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2021.09.08

特別鼎談 濱口竜介(映画監督)×三宅唱(映画監督)×三浦哲哉(映画批評家)
映画の「演出」はいかにして発見されるのか――『ドライブ・マイ・カー』をめぐって

Creator's Words / 三宅唱, 濱口竜介, 三浦哲哉

第74回カンヌ国際映画祭にて、コンペティション部門脚本賞ほか4賞を獲得した『ドライブ・マイ・カー』は、映画監督・濱口竜介がこれまでに歩んできた様々な「演出」をめぐる冒険の先に確実に位置した作品であると言える。しかしながら、そのことはこれまでに培われた方法を別のフォーマットで「試す」ということだけを意味するわけではないだろう。この作品でなければありえなかったような方法、この作品だからこそ為し得た何かがあるからこそ、『ドライブ・マイ・カー』は私たちの目と耳と心を掻き乱す傑作として結実しているはずだ。
本作の公開にともない、濱口竜介監督と同時代の映画監督・三宅唱氏、二人とさまざまなかたちで映画をめぐる議論を続ける映画批評家の三浦哲哉氏によって行われた、『ドライブ・マイ・カー』の演出をめぐる対話の一端をお送りする。

*本鼎談には『ドライブ・マイ・カー』の核心部に触れる記述が全編にわたって記載されています。ご鑑賞前にお読みいただく場合、その点に十分ご注意ください。
*本鼎談は同参席者による鼎談「「われわれは終わった後を生きている」という気分」(『キネマ旬報 2021年8月上旬号』所収)をふまえて行われました。ぜひ本記事と併せてお楽しみください。

 

■ファーストシーンをめぐって:観客に負荷をかける

三宅唱:映画をどんな場面から始めるのか、重要だと思うんです。『ドライブ・マイ・カー』のファーストシーンはシナリオ通りですか? なぜあの場面から映画を始めたんでしょう。

濱口竜介:シナリオ通りだし、そもそもプロット通り。基本的に映画の始まりって、観客にとってのリアリティの水準をどこに設定するかにおいて重要だと思っています。この映画の家福夫婦には昼と夜の生活があって、昼は普通に妻の家福おと(霧島れいか)は脚本家として、夫の家福悠介(西島秀俊)は俳優として生活しているんだけど、夜になると二人はセックスし、そのあとで妻の音がトランス状態に入って物語を話し出すという設定がある。これを昼から始めると夜の場面で「おいおい、どういうことだ」となると思うんですけど、夜の場面から始めると、観客にとってその場面がこの映画のリアリティの基準というか「そういうものだ」という受け止め方になるのではないかと。普通の流れでは受け入れづらい要素を、ある種の映像の強度とともに最初に示すことで、観客にまずそれを受け入れてもらうことから始められる、逆にそうしないとこの話を進めるのが難しくなるということはすごく考えていました。

三宅:リアリティの基準などについて、映画を作るようになっていつから気にしてました?

濱口:うーん、でもけっこう最初からかな。つまんない話ですけど、映画作ろうと考えると、たとえばシナリオの書き方の本とか読むわけじゃないですか。その中で「初頭効果」ってものがあると知ったんです。映画の最初の10分って、観客が非常に集中して情報を拾う時間で、この時間帯の観客の許容度はすごく高いんだと。それはそうだって思ったんです、単純に。

三浦哲哉:単純だけど、真実だよね、多分。

濱口:だから、この時間にできる限りのことはやっとかないといけない。

三宅:『ハッピーアワー』(2015)について三浦さんが「この映画の導入部は映画の見方を教えてくれるようだ」ということを書いていましたが、「声を聞くこと」から始まる『ドライブ・マイ・カー』もまさにそういう導入になっていたように受け止めましたし、そう意識しなくても、ごく自然と、ベッドや車中、舞台上での異なる声の響きがすっとこちらの体に入ってきました。ところでこのシーンの窓の外って実景なんですか? それとも合成?

