映画監督・文筆家の鈴木史さんによる本連載は、「ゆらぎ」とともに映画史のさまざまな場所・時間を彷徨いつつ、そこから逆説的に自らを再定義した存在たちについて考えることから、今日において映画を見ることのなかで主体的に「迷子」となり「不良」と化すことがいかに可能か、批評という営為において問いかけます。
第3回は話題の新作ショーン・ベイカー『ANORA アノーラ』について。「リトル・オデッサ」という地での人々の「マウントポジション」をめぐる関係性の先に見出されるものとは何でしょうか。今回は前後半の掲載になります(本稿には『ANORA アノーラ』の核心部分に触れる内容が含まれます、その点をご理解の上でお読みください)。
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アニー(マイキー・マディソン)は時々、自分がロシア語を話せることを思い出す。そして時々は、自分がロシア語を話せることを忘れている。ロシアにルーツを持つ彼女は、リトル・オデッサで育った。
ニューヨークのブルックリンの南の外れにあるブライトン・ビーチを、人々はリトル・オデッサと呼ぶ。ロシア、あるいは旧ソヴィエト連邦諸国からやってきた移民にルーツを持つ人々が暮らすその町は、ウクライナ南部の港湾都市であるオデッサになぞらえて、いつしかそう呼ばれるようになったのだ。そのリトル・オデッサで、アニーはストリップダンサーをしている。彼女の名前はアノーラと言うようなのだが、彼女自身はそう呼ばれるよりは「アニー」と呼ばれることを好んでいるようで、「アニーって呼んで」などと言って微笑んでいる。
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『ANORA アノーラ』©2024 Focus Features LLC. All Rights Reserved. ©Universal Pictures
本作『ANORA アノーラ』には、主人公・アニーと恋仲になる青年イヴァン(マーク・エイデルシュテイン)がロシアの「オリガルヒ」(ソ連崩壊による経済民営化後に隆盛した新興財閥)の御曹司であるため、プライベイト・ジェットのような豪奢な乗り物も登場するのだが、やはり物語の主導権を奪い去ってゆく乗り物は、かつてのショーン・ベイカー作品のいくつかでもそうだったように、地上をひた走り、路地を荒い運転で駆け抜けてゆく乗用車だ。
そもそも本作には、乗用車というモチーフに限らずとも、乗る/乗られるという構図への意識が張り詰めており、仰向きの人物にもうひとりの人物が馬乗りになる姿勢(これを格闘技ではマウントポジションと言うらしい)が散見される。ファーストシーン自体、アニーの働くストリップクラブの隠し部屋らしきブースで、従業員の女たちがソファに座る客の男たちに馬乗りになり、セックスをしているひとりひとりの背中から臀部が上下するのを移動撮影が映し出したかと思うと、テイク・ザットの「グレイテスト・デイ」が鳴り響き、そこに「ANORA」という文字がデカデカと浮かび上がる。このシーンにおいて、体勢としては、上に乗っているのはアニーをはじめとしたストリップ・ダンサーたちなのだが、下で乗られている男たちは、彼女たちを金で買っているのでもあり、体勢そのものと、その背後に存在する金銭のやりとりの主従の状態を考えるならば、ここでは「マウントポジション」をとっているのがアニーたちなのか、客の男たちなのかはごく曖昧で、そこにある種の分裂を見て取ることもできるだろう。性をめぐって主従関係が目まぐるしく入れ替わり、人々の関係が不和を引き起こしてゆくという主題は、過去の歴史に遡るならば、ピエル・パオロ・パゾリーニの作品に顕著に見出されるものでもあり、実際、ショーン・ベイカーは、落ちぶれたポルノ俳優の中年男性を描いた前作『レッド・ロケット』(2021)を、都市の低層で自堕落な生活を送る若者たちを描いたパゾリーニの長編第一作『アッカトーネ』(1961)に影響を受け制作したとも語っている[1]。

『ANORA アノーラ』©2024 Focus Features LLC. All Rights Reserved. ©Universal Pictures
