がカードサイズになって並んでいる。さて、この12名の中に一人だけ、通信環境の極端に悪い人がいた。私を含む11名がよどみなく動きつづけるなか、彼の映像だけが止まったり動いたりを繰り返し、いつしか完全にフリーズしまった。
誰かがふと気がついたように言った。あれ、○○さん、これ画像になってない? 指摘を受けて、ようやくメンバー全員がある可能性に思い至る。彼が動いていないのは意図せざるフリーズによるものではなくて、さっきまでの映像のスクリーンショットが意図的に表示されているのかもしれない。
次の瞬間、おそらくその場の全員が同じ問いを抱いたに違いない。だとすると、はたしてスクリーンショットの向こう側に彼はまだいるのか、それとももういないのか。
結局、本当のところがどうだったのかは忘れてしまった。呼びかけに答えて「いやちゃんといますよ」なんて笑いながらカクカクと動き出したような気もするし、あるいは固まったまま動かず、しばらくして退室してしまったような記憶もある。まあ、どちらであったとしてもここではあまり重要ではない。問題は、いるか否かが判然としない状態であるにもかかわらず、彼がいるものとして認識されていた点にある。
もし仮に、彼が初めからカメラをオフにして、アイコンだけを表示していたならこうはなっていない。この場合、我々にとって彼の存在は初めから五分五分程度であり、その濃度は彼が発言するか、カメラをオンにするときまで増えも減りもしないだろう。しかしながらスクリーンショットの彼は、不在の可能性を指摘され、発言を求められるまでの一定時間、彼は必要十分の濃度でその場に存在し、間違いなく会議に参加し続けていた。
それ以来、Zoomでの多人数の映話のたびに、疑念がつきまとって離れない。ここに表示されている平面の人間たちは、いま本当に画面の向こうにいるのだろうか? こうした疑念は、参加者が適切なタイミングで手を振ったり、文脈にあった意見を述べたりするまで続く。私自身も、それが許される状況であれば入室と同時に手を振ったり、にこやかに二言三言喋ったりと工夫をして、なるべく生身の人間らしく見えるように心がけている。
もう数年くらいしたら、Zoomに静止画として表示された我々の顔を、AIが適当に動かしてくれるようになるだろうという気がする。文脈にあわせて適切なタイミングで微笑んだり頷いたりすることができるようになれば、「居ること」の濃度は飛躍的に高まる。もっとも我々は、そこまでの技術革新を待つ必要はない。微笑んだり頷いたりといった基本動作をあらかじめ登録しておけば、あなたはリズムゲームのように適切なタイミングでボタンを押すだけでよい。たったこれだけのコストで、アイコンだけを表示しているユーザーよりはずっと感じよく振舞えるわけだ。この場合、あなたは画面の前を離れることができないが、それでも「居ること」のコストは劇的に軽減する。
未来のAIに頼らない、さらに簡単な方法もある。たとえば、もしあのとき表示されていたのがスクリーンショットではなくGIF画像で、常に動きつづけていたとしたら? あるいは予め録画された数分間のループ映像で、瞬きをしたり、頬杖をつきなおしたりといった何気ない運動を含んでいたとしたら? 映像が長ければ長いほど、反復再生が露見する可能性は低くなる。2時間を超える映像を用意していれば、彼のプロキシはミーティングのあいだ「居ること」をやりおおせたに違いない──不幸にも個別に指名されて、発言を求められたりしないかぎり。
鏡の国と通話する
さて、シュタイエルはプロキシについてこんな風に問うている。
プロキシ政治で問われるべきは以下の点である。いかにスタンド・イン=代役の起用(またはスタンド・インからの活用)によって機能し、表象=代表を果たすか。また、外部のシグナルやノイズを転用するために、媒介手段をどう用いるか。[4]
プロキシはいかにして「居ること」を肩代わりするか。シュタイエル自身は明確な答えを出していないが、この問いかけはおそらく正しい。
プロキシの不思議は、大きくふたつに分けて考えるべきだろう。ひとつにはもちろん、プロキシがオリジナル(あるいは存在しないなにか)を表象し代理することであるが、もうひとつはモノが単に「ある」ことを超えて「居ること」を実現しているという、まさにそのこと自体である。
本連載の文脈に沿って整理するならば、後者は単なるモノが生命の息吹を帯びることの不思議であり、人形が物質であるにもかかわらず自存するという感覚の不思議である。他方で前者は、そのように生命の器となりうるような物質がいかにして生み出されるかという問題にかかわっている。より端的に言えば、前者は肉体の生成の問題であり、後者は魂の実装の問題だということになる。
このように肉体の生成と魂の実装を別個に考えてみることは、我々自身の体を使ったプロキシがどのようなものかを理解するのに役立ちそうだ。
上述のような現代のプロキシは、作成の過程で肉体の複製、ないしは新たな受肉という段階を経る。インカメラとモニタからなる現代の鏡が映すのは、あなたの身体操作に必ずしも追従しない新しい体だ。意図せぬフリーズ、遅延。意図的な撮影、録画、編集、そしてアップロード。あるいはあなた自身が気づくことさえない、画面の向こう側でなされる録画、反復再生。かくして鏡像のコントロールをあなたが失ったとき、あるいは自ら部分的に放棄したとき、鏡像は一種のモノになる。この新しい体を、我々は直接操作することもできるが、しないこともできるし、操作できないこともある。いずれにせよ、直接操作の比重を減らせば減らすほど、プロキシのプロキシとしての精度は高まっていく。
あなただけでなく、ビデオ通話の相手もまたそのような運用をしているとしたら、我々は映話についての認識を大幅に更新せねばならないことになる。映話の相手は生身の人間ではなく、インカメラで写し取られたその鏡像に過ぎない。この微妙な違いは多くの場合、我々に何の感情も疑いももたらさないが、鏡が必ずしもリアルタイムの現実を映しているとは限らないなら話は別である。時間差の鏡像はいかようにも修飾され、現実を表象しながら現実とは似て非なる人物を描き出すことができる。映話の接続先は、厳密には現実世界ではなく、いうなれば鏡の国なのである。
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