映画監督・文筆家の鈴木史さんによる本連載は、「ゆらぎ」とともに映画史のさまざまな場所・時間を彷徨いつつ、そこから逆説的に自らを再定義した存在たちについて考えることから、今日において映画を見ることのなかで主体的に「迷子」となり「不良」と化すことがいかに可能か、批評という営為において問いかけます。記念すべき第1回の探究は、『俺は田舎のプレスリー』のカルーセル麻紀の横顔から始まります。
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古代ギリシャのいくつかの都市では、疫病や飢饉、旱魃が起き、社会に不安が広がると、その共同体において周縁的な存在がスケープゴートとして仕立て上げられた。その人物は「パルマコス」と呼ばれ、衣服と食事を与えられると、飾り立てられ、祭り上げられたあげく、石打ちに処され、殺された。もしくは、その共同体を追放されることとなった。それが石打ちによって行われる理由のひとつは、古代ギリシャでは神を冒涜した者がいると、その集団全体に神罰が下ると信じられていたため、その元凶となった人物ひとりに責任を負わせ、その者を石打ちに処するという慣習が存在したからだ。いつしかこの慣習が、共同体を覆う不安を社会の周縁で生きる弱き者に転嫁し、人々の不安を取り除こうとする慣習へと変わっていった。石打ちであったもうひとつの理由だが、それは、石打ちが大勢で行われる行為であるため、ひとりの人間を疎外すること、命を奪うことの罪悪感を軽くすることができたからだ[1]。
古今東西の映画の歴史を振り返れば、こうした「パルマコス」と呼べるような存在が、そこかしこにいるように思われる。彼ら彼女らは、社会のなかに取り残され、「迷子」になってしまったはずが、あるとき自身を襲っていた「ゆらぎ」を、スター俳優や異才の監督といったような役柄を引き受けることで手懐け、その「ゆらぎ」を自分自身のものとすることで、「不良」へと変貌し、自己を規律し直した人々だ。そんな人々の「ゆらぎ」を、同じく「ゆらぎ」を携えた者であれば、触知することができるのではないか。筆者はこの連載で、先行世代の映画好きの人々の価値観からも迷子になり、しかし新しい世代の価値観に寄り添い切ることもなく、徹底的に迷子になることで、映画史のなかに取り残された迷子たちを探しにゆくことができるのではないかと思っている。
そう考えていると、誰よりもはじめに、ある人物の横顔が見えてきた。
パンフレット『俺は田舎のプレスリー』
「かあちゃん、帰ってきたよ」だっただろうか、「かあちゃん、ただいま」だっただろうか。寂しげな墓地で、墓石を前にした彼女が、そうつぶやく。そのまなざしはどこか儚げなのだが、表情は決して暗くはなく、どちらかと言えば明るい。彼女はいつも微笑みをたたえることで、周囲の視線によるあらゆる決めつけを、あらかじめ拒絶しているように思える。嘲笑も、憐憫も、その横顔には相応しくない。周囲から「真美男」という名前で呼ばれている彼女が墓石の前でつぶやいたのが、はじめに書いたように「かあちゃん、帰ってきたよ」だったか「かあちゃん、ただいま」だったか、筆者の記憶が朧げなのは、本作『俺は田舎のプレスリー』がDVDすら発売されておらず、見直すことが叶わないからだ。それでもこの映画について言葉を紡がなければならないと思わされるのは、VHSの荒い画像と褪色したフィルムの質感を通して過去に二度だけ触れ合うことができた本作のなかで、カルーセル麻紀演じる「真美男」から発せられたその声のトーンと微笑みだけは、はっきりと思い出すことができるからだ。