ベイカーによる2015年の監督作『タンジェリン』においては、ふたりのセックスワーカーの人物が物語の中心に据えられていた。シンディ・レラ(キタナ・キキ・ロドリゲス)とアレクサンドラ(マイヤ・テイラー)のふたりはアフリカ系であるようで、なおかつ、所謂トランスジェンダーの女性でもあるのだが、物語は、恋人であるチェスター(ジェームズ・ランソン)が浮気していることをアレクサンドラに知らされたシンディが激昂し、ふたりがチェスターとその浮気相手に復讐をしに行くという、珍道中と乱痴気騒ぎの1日を描いている。ここでもうひとり重要になるキャラクターが、ロサンゼルスのうらぶれた街路を闊歩するシンディやアレクサンドラをタクシーで追いかけ回すアルメニア移民のタクシードライバー、ラズミックだ。ラズミックを演じるカレン・カラグリアンは、『ANORA アノーラ』でもアニーがうっかり結婚してしまったロシアの大富豪の御曹司イヴァンをロシアに連れ戻すためイヴァンの両親が差し向けたアルメニア人司祭を演じているベイカー組の常連俳優だが、『タンジェリン』においても、やはり彼はアルメニア系の人物であり、女性ばかりの大家族で「働き頭」としてタクシードライバーを営み、同時に街路でセックスワーカーと思しきトランスジェンダー女性をタクシーで付け回しては、乗り込ませた車で彼女たちのパンツを脱がせ、時にペニスが無いことに気付くと激昂したりするという特徴的なキャラクターとして描かれていた。もっともこのような光景は、決してロサンゼルスのうらぶれたストリート特有のものではなく、日本であれ、どこの国であれ、ジェンダーやセクシュアリティの学問的な理解と無縁の薄汚れた街路でつねに展開され続けている光景であることを、「社会の低層」に目を向けるベイカーのフィルムに向き合うとき、観客は決して忘れるべきではないだろう。そこに見て取れるのは、社会そのものに「マウントポジション」を取られてしまった、あられもない個人の姿でもあるからだ。その小さなストリートで、シンディもアレクサンドラもチェスターもラズミックも小さな「マウントポジション」の取り合いを繰り返さざるを得ず、やはり『アッカトーネ』的と言えるような状況がそこに広がっている。

『ANORA アノーラ』©2024 Focus Features LLC. All Rights Reserved. ©Universal Pictures
『ANORA アノーラ』のアニーは、ストリップクラブへのイヴァンの来訪を知り、自分自身がロシア語を話せることを思い出す。自分のロシア語を活かして、クラブの他のキャストを出し抜くことができるチャンスだ。彼女はイヴァンの豪邸に招かれると、そのまま「玉の輿」に乗ろうとし、イヴァンもイヴァンで、浅はかな目論見と衝動性のみで行動し、ふたりは結婚へと突き進んでゆく。そこへ、イヴァンの激怒した両親が差し向けたアメリカでのイヴァンの見張り役、トロス(カレン・カラグリアン)、イゴール(ユーリー・ボリソフ)、ガルニク(ヴァチェ・トヴマシアン)がやってきて、アニーは大柄な彼らと大立ち回りを繰り広げることになる。手のつけられないアニーの暴れぶりを前に、かろうじてイゴールが彼女を背後から羽交い締めにして取り押さえるのだが、それでも「玉の輿」を反故にされそうになったことに対するアニーの怒りはおさまらない。アニーを羽交い締めにするイゴールは目を薄く開けているばかりの無表情で、それでもどこかその瞳は寂しげなのだが、羽交い締めとはいえ彼は周到にアニーの下を取り、カメラが向けるまなざしのより低い方、低い方へと自分を追いやってゆく。同時に、イヴァンやイゴールと話すうちに、アニーの使う言葉は、英語からロシア語へとその座を移していくことになる。大暴れしていたはずのアニーは無意識のうちに、彼らの言葉の時間に取り込まれてしまったのだ。彼女がロシア語を思い出せば出すほど、アニーが取り得た「マウントポジション」に破綻がもたらされてゆく。
羽交い締めにされるアニーは叫び声を上げていたが、以前にも、リトル・オデッサには、女性のロシア語による叫びが響いたことがあった。