濱口:実景です。さすがに早朝ではないけれど、夕暮れの、いわゆるマジックアワー。

三宅:ああ、その時間で狙えたんだ。

濱口:午後からリハーサルしてあとは光を待つだけという段取りで。ただ、引きと寄りの両方を撮らないといけなかったから、その時間だけは狙って霧島さん向けを30分程度で撮ったと思います。西島さん側を撮るショットは、陽が落ちてから照明で色を作りました。

三浦:ロケーションはどこになるんでしょう。

濱口:立川です。映画の中では立川、と必ずしも設定しているわけではないですけど、家福の乗ってる自動車が多摩ナンバーだし、一応整合性はあるだろうというところで。

三浦:そうか、多摩ナンバーか。僕も冒頭の窓越しの山並みがすごく心に残っていて。窓の外から直接山並みが見えるのはここだけで、別次元というか、最初にこの映画を観たとき、ここは旅行先だったのだろうか、とわかんなくなっちゃったんです。あの夢見心地の時空間だけが切り離されて記憶に刷り込まれる、そんな効果があるなと。窓の外の風景を撮るのはここだけに限定したんでしょうか。

濱口:自宅は東京都内の設定で、基本的にずっと都市的な風景の中を車が走っていく場面が続くので、この部屋からの山をどう捉えればいいのかについては、この場面を撮りながら考えていましたね。ただ実際都内ではあるし、綺麗だからよいかな、と。やっぱり山とともにこの場面は記憶されるんですね。

三宅:ファーストカットのカメラの高さって、家福の目の高さではないですよね? それよりたぶん30〜50cmぐらい上だと思うんですけど。

濱口:そうです。

三宅:この映画の物語は、家福が妻をちゃんと見ていなかった、妻に向き合えてなかったってことが明らかになる話だとざっくり整理するなら、シルエットになっていて表情がよく見えないというファーストカットを選択された理由はよく納得できるし、そのついでにPOVにしそうなところかな、とも考えてみたんですが、そうはなっていない。その理由が聞きたいです。というのも、『寝ても覚めても』(2018)は冒頭の出会い場面など見る・見られるという関係の内側にカメラを置くことで物語を前に進めていたように思うんですけれど、今回のカメラポジションの選択や編集はまた違う印象だったんです。

濱口:身も蓋もないんですが、これは単純に造形的な選択です。ただ、それに先立つ問題としては、仮にここで家福のPOV位置にカメラを置くと、そこに役者(西島さん)がいられなくなる。最初の場面においてはそれはやりづらさにつながるので、POVは頭になかった。僕は人物を撮るとき、基本的に目高というよりは、だいたい心臓くらいの位置に置くほうが好みで、単純にそこに従ったということです。自分のサイズに対する感覚にある程度依っているというか。撮影監督のシノミー(四宮秀俊)とその辺の相性は良かったような気がしますね。この高さだな、っていうところにつねにカメラを置いてくれる感じはあった。

三宅:カメラを心臓の高さに置くって初めて聞きました。濱口さんの中で、この人は心臓の高さにカメラを置いてるなって映画監督っています?

濱口:ハワード・ホークスはよく人の目の高さにカメラを置くって言われるけど、実は目の高さじゃないと思うんです。たとえば僕は『リオ・ブラボー』(1959)が好きなんですけど、あの映画のジョン・ウェインって、やっぱり背が高いからその高さでは捉えられていない。彼だけじゃなく、特にミドルサイズを撮るときは心臓くらいの高さなんじゃないかと思うんです。それが基本的な自分の感覚。

三宅:へえ、面白い。確かにそうかも!