『俺は田舎のプレスリー』は、満友敬司の第1回監督作として1978年に公開された。物語は、ソルボンヌ大学に留学[2]していたカルーセル演じる一家の「長男」が、誰も知らぬうちに性別適合手術を済ませ、パリから故郷である青森の村に戻ってくることで、家族を含む村の人々に混乱が起きるという、ごく単純な喜劇だ。どうやら満友はこの一本のみを監督したのちは助監督に戻り、劇場用映画の監督作を残すことはなくキャリアを全うしたようなのだが、しかし本作は、シリーズ第2作にあたる『俺は上野のプレスリー』(1978/監督:大嶺俊順)をはじめ、同時期のカルーセル麻紀が出演した作品と比較しても、彼女の演じる人物像へ遥かに繊細なまなざしを向けていて、顧みられるべき作品だろう。『俺は田舎のプレスリー』とは物語上直接の繋がりはない第2作『俺は上野のプレスリー』では、カルーセルが演じるキャラクターは周囲の嘲笑と猜疑を集めることで観客の笑いを喚起する異質な存在へと追いやられていた。このことはNETFLIXのドキュメンタリー『トランスジェンダーとハリウッド: 過去、現在、そして』(原題:『Disclosure』/2020/監督:トム・フェダー)に照らし合わせてみても、現在「トランスジェンダー」と名指される存在たちが、これまでの映画と映像の歴史のなかで絶えず晒されてきた、暴力的なかたちでの定型化にほかならない。映画史における同性愛者の表象を批判的に探究したドキュメンタリーの古典『セルロイド・クローゼット』(1995/監督:ロブ・エプスタイン)に連なるような作品と呼べる『トランスジェンダーとハリウッド: 過去、現在、そして』では、現在では「トランスジェンダー」と名指される人々が、過去の映画においては多くの場合、一方的に笑い物にしても良い人物か、あるいは暴力を働く異常者として、その実像とかけ離れた描かれ方をされてきたことが、多くの実例を挙げて提示されている。
蓮實重彦『シネマの記憶装置[新装版]』(フィルムアート社)
満友の作り出すそうした画面の繊細さについては、映画批評家の蓮實重彦も本作公開当時の批評で、カルーセルが村を去って行く田舎駅での別れの場面を挙げながら、カルーセルが「妙に晴れやかな表情で去ってゆく」[3]こと、「遠くにいささか焦点のぼけたかたちで捉えられている倉庫から豆粒のような工夫がふっと姿を見せて袋のようなものの塵埃をたたいて姿を消す」[4]ことなどを指して、感動的な別れのシーンだと言及し、本作に賛辞を送っている。蓮實は本作について、「今日映画を生きることで存在が蒙る痛みが色濃く影を落としており、しかもその痛みとの戯れを芸のない諧謔や迫力を欠いた居なおりで避けて通ろうとする安易さを厳しく排してもいる」[5]と述べ、「きわめて倫理的な映画」[6]とまで言っている。たしかに、シリーズ第2作『俺は上野のプレスリー』における、有り体に言ってしまえば「怪物扱い」されるカルーセルの演じた人物像は、まさに蓮實の言う「痛みとの戯れを芸のない諧謔や迫力を欠いた居なおりで避けて通」ってしまった結果に違いないだろう。第1作『俺は田舎のプレスリー』は、カルーセルが終始笑顔に徹し続けることによって、彼女の演じる人物が他のあらゆる感情を笑顔の内に秘めていることに観客の意識が向かう仕掛けが、演出によって全編に張り巡らされており、本作を喜劇でありながら喜劇以上のものとすることに成功している。
しかし、そうした本作のいくつもの優れた点は、満友の演出もさることながら、そもそもカルーセル麻紀という稀有な才能がなければ、もたらされなかったものでもあるだろう。ここで、カルーセルの演じた人物像が、その帰郷によって何を目論んでいたのか、他者の心の中を覗くことなどできはしないという原則を承知で詮索してみたいと思う。どうにも筆者には、彼女の存在を単に他者と言い切って突き放すことができないのだ。映画のなかの登場人物に共感するということには、常に共感という名の支配の不誠実さが付きまとうのだが、しかし彼女の横顔に接する時、映画史のなかに取り残された迷子を探しに行きたいという欲望を押し留めることができない。そうしなければ、彼女は永遠に退色したフィルムの向こう側に、消えていってしまう気がする。
