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2023.07.04

第8回:プロキシたちのサイファー
──時間差の鏡像、物質的自存性

踊るのは新しい体 / 太田充胤

鏡の国へようこそ!

 現代の鏡、あるいは鏡の国について指摘すべきことはほかにもある。鏡に直面する現実世界の我々にとっては、それが映しだすものが純然たる現実ではないにもかかわらず現実と並置され、混交するように感じられるという点である。
 上記のように鏡像とコンテンツとが共通のインターフェースで表示されることは、目の前の現実と別の時空間とがほとんど同じように表象されることを意味する。かくして仮想平面は、〈いま・ここ〉の空間と、時間も場所も隔てた別の空間、ふたつの時空間を隔てつつ混合する界面として機能する。ただし、〈いま・ここ〉ではない方の時空間については、時間差の現実そのままであるとも限らない。そういう意味では、仮想平面は現実空間と鏡の国とを隔てつつ混合する界面でもある。
 さて、現実と混ざりあった鏡の国の出来事のうち、どこまでを現実と呼ぶべきだろうか? これは立場の分かれる価値判断かもしれない。私の感覚では、こうした鏡像的フィクションの一部はすでに現実を侵食して、見分けがつかなくなっている。プロキシがプロキシとして機能しているという前提に立つのならば、我々が仮想平面をパラ現実的に認知しているという言及はほとんど同語反復的なものに過ぎない。というのも、プロキシとはまさに、フィクションとして作られたものが現実を表象してしまうことだからだ。

 実際のところ、我々は鏡の国に対して常に両義的な態度をとっている。
 我々は一方では、プロキシに対する警戒──つまり、「画面の向こう」の人物が人形である可能性への疑い──を常に抱いている。我々はTikTokやInstagramに跋扈する美男美女について、「中の人」が実在することまではおおむね信じていても、画面上に表示されている通りの人物が世界のどこかで踊っているとは考えない。極端な話、ある種のなりすましということさえ考慮する。
 他方、我々は通常、Zoomで起こっている出来事がリアルタイムの現実であることを疑わない。TikTokで踊っているユーザーを一応は実在の人物として扱い、画面の向こうには現実空間の物理環境があると直観している。トリックアートのような動画──たとえば、カメラを逆さまにおいて撮影した天井を歩く動画とか、そういう類いのもの──が面白く消費されるのはそういうわけである。
 かくして鏡像的プロキシとオリジナルは、少なくとも一定の条件下では表象レベルでの差異を失う。言ってみれば、これは人形と人間との差が消失するということに他ならない。
 Zoomのスクリーンショットが言葉を発さないかぎり本物でいられるという状況は、これまでに繰り返し見てきた生命を持たないモノたちの宿命と酷似している。金森修が事細かに紹介した『ニフラオート・マハラル』のゴーレムは、人間そっくりだが言葉を話すことだけはできなかった。人型ロボット「オルタ」の制作者たちは、言語的・意味的コミュニケーションという選択肢を捨てることでオルタに生命を与えた。言葉を求められない限り、彼等は限りなく人間に近い何者かとしてそこに「居る」ことができた。
 同じことが、動画メディアのダンスでも容易に起こるだろう。我々は一見生身に見える者さえ疑わざるを得ないし、反対に到底生身には見えない者の魂をも認めることができる──少なくとも、みな等しく鏡の国で踊っている限りにおいては。この両義的な態度によって、楽曲、振付、およびそれを踊る体がそれぞれ「〇〇を〇〇が踊ってみた」というフォーマットの変数として回収され、消費される。実際のところ、画面のなかで15秒程度の振付を踊っているのが実在する生身のインフルエンサーであれ、そのアバターであれ、あるいは実在しない「初音ミク」であれ、ある意味では実在する「ときのそら」であれ、彼女が無料配布した複製の3Dモデルであれ、表象としてはどれも大した差があるとはいいがたい。

