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2023.10.06

第9回:「踊らせるもの」の諸相
──その布置、流通、運動への変換

踊るのは新しい体 / 太田充胤

「踊らせるもの」の諸相

 「踊らせるもの」とはなにか? 一般的で典型的な理解では、それはたとえば音楽であり、あるいはその音楽を自在に調整して場を作るDJである。しかし実際には、「踊らせるもの」という概念で指し示すことのできる範囲はずっと広い。
 「踊らせるもの」は音とは限らない。たとえば鏡には、我々を挑発し踊らしめる性質がある。視覚的なフィードバックは理想的な運動を──つまり、よく踊ることを──要求し続ける。インカメラとモニターによる現代の鏡が画面映えするポーズを要求することはすでに触れたが、より古くからある同種の現象として、ダンサーが鏡の前で、鏡によって踊らされるというものがある。こうして書いていると色々なことを思い出すが、私自身、真面目にダンスをやっていた頃は鏡の前に立つたびに何かしら踊っていた。朝起きて洗面台で顔を洗って、そのまま鏡の前でワンムーブ。別に私に限った話ではなく、周りもみんなそうだと言っていた。すでに踊れる者にとって、鏡とは自らのボキャブラリを展開させ調整させる「踊らせるもの」なのである。
 もう少しわかりやすい話もある。私がゴーゴーダンサーというものを生まれて初めて目の当たりにしたのは22歳の時だった。これまた深夜の渋谷の、先ほどとは別のクラブで、ステージの上に並んだビキニの女性が挑発するように踊っていた。ステージの下に群がる人々が飛び跳ねて拍手喝采するのを眺めながら、私は幼いころに見たNHK教育の「歌のお姉さん」や「体操のお兄さん」を思い出していた。画面の中心で率先して踊ってみせるお兄さん・お姉さんと、その周囲に群がり夢中になって振付を真似る子供たち。あの光景にそっくりではないか──お姉さんがビキニであることを除けば。幼い子供は「踊らせるもの」にいとも簡単に反応するが、大人は酩酊や性的興奮を絡めないと踊れないのかもしれないと思った。ともあれ、ビキニのゴーゴーダンサーと「歌のお姉さん」とに共通するのは、踊ることによって自らが鑑賞の対象となる以上に、「踊らせるもの」として機能している点である。両者は「踊らせるもの」のスペクトラム上で近しい位置を占めている。
 これと同じ頃だったと思うが、夏休みに徳島へ阿波踊りを観に行ったことがある。沿道の観客席に座って大通りの演舞を眺めていると、一糸乱れず踊り歩く地元の連に続いて突如「にわか連」というのが登場した。にわか連とは個人が飛び入りで参加してよい連のことで、大通りにはいつのまにか、なんの練習もしていないであろう素人たちがてんでバラバラに踊り歩いていた。客席のスピーカーから大音量で鳴り響くのは「手を上げてっ! 足を運べば阿波踊りっ!」という祭囃子。なるほど、にわか連の人々は一見バラバラに見えていたが、よく見るとたしかに皆手を上げて足を運んでいる。なんだ、そんなことでいいのか、と気がついてからはいてもたってもいられず、私も客席にバックパックを置いてにわか連に飛び込んだ。
 さて、このとき私を踊らせたものはなんだっただろう。目の前で踊っている人々? 旅とハレの日の興奮? 祭囃子のリズム? あるいは「同じ阿呆なら踊らにゃ損」というよく知られたあの露骨な挑発? どれも重要な要素だが、決定的であったのは「手を上げて足を運ぶ」という極度に単純化された規範それ自体だろう。この場合、何をどのように踊るべきかという規範そのものが「踊らせるもの」として作用している。

 あらためて振り返ってみると、本連載で長らく扱ってきたのもまさしく「踊らせるもの」の両極であったのかもしれない。一方の極にはパッケージ化され意味化された運動のモーションデータ=振付があり(MMD)、もう一方には運動を生成するアルゴリズム=規範だけがあった(オルタ)。これらの生成原理は、即興の規範や振付がそうであるのと同じくらいには「踊らせるもの」であるといってよい。
 いささか特殊な例ではあるが、テッド・チャン「ソフトウェアオブジェクトのライフサイクル」の四本腕のダンスシーン(第3回)は、体のかたちが「踊らせるもの」として作用している例だろう。四本腕のアバターという新しい体は、新しい運動を可能にするというだけでなく、それ自体が新しい踊り方を模索せしめ、新たなネットワークを構築させる「踊らせるもの」である。
 もう少し現実的な例を挙げれば、「おじさん」が美少女型のアバターを使ってガールズヒップホップを踊るという事態もこれに近い(第3回)。ただしこの場合、「美少女」というのが高度に確立した規範そのものであるため、起こっているのは新たなネットワークの模索ではなく別のネットワークへのジャンプである。別の言い方でいえば、美少女というかたちがガールズヒップホップという身体規範を引き寄せ、反対にガールズヒップホップも美少女というかたちを要求している。この構図のなかに、「おじさん」が巻き込まれて踊らされるわけだ。
 石淵のいう「身体」の引き受けとはもちろんある種の比喩であったが、ここではそれが文字通りのやり方で実現されている。ただし注意すべきは、その引き受けが踊ることを目的としたダンサーによる主体的な営みとは限らず、より偶発的な巻き込みのかたちでも生じることだ。つまり、はじめから踊りたくて美少女になる者もあろうが、せっかく美少女になったから踊ってみたという者もあろうということである。後者の場合、美少女型のアバターを踊るための道具とみなすよりも、「踊らせるもの」とみなしたほうが正確な理解であるということになる。
 なるほど、この意味において、たしかに身体はダンスのための道具ではないし、単なる振付の再生媒体でもない。見方を徹底するならば、ダンサー本人にとっては生身の肉体さえも「踊らせるもの」だということになるだろう。TikTokでその体を惜しげもなく披露して踊る若い女性たちは、つまり彼女たち自身の肉体を「踊らせるもの」として引き受けているのである。