濱口:一番最初のシーンだし、演技として難しいという理由もあってPOVという発想はなくて。ただ、霧島さんの目は見えないから、想像のなかではそんなふうに思えるし、観客の興味を最大限引きつけるために、あんなふうに顔が見えないように撮っていたのかもしれないですね。

三浦:この場面、野崎歓さんが濱口さんとの対談の中で指摘していたことですが、霧島さんの声と顔が観客には分離して感じられるんですよね。霧島さんが演じる音の声は、彼女が亡くなった後、録音テープを介して、声だけが分離して聞かれるようになりますけれど、後半の構成とつながっていく。

濱口:それはハッとしました。現場ではもちろん分離して聞こえないんですよ。だからこの場面、観客にとっては映像と音が分離していて、音がどこから響いてるかの確信が持てないんだって。

三宅:あ、そうなんだ。狙いに狙ってるんだと思ってた。

濱口:そんなものよ。

三宅:そんなものよっていうのが面白いね。

三浦:僕もすごく味わい深い冒頭だなと思いましたが、音楽もすごくいい。ちょっとオルガン的なかんじのする響きで、やっぱり後半に同じ音響が聞こえてくると、この冒頭の音のシルエットの記憶がちらっとよみがえってくる。過去を召還する響き、みたいな効果があるんだと思いました。石橋英子さんのこの音楽ってどういう段階で決まったんでしょうか。

濱口:率直に話しますと、まず東京編って撮影が一度コロナの影響で中断したんです。その期間に問題があったら発見しておきたいと考えて、東京編だけその時点で編集をすることにしました。完成した映画では40分くらいなんですが、その時点ではまだ50分近くあったのかな。すべての編集が進んで全体が見えてきたときに、東京編ちょっと長い説が出てきまして……おや、そうですか? となった。映画全体も3時間を超える状況だったので、編集の山崎梓さんとも話をして、東京編をタイトにすることになりました。
で、これは石橋さんにも直接お伝えしたことなんですが、基本的に音楽がなくても映画がもつなら無理に音楽をつける必要はないと考えていたんです。でもあの語りの場面は、もともといまより少し長くて、聞くうえでの集中力が保ちづらいという指摘があったので、そこで切り詰めつつ、音楽を使ってはどうかという案が出た。石橋さんからは編集の段階で、シナリオを読んだり撮影素材を一部見てもらって、そこから「こういうイメージを持った」というデモ音源をいくつかもらっていて、それを使って仮編集をしました。そのときに完成形では話の途中で音楽が消えるように(フェードアウト)しようと決めたんです。それまで音楽があった空間から音楽が消えると、急にその空間が生々しく立ち上がる感じがあって、これでいけるんじゃないかとなり、最終的にあのように落ち着いた。

三浦:石橋さんのあの場面の音楽には「集中」を促す力がある。あの場面、語っている音もトランス状態に入っているじゃないですか。記憶の奥底の何かをたぐりよせようと、独特のチューニングをしている。それとあの音響がすごく合う。俳優をサポートして寄り添うようなかんじがありますね。

濱口:最初にお話ししたように、この状況を観客に受け入れてもらうように音楽の力も借りながら構築したっていうことなんだと思います。

三浦:初見時は、いきなりできごとの渦中から始まっちゃっている、という感覚に興奮しつつ、ついていくのに必死でした。この冒頭もそうですが、だいぶ後になってようやく何が起きていたのかがはっきりわかる、という綱渡りがつづきますよね。観客は目の前を通り過ぎようとする映像断片に夢中で追いすがって、同時に、自分の記憶の中でそれらを統合しないといけない。こういう構成は、観客を信頼しないとできないですよね。「ついてこいよ、俺は走るぞ」って言うかんじで、逆に観客は信頼されているとも言える。たとえば侯孝賢の『悲情城市』(1989)って、素晴らしい映画だけど、最初は何もわからないじゃないですか。

濱口:はい。

三浦:「これ何?」「これ誰?」ってなって、1時間後に初めてわかるみたいな。そういう息の長さを受け入れることを観客に期待している。この映画の冒頭も同様に大胆で過激な入り方ですよね。

濱口:ありがとうございます。実際のところ、こういう「わからなさ」を含んだ語りは『悲情城市』や『牯嶺街少年殺人事件』(1991)をイメージしてたりもしたので、ご指摘嬉しいです。ただ、こういう始め方が可能になるのは最後の方の展開との兼ね合いもやっぱりあるんですよ。

三宅:最後とは?

