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2023.07.04

第8回:プロキシたちのサイファー
──時間差の鏡像、物質的自存性

踊るのは新しい体 / 太田充胤

3DCG、VTuber、アバター、ゴーレム、人形、ロボット、生命をもたないモノたちの身体運用は人類に何を問うか? 元ダンサーで医師でもある若き批評家・太田充胤の「モノたちと共に考える新しい身体論」、待望の連載更新です! 第8回は「身代わり(プロキシ)」の技術と身体運用から、ダンスと振付に関わる根源的な問いに立ち返ります。

 

肉体の歴史に連綿と現れる人工補綴(prothèse)のなかでも、分身(double)こそ間違いなく最も古いものだ。だが分身は人工補綴ではない。それはひとつの架空の外形であり、あの魂、あの影といった鏡に映る像がまるで別の自分のように主体につきまとい、その結果分身は同時に、自分自身であり、自分とは似ても似つかぬものだ。そして、その分身には、巧妙でつねに払いのけるべきものとしての死がまとわりついている。だが、いつでもそうだというわけではなく、分身が物質化し、眼に見えるものとなる時、分身は間近に迫った死を意味する。

──ジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』[1]

 

ループモーションのクラブ

 ヘッドマウントディスプレイの中で画面がほんの一瞬暗転したのち、私はCGの体でクラブ風のフロアに立っている。
 大小さまざまのアバターで賑わうフロアは、すでにBPM90くらいのオールドスクールヒップホップに包まれて揺れている。皮膚ではなく耳だけで感じる音楽に、私の体はすぐには反応しない。目元の物理ボタンで音量を上げて、胸のあたりで意識的にリズムをつくりながら、フロアに散らばったユーザーを眺める。壇上のDJの周りに群がる者。複数人で向かい合って踊っている者。踊らずに談笑している者。一人で揺れている者。
 なんとなく、壁際の一人に目がいく。よくあるアニメ調のヒト女性型アバター。表示されたアカウント名に見覚えがある。どこかで喋ったことがあるような気がする。今は誰かと行動を共にしている様子はない。ただ小さく頭を振り、時々ステップを踏み、肩と腕をゆらゆらと動かし、つまりは何気なく音楽に乗っている。
 しばらく見ているうちに、彼女が時折、首をコキッと鳴らすように勢いよく頭を右へ傾けることに気がついた。音楽に対して当たりさわりのない運動のなかで、その動作だけがささくれのように目立っている。単なる癖のようなものだろうか、しかしなにか違和感がある。しばらく彼女を注視して、その時を待ち構えてみる。コキッ。来た。彼女の首は先程とまったく同じ角度で、同じ速さで、同じ方向へ曲がったような気がする。さらにその3分後、まったく同じ動きをもう一度視認したことで確信する。間違いない。彼女は・・・ループ・・・している・・・・
 ひとたびそのように気がついてしまうと、その前後の動き、何気ないステップとノリが、一連の振付、ルーティーンとして浮かび上がる。右、左、右、左と頭を揺らしながら、重心のブレにあわせて足の位置を踏みなおすかのような無作為のステップ。右足を右前に踏んで、さらに後ろへ踏みなおし、右足に体重を乗せて浮いた左足を左前にトンとついて、コキッ。その後緩やかに左足に体重を移しながら、重心をセンターに戻して自然な揺れに戻る。この一連の運動が、3分周期できっかり同じように繰り返される。一見人間らしいノイズとランダム性だけで構成されたような動きだが、実は3分間のモーションデータだったわけだ。
 ふと、視界の端に見なれた動きをとらえた気がしてはっと振り返る。彼女とは反対側の隅で、青い頭の男性型のアバターが踊っている。そう、きっとあの男だ。一見何気なく乗っているだけのようだが、あの揺れ方にはたしかに見覚えがある。もしやと思い注視していると、はたして3分後、彼は彼女とまったく同じやりかたでコキッと頭を振った──。

 こんな事例が本当にあるかどうか知らないが、十分にありうべきことだと思われる。
 生身のダンサーにおいて、目の前のダンスが即興なのか振付なのかを識別するのは容易ではない。それが確定するのは、同じ振付を繰り返し鑑賞したときか、ユニゾンで二人以上のダンサーが同じ振付を踊っているのを確認したときに限られる。
 事情は3DCGモデルでも同じだろう。すでに見てきたように、人形に吹き込まれたテンポラリーな魂は、魂が減衰するか、希釈されるまで機能する。モーションデータの流し込みであることが確定するのは、同一アバターにおいてループモーションの周回を確認したとき、あるいは別のアバターが同じモーションを使用しているのを確認したときに限られる。モーションデータが長くなればなるほど、またデータを使いまわすアバターが少なければ少ないほど、彼/彼女が人間として踊れる時間は長くなる。