 さて、だとすると我々は──人間は──いかにして、自らがオリジナルであることを示し続けるのだろうか? いや、そもそもこうしてオリジナルとプロキシとの差異を問うこと自体が、遠からず意味をなさなくなるのかもしれない。犬の魂を認めなかった哲学者が400年後のいま残酷だとみなされるように、プロキシとオリジナルの区別もいずれ消滅するのかもしれない。
 これまた皮肉なことだが、こうして他者のためのダンスが完全に外部化された暁には、我々はダンス本来の喜びを取り戻せるのではないかという気もする。なにしろこのとき人間は、ひょっとすると人類史上初めて、ほんとうに自分自身のためだけに踊れるようになるわけだから。

プロキシたちのサイファー

 もっとも、これとはまったく別のシナリオもある。つまり、我々の鏡像/プロキシがMMDのように生身の人間と共通の振付/モーションデータを再生するのではなく、オルタのように不気味な情報生成を始める可能性である。
 この場合、オリジナルとプロキシとを区別するという発想自体が、先ほどとは別の理由で意味をなさないかもしれない。オリジナルとプロキシとは差異を失って同化するのではなく、同じかたちを持った別の種として踊ることになるからだ。

 シュタイエルが「プロキシの政治」と呼んだのは、プロキシが実在の人間を装い、あるいは架空の人格を作り出し、あまつさえプロキシ同士が論争したり戦闘したりするような現代の地獄のことだった。オートボット、なりすまし、フェイク……いずれにも共通するのは、プロキシが人間にとって了解可能な「意味」を表象することを目指している点である。ミームを再生する体は、それが生身であれCGであれ必ず何らかの「意味」を生む。ミームが人間のあいだで流通しているものである限り、その「意味」は人間にとって了解可能なものである。
 プロキシの政治に、人は自らの体を、あるいは戦略的に投入し、あるいは無自覚に晒している。このとき、自存した鏡像は必然的にある種のリスクに晒される。鏡像を直接操作するか/しないかという選択の外側には、あなたの体があなたのあずかり知らぬところで誰か/何かに操作されるという可能性もまた開かれている。「片腕を一晩お貸ししてもいいわ」と言ったのは『片腕』に出てくる娘だったが、今では貸した覚えのない相手さえあなたの体を所有しうる。鏡像にはオリジナルの意思とは無関係に様々な意味が流し込まれる。その最悪の選択肢のひとつがポルノグラフィであろうことは、VTuberの回でもすでに見てきた。
 とはいえボット同士の政治低闘争もフェイクポルノも、特定のミームが特定の表象に流し込まれるという点ではモーションデータと──倫理的な問題をのぞけば──そうは変わらない気もする。我々にとってより大きな問題は、初めから無目的的な運動それ自体を目的としているダンスにおいては、これとは別のことが起こりうるということである。つまり、プロキシが流し込まれたモーションを再生するのではなく、自由に情報生成を始めたらどうなるか。情報生成型のAIが人間に了解可能な意味を生成するとは限らないのは周知のとおりだが、ことダンスにおいては、人間に理解できない運動だからといって直ちに「ダンスではない」とは言い切れない。
 ディジエントの四本腕のダンスシーンを思い出してほしい。彼らのダンスは、最初こそ二本腕二本足の人間のそれを規範とするはずだが、シーンが成熟するにつれて我々の見たこともない四本腕ならではの身体運用が繰り広げられるだろう。鏡像世界でも同じことだ。鏡の国にはこちら側とは異なるルールがあり、異なる物理環境があり、異なるフェティッシュがある。我々がプロキシの操作から手をはなしてよいのと同様、プロキシもまた我々を規範として踊る必要はない。

 プロキシたちが彼等/彼女たちだけで繰り広げるサイファーを想像してみよう。肉体と魂とが別々に流通して合流し、魂と魂が相互作用しながらそのかたちを徐々に改変し、改変された魂が流通し……と、このようなプロセスを繰り返した先にあるのは、おそらく人間にとってほとんど「意味」を持たないダンスシーンではないだろうか。
 もしかすると、それはあなたの目に踊っているようには映らないかもしれない。しかし、プロキシたちは踊っている──プロキシたちの目にはそう映る。そういう事態がありうるということである。
(→〈5〉へ)