濱口:プロットを書いた時点で、最後の雪山の場面、家福が妻を思っていろいろな言葉が溢れてくるところまで、最後のセリフもプロットにはほとんどそのまま書いてあって、その段階で、喪失から再生へ、という非常にベタというか「王道」の語り方が見えた。観客も最終的には理解でき、もしかしたら共感もできる題材を扱っているんだなと。それがわかっていたからこそ、逆にここで負荷もかけられた。最終的には観客に報いるものにできるから大丈夫だと。だから実際に撮影する段階でも、けっこう語りの無理は効くはずだと思いながら前半は作っていた感じです。

三宅:面白いな。旅にたとえるなら、目的地がけっこう良い場所に決まってるから、その途中でメトロに乗ろうがバスに乗ろうがタクシー乗ろうが裏道入ろうが、最後は絶対に良いところに着くって確信があったってことですよね。

濱口:そうですね。その最後の景色が一番よく見えるように負荷をかけた。頑張ってくれたら良いものが見れますっていう。そういうところはあったと思います。

 

■メイクルーム:日常と仕事が切り替わる場所

©️2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

三宅:家福が出演する最初の「ゴドーを待ちながら」の舞台の場面の直後、楽屋がポンっと映りますが、その鏡のカットにすごい感動したんです。

三浦:なるほど、鏡。どのように感動したのでしょう。

三宅:シンプルにいえば、鏡に映った西島さんの顔に一瞬で惹きつけられちゃった。鏡の中で左右が逆になってるからなのか、いつも見てる西島さんと微妙に違って……なんか可愛いじゃない? 髭とかついちゃってるしさ。舞台の高揚の余韻と疲れが入り混じっていて、セクシーだった。

三浦:すごい疲れてるよね、あのとき。

三宅:そうそう。後から考えると、役者の人生には、ひとつにお芝居や上演中の時間があって、もうひとつに家だのなんだのの生活の時間があるわけですが、楽屋はその中間の着替えの場所かなと。その変身の過程にカメラが向けられているから、なにかが露出したのかもしれない。なにかっていうのは、「この人、こういう時間をもう何度も繰り返してきたんだろうな」って、登場人物と西島さんの人生とが重ねて透けてみえたような感じ。楽屋で岡田将生さん演じる高槻という人物と出会うわけですが、なんで楽屋に設定されたんでしょう?

濱口:基本的に構造としてあそこしかないって考えていたんです。なぜかといえば、高槻と家福(悠介)の接点は家福の妻である音にしかないから。ああいう形で家福の仕事場に音が連れてくるっていう状況でしか基本的には会いようがないと考えていまして。とは言いつつ、基本的には楽屋というかメイクルームというのかな、たぶんそこが好きなんです。舞台を取り扱った映画は多々あって、名シーンというほどのものはパッとはあまり思いつかないけど……。

三浦:『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』(1976)とかね。

濱口:そうですね、『オープニング・ナイト』(1977)もそうだし、鏡見て付け髭をつけてるような奴らというのを、我々はいろんな映画で何度も見たような気がするじゃないですか。そんな空間が撮りたくてこの題材を選んでいるところもあるし、こういう空間がないと俳優には仕事もプライベートもないだろうと思うんですよね。あの空間で着替えたりメイクをしたり落としたりしないと、プライベートに戻れない。俳優の仕事はわかりやすくそうですけど、単純に仕事ってそうじゃないですか。ある種の準備段階や儀式がないと向かえない。単純にそういうものを撮りたかったんだと思う。後半でも同じような空間は撮りたかったけど、一番最後にちょろっと出てくるぐらい。鏡がある空間だということも含めて、メイクルームは演劇を扱っているこの映画と密接に結びついている場所なんじゃないかと考えていました。