おそらくこの映画を喜劇として成立させる条件は、すべてカルーセル麻紀演じる「真美男」によって、あらかじめ仕掛けられたものだ。カルーセルの帰郷により、曽祖父(嵐寛寿郎)も、父も(ハナ肇)、弟(勝野洋)も、かつての許嫁(鮎川いずみ)も、取り乱したり泣いたりするばかりで、一家は混乱の只中に追いやられてゆく。「長男」と思い込んでばかりいたカルーセルが、実はそうではなかったというのは、家族にとってみれば悲劇的な状況なのかもしれないが、その「悲劇」を引き起こした張本人は、カルーセルが実家で家族を翻弄するシーンを見てもわかる通り、この家族そのものだろう。ひさかたぶりに帰郷した親族であるカルーセルに向けられた罵倒、無関心、拒絶。冷静になって見てみれば、その家族の姿は彼女にとってあまりに残酷だ。しかし、家族はそのことに気づけない。だが、カルーセル演じる「真美男」と呼ばれるその人物は、はじめからその事態を重々承知してもいたのだろう。この帰郷は、家族に拒絶されるという事態を先取りして予測した彼女が、その拒絶を受けることで、家族や故郷と訣別する、自分自身の自己を取り戻すための通過儀礼として目論んだものだ。だからこそカルーセルは、日傘をさして田舎村の駅のホームに降り立ち、そしてその同じホームから列車で去ってゆくまでの1時間に満たないわずかのあいだ、この映画のなかで終始笑顔であり続けようとする。その不思議な笑顔が、観客の嘲笑や揶揄を誘うのとは一線を画した、単なる喜劇(Comedy)以上の「喜劇(Divine Comedy)」の側へとこの映画を引き上げ、さらにはカルーセルに安易な哀れみを向けることも拒絶する。そうした彼女の鉄壁の孤立性に唯一、接触を試みることができたのが、橋本功演じるカルーセルのかつての友人の教師だ。深夜の学校の宿直室で、カルーセルと橋本は酒を飲みながら、曖昧な距離感で同じ時間を共有する。時間だけが過ぎてゆくことが、繰り返されるオーバーラップで強調される。やがて橋本は眠ってしまう。袖口がふんわりと開いた薄手の衣服を身につけただけのカルーセルの姿は、橋本演じるかつての友人の視線に、自分自身が果たしてどのように映っているのか、彼とどのような関係を結べば良いのか戸惑っているかのようだ。このシークエンスは、帰郷のほぼすべてが他者からの拒絶で終わるであろうことを予測していたカルーセルの目論見が幸いにも崩れかける瞬間で、だからこそ感動的だ。前傾の文章の蓮實だけでなく、本作について書かれたインターネット上のブログなどを見ても、すでに多くの人がこのシークエンスを、やはり感動的な場面として記憶しているようだ。
早稲田大学演劇博物館 2020年度秋季企画展 Inside/Out――映像文化とLGBTQ+
木下惠介についての著書『夕焼雲の彼方に─木下惠介とクィアな感性』(ナカニシヤ出版、2022年)もある映画研究者の久保豊が企画・構成し、2020年9月から翌年はじめにかけて早稲田大学演劇博物館で開催された、戦後から現代までの日本映画におけるLGBTQ+の表象を概観した「Inside/Out――映像文化とLGBTQ+」展においても、『俺は田舎のプレスリー』は展示の第1章を締め括る象徴的な作品として置かれていた。いわゆるLGBTQ+をめぐる文脈でこれまで言及されてきた映画群と、先述の論考の蓮實が称揚してきた数多の映画群は、交差することが少なかった印象があるのだが、現在的な視点からは「トランスジェンダー」と名指されるLGBTQ+の性質を明確に持ったカルーセル麻紀という役者を擁した作品として、『俺は田舎のプレスリー』は、両面から肯定的に語り得るだろう例外的な特異点を示している。それは終始笑顔でいることによって、他者の容易なまなざしを拒んでいるかのようなカルーセル麻紀の役柄を超えた存在感が、その魅惑的な微笑みを携えながら近代的な性の規範を撹乱し、あらゆる人を視覚的快楽[7]の彼方に連れて行ってしまうからだ。だからこそ、彼女の微笑みの向こう側にある「彼女自身」に、誰もが接近したいと思う。