 もっとも、より重要なのは環境が変わらないことのほうかもしれない。もしDJが急にBPMを変えれば、流し込まれたモーションと新しい環境とのあいだには齟齬が生じる。BPM120まで加速したフロアで依然としてBPM90のまま揺れている者など、どこからみたって人間には見えないに違いない。

 

「居ること」を複製する

 映像作家にして批評家のヒト・シュタイエルは、現代人が駆使する身代わりの技術を「プロキシ」と呼んだ。

「居ること」の経済性と折り合いをつけて現実的な存在形式を選びとる、そのための洗練された定番ともいえるやり方があって、それはこちらの話を聞くふりをしつつ、メールやツイッターをチェックするというものだ。このとき人はジャンクタイムの課題に当たりながら、自らを──つまりは自らの身体を代役=スタンド・イン[スクリーンには映らない代替的演者のこと]や代理、代理枠という形で管理している。そしてこれは、不在の管理術として全く正当なものだ。〔…〕
存在が引く手あまたでも、場所や立場を違えるその要求の数々を同時にこなすことはできない。ここで語ったささやかな例は、そうした状況でいかに代理や代役が機能するかを示している。それらは代理=プロキシの政治、スタンド・インと囮の政治を繰り広げる。[2]

 「居ること」は、複製不可能であるがゆえに高い価値を持つ。シュタイエルによれば、その典型的な例は「美術作家の在廊」であるという。
 芸術作品が複製されて遍在する可能性に開かれているのとは対照的に、作家が「居る」という価値は基本的に複製できない。それゆえ作家は常に「居ること」──つまり、在廊したり、パフォーマンスをしたり、何らかのイベントを生起したりすること──を求められる。とはいえ、「居ること」が要求するコストは決して小さくない。このコストを低減しつつ「居ること」を実現するために、人はさまざまなかたちで「プロキシ」を利用する。
 シュタイエル自身がウィキペディアから引用した説明によれば、プロキシとは「他者代行の権限を与えられた仲介、もしくは代替。または、そうした仲介に代行権利を与えるドキュメント」のことだという。挙げられている例は上記のような生身の体から、デジタルデータまで幅広い。「ボディ・ダブル、スタント・ダブル、スキャンやスキャム、ネットワーク中継、ボットや囮、陽動作戦の偽戦車、ダミーテキスト、代理戦争の民兵、テンプレート、レディメイド、さらにはベクタ形式の細々としたストックフォト」[3]。つまりプロキシとは、時に実在する者・モノの代理であり、時に実在さえしない者・モノの代理である。
 なにかが「居ること」を要求されているとき、必要なのはそのなにかがそこに100%の濃度で存在することではない。案山子は決して鳥を攻撃しないが、鳥たちが人間と見紛う程度に人間であれば鳥避けとして十分に用をなす。まだ完成していない原稿の代わりに、同程度の長さのダミーテキストとストックフォトを提出しておけば、デザイナーはひとまず作業にとりかかれるかもしれない。これらと同様に、あなたが「心ここにあらず」でメールを処理していても、目の前の相手の話にうまく相槌を打つことさえできれば、あなたは必要十分の濃度でそこに「居る」ことになる。
 実在する生身の人間たる我々にとっては、プロキシとは居る場所に居ないための技術であり、居ない場所に居るための技術である。それは身体制御とはまた別の次元にある身体の運用である。そしてシュタイエルも指摘する通り、こうしたプロキシ的な身体運用は決して未来的なものではなく、我々にとってはかなり前から身近なものとなっている。

 プロキシの概念は、我々の身体論にとっても示唆に富んでいる。そのうえで、冒頭で示した仮想クラブのループモーションのような状況を想像するに、シュタイエルの議論に付けくわえるべきことは二つほどある。ひとつ、作家が「居ること」は複製できないというシュタイエルの前提は、部分的には成り立たなくなっている。ふたつ、プロキシが肩代わりするのはシュタイエルの指摘するような時間的・物理的なコストだけではない。別の言い方で言えば、前者は「居ること」をプロキシが完全に代替する瞬間は確実にあるということであり、後者はプロキシがあなたにはできないことさえやってのけるということだ。
 この連載の趣旨に即して、もうすこし平たく言い換えてみよう。我々はもう、持って生まれた自分の身体で踊らなくとも構わないのかもしれない──この連載は、私が初めてMMDに触れたときに抱いたそんな感情を懐かしく振り返ることから始まった。しかし、なんということだろう、本当に驚くべきことは、人形がひとりでに踊ることでも、あなたが新しい体を得て踊ることでもなく、新しい体があなたの代わりに踊ってくれることなのだ。
(→〈2〉へ)