三浦:二人の応答で気づかされたんだけど、後半で高槻が警察に捕まるときに「着替えていいですか」って言うじゃないですか。それもこことつながってますよね。自分の存在が演技によって支えられているっていう映画全体の姿勢が、あの楽屋の場面で最初に示されてるんだなって。
西島さんはもう50歳ですけども、あの目尻の垂れがセクシーでやっぱり見ちゃうんですよ。楽屋の鏡に映る顔を見て改めて気づいたのは、誰しもそうだけど、西島さんも微妙な顔の左右非対称性があるということ。にこり、と西島さんが笑うときに、片方の目だけが醒めているように見えるときもあって、どきっとしたりもします。鏡の場面では、そういう部分もふっと余計に浮かび上がるのかもしれないですね。

濱口:この数年の作品で見てきた西島さんってやはりああいう表情だと思うんですけど、10年ぐらい前の西島さんの画像をパッと見ると、すごく鋭くてびっくりするんですよ。いわゆる肉体改造的な影響もあるのかもしれないですけど、かつて我々が東京の様々な映画館で観客としての西島さんを見かけていた頃って細面で、どこか危うさもあったじゃないですか。

三宅:懐かしい。あ今日もいる、ってあくまで遠くからお見かけしてた。

濱口:ナイフのような鋭さというか。その頃もちょっとだけお話したことがあるんですが、ものすごく笑顔なんだけど触れたら本当に切られそうな感じはあって。この10年で西島さんのイメージはニコニコとした笑顔が基調になったと思うんですけど、でもやっぱり根本にはそういう鋭さが相変わらずあるんだって、今回一緒に仕事しながら思いました。『ドライブ・マイ・カー』には、これまで西島さんの生きてきた時間が如実に顔に表れてる気はしますね。すごくセクシーな包容力のある顔なんだけど、その奥にはやっぱりある種の「触らば切る」ような狂気的な何かがまだ隠れている気がしましたね。

 

■鏡の中の顔を撮ること/正面から顔を撮ること
三浦:鏡といえば、その直後にある音の浮気の場面も鏡越しに撮られていました。

濱口:そうなんですよ。浮気の場面に関しては、ロケーションを見に行ったときに、どうやってこの現場を目撃するんだっていう問題があったんですが、あの家に実際に住んでいる方がまさにあの位置に鏡を立てていて、なるほど、これなら見えると思い、そのまま採用したんです。

三宅:浮気の場面、最初ってトラックインしてます?

濱口:してます。

三宅:浮気現場がちょっとずつ見えてきて、相手の男の顔はギリギリ見えないけど、二人がセックスしてることはわかる。そのカットの次は、それを見ていた西島さんの顔の正面カットじゃなくて、鏡の中の西島さんだっけ?

濱口:トラックインして、そこで一度レコードのヨリに行って、そこから抱き合う二人越しの鏡の中の西島さんの姿、そして表情のヨリがあって、もう一度西島さんの肩越しにまた鏡を撮って、そこから西島さんがフレームアウトするっていう流れ。

三宅:そうか、間にレコードカットが入るのか。

濱口:そうそう。で、ここは途中にレコードのカットを入れないとなんかね……入れなくてもいいはずなんですが、ああいう場面っていまだにどう撮ったら良いかわかんないんですよ、レコードのカットがないと居心地が悪かった。

三宅:それわかる感覚かもしれない。こういう場面ってシナリオ上はとてもわかりやすい出来事にも思えるから、簡単に撮れそうな気もするんだけど……なんて言えばいいんでしょうね。盛り上げようと思えば盛り上げられるし、そっけなくもできるんだけど、何が面白いのか、こういう場面をどこから見ればいいのか、どう段取りを組めばいいのか、映画そのものをゼロから毎回考えさせられちゃう。

濱口:セックスをしている二人は西島さんを見てないから、じゃあカメラはどこにあればいいのかと考えた結果、あのレコードのある位置がカメラの位置に近いんではないかと。この選択は本当に自分の居心地にしか理由がないんですけど。

三宅:考えに考えて、最後は自分の居心地や生理を根拠にするってことが、正しいというか、それでしかないのかもですね。最初のトラックインの直後にすぐ西島さんの顔カットにつながないのはなぜか、言葉にしてもらえますか?

