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2023.10.06

第9回:「踊らせるもの」の諸相
──その布置、流通、運動への変換

踊るのは新しい体 / 太田充胤

 

「踊らせるもの」を扱う

 はるか回り道ではあったが、こうして話はこの連載の出発点まで戻ってくる。
 「踊らせるもの」という概念は明らかに、ここまでの議論が「モノが踊る」という一見ナンセンスな事象から出発したことに拠っている。そして、今や我々は、「データがモノを踊らせる」という一見理解しづらい事象を、「振付が人を踊らせる」という実はありふれた現象の類似形として理解できるようになった。モーションデータとは一種の魂であり、魂とは身体のかたちとその運用についての記憶である──一番はじめに示したこの見立ては、そもそも振付が魂のように機能する一種の力なのだという理解によってあらためて意味を持つ。平たく言えば、振付によって魂を得るのはモノだけではなく、我々人間もそうなのだということだ。

 まあ、しかし、もううんざりだと感じる向きもあるだろう。なにしろこうして繰り広げられる地球村の盆踊り──人間も人形も分け隔てなく貫く魂の寡占は、どこからどう見ても悪しきグローバル化の一形態にしか見えないからだ。デジタルとアナログのあわいにおいて、ダンスは流通と寡占のための最適化によって特徴づけられる独特の身体運用として形作られていく。ダンスがそのようなものに飲み込まれ、そのようなものこそがダンスだとみなされてしまう状況は、端的に言って面白いものではない。
 とはいえ上述の通り、「踊らせるもの」に積極的に踊らされる者/モノにもそれなりの切実さがある。いや、そもそもこの切実さは、現代のインターネットユーザーに特有のものではなく、古今東西「見られる者」として踊るすべての者が共有してきたものだろう。振付/身体規範が力として振舞うといったとき、たとえばバレエもまた同じ意味合いにおいて力であるという主張をいったい誰が否定できよう。踊れない者・踊りたい者を踊らせるための最も優れた規律訓練・身体規範として地球村に君臨するそれは、紛れもなくある種の力であり「踊らせるもの」に他ならない。だとすると、結局のところ、問題はTikTokばかりではない。インターネット視覚文化は、むしろダンスが元々持っていた性質を顕在化させただけなのかもしれない。

 そう悲観せずに、逆に考えてみよう。こうして「踊らせるもの」という存在があらわになった以上、我々は「踊らせるもの」の布置をデザインすることも、「踊らせるもの」とどのように踊るかを選ぶこともできるようになったはずではないか? そして、新しい踊りの萌芽はいつも、これら「踊らせるもの」たちとどう付き合うかという問いの中から芽生えてきたのではなかったか?
 ロックダンスの始祖ドン・キャンベルは、流行りの振付を積極的に誤用することで自らの新しいスタイルを確立した(第5回)。このときキャンベルがやったのは、結果としては「踊らせるもの」を引き受けつつ引き受けないという離れ業であった。三島由紀夫は土方巽の暗黒舞踏を「われわれの日常的な期待にほとんど答ヘず、我々の目的意識を精妙に背く」と評し、澁澤龍彦は自動人形の悦楽を「生産社会に対する、隠微な裏切り」と呼んだ(第4回)。裏切りとはつまり、自らと観客とをとりまく「踊らせるもの」に背いて踊ることである──。まあ、その気になればこんな事例はいくらでも挙げることができるだろう。彼等のようなダンサーに共通するのは、そのように「踊らせるもの」を裏切っておきながら、いつのまにか自らが新しい「踊らせるもの」としてしたたかに根を張っている点である。「踊らせるもの」の引き受けに失敗する個体を起点として、ネットワークは分岐し、別の階層を展開する。

 これとは対照的に、「踊らせるもの」のシステムに組み入れられることを拒否したダンスが、それ自体は高度な芸術として成立することもある。
 鏡が嫌いな舞踏家の田中泯(第8回)は、ロジェ・カイヨワが自分の踊りを評して言った「名付けようのない踊り」という表現が気に入ったらしい[6]。田中はまた、自らの踊りを型として誰かに伝授したり、受け継がせたりするつもりが毛頭ないことをしばしば語っている。劇場で、あるいは路上で、常に即興で踊られるそれは、反復されず、記録されず、流通せず、名づけられないがゆえに伝承されない。名付けようのない踊りとは、つまるところ行き止まりのダンスである。
 2022年の冬に、池袋の芸術劇場で行われた田中の公演を観に行った。800人超のホールは老若男女の観客で満員であり、この著名な舞踏家に対する関心の高さがうかがわれたが、面白いことに私の周囲の観客は公演中に次々と眠りに落ちて舟を漕いでいた。その日のアフタートークで、踊り終えたばかりの田中自身がこう言った。この会場は、大きいですねえ。大きいですが、私のほうからは皆さんがよく見えます。私の踊りは、こんなふうに小さく踊ることもあるし、まあ、こういう大きいところだと観ていてもよくわからないかもしれませんが……。はっきりとは言わなかったが、舞台に立つ田中からは舟を漕ぐ観客がよく見えていたのだろうと思った。
 公演自体が上手くいっていなかったと言いたいのではない。私自身はかなり面白く鑑賞した。ただ、多くの人が眠ってしまうのも無理はなかった。シンと静まり返った大きなホール。舞台上にともる最低限の照明。遠目に見ると動いていないようにさえ見えるダンサー。問題は単に暗くて静かなことではなく、ダンサーと観客とが「踊らせるもの」をほとんど共有できないことにあった。ダンサーは観客も知覚できるような身体外部の「踊らせるもの」によって踊るのではなく、観客の大半が知覚できない身体内部の「踊らせるもの」によって踊っていた。出力される踊りそのものもまた、会場のあまりの広さゆえに「踊らせるもの」として十全に機能していなかった。