ジェームズ・グレイによる『リトル・オデッサ』(1995)は、その名の通り、ブルックリンのリトル・オデッサを舞台にしている。マフィアや殺し屋といったきな臭い人物が大半を占めるこのロシア系移民たちの物語において、ロシア語で悲鳴をあげていたのは、主人公たる殺し屋のジョシュアの母親、イリーナだった。ジョシュアは殺しの仕事のために、一度は捨てた故郷リトル・オデッサに舞い戻ったのだが、道を外れた彼と父のあいだには大きな確執がある。弟は、父を跳ねつけて家を飛び出したジョシュアのことを慕っているのだが、一方で脳腫瘍を患った母は、ロシア系ユダヤ人のコミュニティの結束を守ろうと頑迷に振る舞う父と、道に迷う息子たちのなかで、そうした家庭のあらゆる矛盾の受け皿となって、あたかも「聖母」の役割を押し付けられてしまったかのように疲弊している。彼女は、夜に起き出しては「助けて!」とロシア語で叫ぶのだが、父親は、ベッドで悶える母の上に覆い被さると、彼女の口に手を当てて「落ち着け」という言葉を繰り返すことしかできずにいる。カメラのまなざしを前にした、この父の母に対する「マウントポジション」こそが、『リトル・オデッサ』という一族の物語を取り返しのつかない悲劇の方へ押し流してゆくことになる。
『リトル・オデッサ』は、車の中にいるジョシュアを映してその物語を終える。運転席にいるジョシュアに車外からゆったりと前進移動で近づくカメラは、時折まばたきをするのみの語り得ぬ表情を映し出すばかりなのだが、それが車外からの前進移動であることによって、彼がこの世界の因果がもたらす袋小路に押し込められてゆくかのような印象をもたらす。
『ANORA アノーラ』のアニーは、イリーナのようにロシア語で叫びながらも、彼女のように男たちに覆い被されることを拒絶し、自らの肉体を駆使し、彼らの上に覆い被さろうとする。しかし、その果てに、御曹司イヴァンは逃走し、イゴールだけが彼女のそばに残るだろう。イゴールは、そのラストシーンまで一貫して、彼女の下側を取ることを選択するのだが、しかし時折、「ロシア語ならアノーラと言う名前の愛称はアーニャだ」などとつぶやく。アニーはそれを跳ね除けるのだが、アニーは彼らと離れられなくなるとともに、英語以外に自分が話せたもうひとつの言語のことを徐々に思い出してゆく。

『ANORA アノーラ』©2024 Focus Features LLC. All Rights Reserved. ©Universal Pictures
ショーン・ベイカーのフィルモグラフィに突如闖入してきた、このイゴールという硬派な人物像はいったいどこからやってきたのだろう? アニーに「ゴプニク」(旧ソ連構成国の労働者階級で独自の不良文化を体現する人々の俗称)と揶揄され、不器用で朴訥とした佇まいでいるイゴールの目を見ていると、かつての映画のなかにも彼によく似た瞳を持った青年がいたことを思い出す。彼らは、ショーン・ベイカーのフィルムの人々がみなそうであったように、うらぶれた、煤けた街路にいた。
次回は、一度ブルックリンを離れ、遠くソヴィエト連邦崩壊直後のロシアへと目を移し、ヴィターリー・カネフスキーの『ぼくら20世紀の子供たち』(1994)で、サンクトペテルブルクの路上に生きていたストリート・チルドレンに、イゴールの面影を探そうと思う。
そして再び、イヴァンとの仮初めのロマンスを終えたアニーと、彼女に同行することとなるイゴールに目を向けたい。
『ANORA アノーラ』
監督・脚本・編集:ショーン・ベイカー
製作:ショーン・ベイカー、アレックス・ココ、サマンサ・クァン
出演:マイキー・マディソン、マーク・エイデルシュテイン、ユーリー・ボリソフ、
カレン・カラグリアン、ヴァチェ・トヴマシアン
2024年/アメリカ/カラー/シネスコ/5.1ch/139分/英語・ロシア語/R18+
公式WEB:https://www.anora.jp/
公式X:@anora_jp
2025年2月28日(金)全国ロードショー
配給:ビターズ・エンド ユニバーサル映画
©2024 Focus Features LLC. All Rights Reserved. ©Universal Pictures
註
[1] 「人生はユーモアに満ちている。『レッド・ロケット』のショーン・ベイカー監督にインタビュー。」POPEYE Web ポパイウェブ、2023年4月29日、text: Keisuke Kagiwada https://popeyemagazine.jp/post-160523/