濱口:それは直接性が強過ぎるってことなのかな、悪い意味でベタっていう。「妻の浮気を発見して驚いてる男」への寄りからの、妻と男の切り返しがやっぱりちょっと耐え難いというか、ワンクッション欲しくなった。

三宅:その感覚はよくわかります。それから、発見の瞬間の演技も難しいと僕は思うし、だからそれにOKをだすのもなんだか難しくて、僕はつい、発見後の行動だけを捉える方向にいくんだけれど、でも発見の瞬間が必要な場面かもなあ。悩む。

濱口:まさにそれを見てしまうっていう瞬間は、結局撮り得ないっていうことなんじゃないですかね。

三浦:西島さんへの指示はこのときどういう感じだったんですか?

濱口:ここは引きを先に撮ってるんです。東京編はロケーションの中で順撮り的に撮っているんですが、この場面もリハーサルをして妻との関係性もある程度わかってる状況で、西島さんが見ているところをまず引きで撮る。でも西島さんの寄りを撮るとき、霧島さんは目線の先にいない。基本的に役者さんがお芝居をするとき、相手にもフレームの外でも演技してもらうようにするんですが、これはさすがにそうしなかった。なので「これはさっきの記憶を使ってやってください、自分が出ていきたいと思ったタイミングで出て行ってください」ってことだけ伝えました。

三宅:よくここで正面の顔のカットを撮りましたね。

濱口:でも、編集で使わない可能性も当然あるわけですよ。ある種のベタさはやっぱりあるので。ただ、西島さんが非常に曖昧な表情をしてくれた気がしたので、これだったらいいんじゃないかと。

 

■サブテキストの使い方

©️2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

三浦:この映画の霧島さんのあの柔らかい存在感がすごく好きなんです。原作では音って誰もが崇拝するカリスマ的な人物ですよね。霧島さんが演じた音は、西島さんとの夫婦ぶりもすごくこなれているし、高槻が好きになるところもまったく違和感がない。いかにもインテリという雰囲気ではなくて、インテリぶる必要がまったくないほど聡明な自然体、という感じです。セリフも冗談好きなところがいいですよね。たとえば「ウラジオストク名物食べた?」って知らないのに聞くところ。マイペースで自分の機知を言葉で試して喜んでるような人。テレビドラマの脚本家という設定をさりげなく肉付けしているようにも思える。家福音のキャラクターは人間関係の要だからこの映画にとってすごく大事ですよね。彼女の描写でこけたら映画の骨格が揺らぐじゃないですか。おそらく細心の注意を払われたと思うんですが、キャストが決まってから当て書き的にどれくらい調整したんでしょうか。