 田中はパフォーマンスの舞台として路上や公共空間のような小さな場所を選ぶことも多いが、こういう場所だと観客はみな食い入るように田中を見つめているのが常である。
 おそらく、行き止まりのダンスは劇場と路上とで全く別の意味を持つのだろう。路上では、「踊らせるもの」はあらかじめデザインされて舞台の上に配置されるのではない。ダンサーがそこに身を置くことで、日常空間が一時的に「踊らせるもの」の布置として立ち上がる。ありとあらゆる「踊らせるもの」へと開かれること。その空間の全てを「踊らせるもの」として引き受けること。名付けようのない踊りを鑑賞することとは、こうしたその場限りの引き受けに立ち会うことに他ならない。そうだとすると、劇場空間に予め設えられた「踊らせるもの」のセットアップ──舞台装置、振付、音楽、照明──は、むしろダンスの発生を阻害するものでしかありえない。目の前でダンスが発生しなければ、観客は暗闇で舟を漕ぐしかない。

 

すべてを「踊らせるもの」化する

 困ったことに、こうした路上のパフォーマンスはどうしても行き止まりのダンスになってしまう。「踊らせるもの」の布置が場所特異的であり、流通不可能であるためだ。すべてのダンスが盆踊りを目指す必要はないとしても、このような踊り方はグローバル化や情報技術をめぐる現況とあまりにも相性が悪い。
 しかし見方を変えてみれば、ダンサーとはそこに存在するありとあらゆるものを「踊らせるもの」として可視化し、ヒト型のオブジェクトの運動に変換する装置でもあることになる。「踊らせるもの」がその場限りで流通しないとしても、運動の軌跡それ自体は流通可能性のもとに置かれる。つまるところ、行き止まりのダンスは本当は行き止まりではない。それを見た者の側に踊るつもりさえあれば、そこから従来の「踊らせるもの」とは別のネットワークが分岐するポテンシャルを有している。

 田中の路上公演の映像記録を観ながら、私はオルタと対峙したときのことを思い出していた(第4回)。
 私はあのとき、オルタが生成しつづけるランダムな運動をダンスと呼んでいいのかどうかをためらった。しかし今なら、オルタの運動をダンスと呼び、そこに新しい意味を与えることを迷わない。というのも、オルタもまた池袋の田中と同じく、観る者には共有されない「踊らせるもの」によって踊っていたわけだから。
 温度、湿度、照度、周囲のオブジェクトとの距離……通常人間にとって「踊らせるもの」とは言いがたいこれらのパラメータは、オルタという媒体を介して「踊らせるもの」の布置という新たな意味を得る。もちろん生身の人間は、オルタが使うアルゴリズムそのものを理解したり、自らの肉体で実践したりすることはできない。この点で、オルタのダンスはやはり行き止まりのダンスではあり、それゆえにオルタ自身も踊っているとは見なされない。しかし我々人間は、オルタが出力した運動を「踊らせるもの」として引き受けることができる。森山未來とオルタの対舞は、本質的には、オルタにとっての「踊らせるもの」を人間圏にむけて翻訳するためのシステムであったと考えるべきだろう──実際にそれが成功したかどうかは別として。
 いずれにせよ、このような翻訳作業だけが、行き止まりのダンスであったはずのものを行き止まりではないものにする。これはつまるところ、情報技術によってより一層強大なものと化した「踊らせるもの」のネットワークから、情報技術をつかってふたたび脱出するための方法でもある。人外のアルゴリズムは具体的な運動の軌跡のかたちで、つまりは振付・ボキャブラリ・モーションデータといった形式で、流通可能性のもとに置かれることになるからだ。このような回路によって、潜在的にはこの世のすべてが「踊らせるもの」として活用可能な資源となる。

 いまさら言うまでもなく、人間以外の存在から身体運用を盗むという手法の歴史は古い。白鳥、獅子、猿、狐、植物……今日その選択肢にモノや機械や生成AIが加わったのだと考えることは、それほど不自然なことではない。それらは人間の身体の延長でも、人間のための道具でも、単なる鑑賞物でもなく、それ自身の規範をもった他者であり、ダンサーであるということとだ。
 もっとも、それらには明らかに動物と違ういくつかの点がある。それらが自ら絶え間なく新しい踊り方を編み出し続けること。しばしば人間圏に紛れ込むこと。情報化時代の果てに繰り広げられるであろうプロキシたちのサイファー(第8回)は、生身の人間とはまったく無関係なネットワークを編み上げ、それでいて、さも人間が踊っているかのような表象を作りあげる。AIによる自動生成が既得権益を脅かすといったとき、ことダンスにおいては、単にうまく模倣し剽窃することが問題になるのではない。むしろ裏切ることによって、身体規範と権力の構造を攪乱し、根底から覆してしまうことが問題なのである。
 この状況を災厄ととるか、福音ととるかは意見の分かれるところだろう。こうして「踊らせるもの」のネットワークが無限に多層化することは、私にとっては喜ばしいことである。3DCGモデルが人間から盗んで踊るのと同じように、そのつもりさえあれば、人間もまた3DCGや機械のダンスをいとも簡単に盗むことができるだろう。なにしろそれらのモノは、ご丁寧にもヒトの体と同じかたちをしているのだから。

 

[1]マルティン・ハイデッガー『技術への問い』平凡社ライブラリー、2013年、32頁
[2]石渕聡『冒険する身体──現象学的舞踊論の試み』春風社、2006年、112頁
[3]同書、113頁
[4]同書、5頁
[5]同書、5頁
[6]犬童一心監督『名付けようのない踊り』2021年

 

この連載は今回が最終回です。
長い間ご愛読をありがとうございました。