先述の蓮實の論考は「画面という名の表層」という題を持っているが、その論考の最後は『俺は田舎のプレスリー』という作品そのものへ向けた言葉でありながら、本作におけるカルーセル麻紀自身を指しているようにも読める。
「画面に徹するとは、繰り返すが、審美眼と手法とも異質の、映画の現在を生きる姿勢の問題だ。この映画がある種の呆気ないもの足らなさの印象を残すとしたら、それは作者が良識と妥協して不快さを避けて通ったことからくるのではなく、画面というこのうえなく希薄の表層で自身を支える身振りが、名人芸の綱渡りのように感動的に重力を超えたものだったからだ。」[8]
『俺は田舎のプレスリー』における、村の期待を一手に引き受けていた田舎の秀才の帰郷は、橋本功演じる旧友との寡黙な一夜を除いて、おそらく彼女が複雑な意識のなかであらかじめ希求していた通りに、家族の罵倒、無関心、拒絶で終わる。彼女は初めからこの村と家族に別れを告げるために帰郷したのだ。しかし筆者には、数多の抑圧で押しつぶされてしまったかに見えるこの人物が、新幹線に乗ってもう一度故郷に向かう姿が、現在のカルーセル麻紀の白髪の横顔を借りて、見える気がする。実際、彼女は画面の中だけではなく現実を生きた存在であり、彼女たちのように生きる人々はいまも昔も存在する。因習にとらわれ、過去に取り残されたあの村は、カルーセルが去ったあと、一体どうなるのだろうか? 自らを守るために排除を推し進めた共同体は、もはや再び彼女を迎え入れなければ自壊する一方だろう。もう一度、故郷へ旅をする彼女のまなざしの先が見える。その先に、彼女の座る椅子は、まだ残されている。
[1] 「パルマコス」については、主に次を参照した。平山晃司「パルマコスの儀礼における石打ちについて」、『西洋古典学研究XLIX』所収、日本西洋古典学会編 2001年、p. 86–97
[2] ソルボンヌ大学という設定は、実際にキャバレーのキャストを経てソルボンヌ大学に進学したバンビのような人物を想起させる。バンビについては、セバスチャン・リフシッツが監督し、彼女にインタビューしたドキュメンタリー映画『バンビ:ある女の誕生』(2021)がある。
[3] 蓮實重彦「画面という名の表層 満友敬司の『俺は田舎のプレスリー』」、『シネマの記憶装置[新装第2版]』所収、フィルムアート社、2018年、p.236
[4] 前傾書、p.232
[5] 前傾書、p.230
[6] 前傾書、p.230
[7] 「視覚的快楽」という用語については、次を参照されたい。ローラ・マルヴィ「視覚的快楽と物語映画」斉藤綾子訳、『「新」映画理論集成1 歴史/人種/ジェンダー』所収、岩本憲児・武田潔・斉藤綾子編、フィルムアート社、1998年、p.126–141。また現在においては、同論考末尾に収められた斉藤綾子による[解題]での「「視覚的快楽」を歴史的文脈で読むことができる現在、マルヴィのモデルが単純な二項対立と伝統的な美学意識に基づいていることは明らかであるし、その問題点を指摘して過去のものとすることは簡単だが、「視覚的快楽」が提起した問いかけを無視できる状況にはいまだ至っていないことを決して忘れるべきではないだろう。」という指摘は、非常に重要だろう。
[8] 蓮實重彦「画面という名の表層 満友敬司の『俺は田舎のプレスリー』」、『シネマの記憶装置[新装第2版]』所収、フィルムアート社、2018年、p.240
バナーイラスト゠小宮りさ麻吏奈
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