濱口:ええ、細心の注意を払いました。当て書きというか、キャスティングが決まってから変えた部分はそんなに多くないんです。本読みをした結果で語尾とかは変えたりしますけど、内容に関してはほとんどそのまま。リハーサルには本読みに慣れてもらうっていう目的もあるし、家福と音の関係性を二人に理解してもらう目的もあるので、西島さんと一緒に自分たちの過去についてのテキストっていうのを作ってもらったりしました。たとえば娘が死んだあとの場面だとか、大学時代で二人が演劇サークルで出会った場面だとか、そんなにドラマティックなものではなく、ごく普通の会話を本読みして演技するっていう練習も兼ねてやってもらったんです。そうすれば二人の間で共有されるいろいろな記憶ができるんじゃないかと。
もうひとつは『ハッピーアワー』のときに開発した「17の質問」〔映画におけるキャラクターの来歴、心情、関係性について記された脚本以外のテキストを濱口竜介監督は総称して「サブテキスト」と呼び、「17の質問」はその一つとして『ハッピーアワー』制作につながる「即興演技ワークショップ」内で発明されたもの。キャラクターに対し「幸せですか/それはなぜですか/何が大切ですか……」といった17の質問を与え、それに対しキャラクターの立場に立って答えを用意することで、その造形に深みをもたらすことを狙った手法。詳細は『カメラの前で演じること』(左右社)17-18頁を参照〕ですね。これは自分自身がシナリオを書く上でも多少助けになるんで、自分がどういうキャラクターを想定しているのかを理解するために、まず自分で書いてみる。ちゃんと見せられるものに整えてから、これを役者さんに渡して、「これは僕の考えたことなんでぜんぜん違うと思うんですけど」と伝えつつ、「ちょっとこれを自分でも考えてください」とメインキャラクターのキャストには全員やってもらってます。
で、考えてもらうモチベーションとしてもアウトプットの場が必要で、確か霧島さんと岡田くんにはちょっとだけ互いにインタビューし合う〔役者同士が自身の配役を演じながらお互いにインタビューを行うことで配役への理解を深める、という方法も先述した「即興演技ワークショップ」内で発明されたものとのこと。その試みの厚みを高めるために、先に記したいくつかの「サブテキスト」が大きな力となったという。『カメラの前で演じること』16-17頁などを参照〕ってこともしてもらいました。ただ、それでもやっぱりこの音という女性を演じる上では難しいところは残るので、霧島さんは岡田さんとも楽屋で出会って会話をするといった場面の本読みとリハーサルをしてもらったり、そこにプラスして「たとえば二人の間にはこういうことがあったんじゃないか」という内容の書かれたサブテキストを渡してます。そういうのが演技の基盤にならないかな、と。

三浦:なるほど。音役にはカリスマ的な人物をあてたい、というのが普通の発想だと思うんですよ。理想を言えばケイト・ブランシェットのような女性がいて、みんながその人を崇拝するという感じであればわかりやすい。でもこの映画の音という人物像は、あくまで関係性で成立してるのが本当に素晴らしい。そこで伺いたいのは、岡田さんが演じる高槻との関係は、サブプロットを作る段階でどれぐらい踏み込んだのかなんです。二人が肉体関係を持っていたのかどうかが中盤の、家福と高槻の会話劇の焦点になるわけじゃないですか。これは演出の水準ではどうしていたのかなと。

濱口:岡田さんへの演出としては「高槻が音と関係を持ったかどうかはわかりません」と伝えてます。実際、家福が浮気現場を発見するシーンで、霧島さんは(岡田さん以外に)別の男性キャストとも浮気現場の場面を演じてます。「編集上どっちを使うかわかりません」と岡田さんにも伝えていまして、「関係があったかもしれないしなかったかもしれない」ということを前提にいました。先ほどお話ししたように、リハーサル段階では高槻と音は会話程度の関係性しか作っていなくて、高槻が音を素敵だなって思うぐらいのステージに留めていました。とは言ってもこういう話の展開だとやっぱり関係があったんじゃないかと岡田さんは認識してしまうと思うので、「セックスではないけれどこういうシチュエーションで音の話を聞くはあった」という内容のサブテキストを渡して、それも合理的に起こりうると伝えています。後々の話になりますけど、高槻の演技についてはテイクごとに「いまのはちょっと関係があったっぽく見える」とか「ちょっといまのはイノセント過ぎる」みたいなことを話し合っていて、最終的にはそれを編集も含めて調整しているんです。岡田くんにとっては正解がなさすぎて申し訳なかったですが、結果的に曖昧さを保ったまま、とても素晴らしく演じてくれたと思います。1度観た人の解釈の多くは高槻と音は関係があったという意見に落ち着きがちですけど、いやいや、はたしてそうでしょうか……というのは言っておきたいところです。

©️2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会