 

地球村の盆踊り

 さて、こうしてダンサーから「踊らせるもの」を切り離したところで、今度は「踊らせるもの」の視点に立ち、その挙動について考えてみよう。
 すでに見てきたとおり、今日の情報化社会ではこれら「踊らせるもの」の多くがデータベース上に集約され、流通可能性のもとに置かれている(生身の肉体とか四本腕のアバターは別だが)。我々が「踊らせるもの」によってダンスへと挑発されているのと同様に、言ってみれば「踊らせるもの」たち自身もまた、効率的に流通し作用するべく挑発されている立場にある。「踊らせるもの」たちはまさしく踊らせるという作用を通じて、伝染し、増幅し、流通網上の支配領域を拡大しようとする。さて、このとき「踊らせるもの」は、自らを最大化するためにどのような形式や編成をとるだろうか?

 阿波踊りのシンプルな規範は、なにも持たない者がその場で踊ることさえ可能にする強力なものである。しかし実際のところ、阿波踊りほどシンプルで引き受けやすく、かつ十全に機能する規範はそう多くない。石淵の言うところの「身体」の引き受けの連鎖が際限なく拡大しようとするとき、つまり「身体」が最適な流通戦略をとるとき、それは自由度の高い規範よりもパッケージ化された振付という形態をとる。
 深夜の渋谷で私の足を止めたあの楽曲は、振付を知る常連客にとっては「踊らせるもの」であった。似たような例として思い浮かぶのは、夏祭りの盆踊りの輪だろうか。盆踊りは初めてそこを訪れる者にとって鑑賞の対象でしかないが、何をどのように踊るべきかをひとたび理解した者にとっては「踊らせるもの」のシステムである。このとき、見る者と踊る者のあいだにある閾を超えさせるのは、他ならぬ振付それ自体である。場合によっては人が振付を踊るのではなく、振付が人を踊らせる。
 しかし当然ながら、振付はそれ単独では流通しない。盆踊りの振付は場所特異的にしか機能しない。夏祭りの会場を超えて広く流通するためには、振付があてがわれた特定の楽曲と、振付を踊る肉体の映像とが同時に流通することが望ましい。
 もはや言わずもがなだと思うが、TikTokがダンスを量産する産業機械として優れているのは、音楽・鏡・振付・「歌のお姉さん」という「踊らせるもの」の諸相がそこに集約されているからであり、なおかつ、そのすべてが流通可能なものとして準備されているからである。それは単に踊ってみたい/踊らせてみたいユーザーにとってフレンドリーなUIなのではなく、あらゆる者/モノをダンスへと挑発する力の現れなのである。
 世界中のインターネットユーザーが同じ振付を踊りながら画面の中に現れる、その様相はさながら盆踊りの輪のようである。いうなればデジタルのダンスとはグローバル・ヴィレッジの盆踊りなのであり、別の言い方でいえば、今日デジタルとアナログのあわいに身を置く者/モノにとって、いま世界はひとつのダンスフロアになっているのかもしれない。ダンスフロアは常に「居る」ために踊ることを要求する。3DCGの人形だけでなく生身の人間もまた、地球村に露出するために──つまり村に「居る」ために、なにかを提示しなければならない。この際、振付は持たざる者にさえ力を与える。提示すべきものを持たない者や、より一層「居ること」の濃度を高めたい場合などに、人は手っ取り早く盆踊りを踊るのである。盆踊りの輪に飛び込むためには準備がいるが、振付さえ覚えてしまえば誰もが輪の中に「居ること」ができる。そしてあわよくば、自らがn次的に「歌のお姉さん」となる可能性を目指すのだ。「歌のお姉さん」は振付の流通経路となるだけでなく、「歌のお姉さん」自体が「踊らせるもの」として流通可能性を得る。これはSNSや動画投稿メディアにおける一般人ユーザーの挙動に限った話ではない。テレビやYouTubeに流れる広告で誰も彼もが踊っているのは、きっとそういうことなのだろう。

 もちろん、「踊らせるもの」にとって地球村の盆踊りという地位を獲得することは必ずしも容易ではない。いまや無数に流通している「踊らせるもの」同士が競合し、闘争するからだ。
 第6回で簡単に触れたように、踊ってみた/Dance coverの中心は十余年のあいだにVocaloidや日本のアイドルからK-POPへと移行した。いまでは日本全国のダンススクールが、HIPHOP、JAZZ、LOCKといったお馴染みのジャンルに加えてキッズ向けにK-POPというコースを開講し、公式の振付を上手に踊ることを目的としたレッスンを行っている。ここにはまさしく、オンラインで踊られていた地球村の盆踊りがオフラインへと侵食しているさまを見いだせるわけが、問題はなぜK-POPがいつのまにか地球村の盆踊りになったのかということである。
 背景に音楽ジャンルとしてのK-POPの世界的な優勢があるのはもちろんだが、その優勢がダンスジャンルとしてのK-POPの確立と表裏一体であることも疑いの余地がない。おそらくはそれらの一因を振付という形式の流通可能性が担っていて、一群の振付のうちに闘争を勝ち抜くなんらかの因子があったのだ、というのはそれほど無理な見立てではあるまい。言い換えれば、昔の流行歌が「カラオケで歌える曲」であったように、今日音楽の流通は「踊らせるもの」たちの流通に依存するように思われる。とはいえ、これ以上は本稿で論じられる範囲を超えるのでまたの機会にしたい。
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