2024年2月9日より公開中の三宅唱監督最新作『夜明けのすべて』。瀬尾まいこ氏の原作を出発点に、その中心に上白石萌音と松村北斗というふたりのキャストを置き、さらには光石研をはじめとする数多くのキャストによって形を成した本作は、日常の小さな出来事に無限の宇宙を見出すような佇まいで多くの観客を迎え入れている。はたしてこの映画の作法はどのように見出されたのか。『ドライブ・マイ・カー』、『ケイコ 目を澄ませて』をめぐる鼎談に引き続き、映画研究者の三浦哲哉氏と映画監督の濱口竜介監督、そして三宅唱監督による本作をめぐる最新鼎談をお送りする。『夜明けのすべて』のもたらす大いなる喜びや希望に導かれるように、一本の映画作品をめぐる3人の言葉はおおらかに紡がれた。
(本記事は全編にわたって映画の内容に触れています。ご鑑賞後に記事をお読みいただくことをお勧めいたします)
■映画をどこから始めるか
濱口竜介:試写で拝見して、静かな、でも深い衝撃を受けました。それが今もずっと続いているような気がします。繊細な演出の数々にまず驚いたのですが、一方で誰にでも勧められるし、観客が100万人入っても驚かないような風格がある。今日は、いったいどうやったらこれほどの映画が生まれるのか伺える機会ということで、『夜明けのすべて』を更に見直してきました。映画内では2024年の、まさに今のカレンダーが示されていますけど、撮影自体はいつだったんですか?
三宅唱:まずは、今回もこうしておふたりと話せることを嬉しく思います。実は、今回の『夜明けのすべて』についてはインタビューなどで自分が話し過ぎると鑑賞の邪魔になるのではないかと思っていた時期もあるんですが、やっぱり話すのは楽しいし、せっかくなので、これを読まれる方々の誰か一人でも、この映画というより映画そのものに強い興味をもってくれたり、映画づくりのプロセスについての誤解や思い込みが解けたり、あるいは新たな発見をしてもらえたらいいなと願っています。撮影は、2022年11月中旬から12月末にかけての6週間ですね。撮休を除けば32日。撮影期間中の12/16に『ケイコ 目を澄ませて』(2022)の公開が始まったので、宣伝取材など流石に慌ただしかったです。
三浦哲哉:僕もこの映画にものすごく驚かされたし、深く感動しました。まず大きな脚本上の構成について聞いてもいいですか。後半からプラネタリウムの話が導入されますよね。これは原作にはないから、三宅さんのアイデアだと思うんですけれど、これがとにかくすごいし、決定的だと思いました。プラネタリウム、要するに回転するもの、サイクルだよね。すでにたくさんの読者を得ている素晴らしい原作に、この主題を盛り込んで、映画のかたちを見事に構成している。ちょっと冒頭から回想すると、ロータリーにバスがゆっくり入ってくるんだけど、藤沢美沙という女性を演じる上白石萌音さんは横たわってしまっていてそれに乗れない。バスは周期的に動くものですけれど、同様に、社会の運行やサイクルが随所で視覚化されて、リズムを刻んでいる。で、ふたりの主人公はそこに乗れず、こぼれ落ちてしまう。具体的だし、見ているこちらの体に響くんですよね。山添孝俊というもう一人の主人公を演じる松村北斗さんも、電車に乗ろうとしてやはり乗れない。家では、進まないフィットネスバイクのぺダルを虚しく漕ぐ。PMS(月経前症候群)も、メンタルや観念の話だけではなく、月のサイクルとつながってリズムを刻んでいる。スクリーンの中でかたちや運動をなすいろいろなサイクルのひとつでもある。速かったり遅かったり、いろいろなリズムで生きる人々の時間が織り合わされて、ぶ厚い暮らしの場の雰囲気が立ち上がる。最終的にはプラネタリウムの場面に至り、昼と夜をめぐる地球の自転にまで視野が届く。ささやかな日常を描きつつ、映画的な光と闇のドラマとして、ものすごく普遍的かつ壮大なスケールにまで到達しますよね。その結果、僕らが生きて、そして死んでいく、複雑で神秘的な時間の感触が迫ってくる気がしました。こういう大きなシナリオの構成はどういうふうに降りてきたんですか?
三宅:小説を読んで直感的にすぐに引き受けることにしたんですけど、いざ脚本作業を始めると、これは真剣にやらないとダメなものになるというか、真剣になればなるほどハードルが高くなるチャレンジになりそうだなと感じました。まず大きいのは、小説だと一人称視点のそれぞれの語りが交互になっている構成で、それを映画の視点や時間で読み直していくわけですけど、当然そんなにスムーズにいかない。それで、まずはPMSとパニック障害の勉強をしたり瀬尾(まいこ)さんの他の小説を読んだりしながら、大きなテーマの発見ややるべきことややっちゃいけないことなどを探っていく期間が数ヶ月ありました。初めに手を動かしたのは、まずはふたりが生きている社会をつかまえる必要があると考えて、役の重要度関係なく出てくる人間全員を等しく地図みたいに書いていくことでした。小説には出てこないけど、いるだろうなという人物まで書いたりして、そうすると群像劇みたいな世界が広がって、その中でも栗田社長と弟の存在が浮かび上がってきたり。
濱口:それは脚本の和田清人さんと一緒に?
三宅:それは一人の時だったかも。和田さんには途中でお声がけして、2022年の年明けに合流してもらいました。それ以前に半年ほど一人でやっていて、「これこれの問いは見つけたんですが、一緒に考えてください!」と。たとえば、構成で難しいなと思ったのは、起承転結や序破急、あるいは「主人公は成長するものだ」という考えに基づいた直線的な物語構成がありますが、それに対して、今まさに三浦さんがおっしゃった身体に流れる生理のサイクルがぶつかってしまうというのが悩みどころでした。PMSを作劇に都合よく利用しちゃうと、肝心の周期性がこぼれ落ちるし、そういうことは避けたい。でもどうすれば新しい劇になるかは一人では全然わからず。今思い出したんですが、和田さんとはまずカレンダーを作ったりもしましたね。劇中の半年間の月経周期と、それとは無関係の正月休みや帰省だとか、物語上必要なポイントを書いて。それから、これが恋愛ものならその手の劇の構成を使えるんだけど、この映画は恋愛でもないし、物語の終わりにPMSやパニック障害が寛解するわけでもない。「何も起きないように」と願う人たちの話で、トラブルやドラマがなるべく大きくならないようにメンテナンスし続けるアクションは数あれど、いわゆる「何か起きてほしい」という観客の欲望をどう扱うか。そういうことも含めた先入観や思い込みのようなものが映画体験を通して変化していくような映画にしたいけど、どうやればいいんだろうとか。だからこそ、キャラクターが滅法面白いということこそ、シンプルにこの物語のやりがいでもあって。そういう問いを一緒にひとつずつ立てては、悩みながらまとめていったという感じです。プラネタリウムは、他にも「何かを修理してリサイクルする」とかのアイデアがあったなかで直感的に「全部がハマるかもしれない」と思いついて、本当にハマるかどうか検証をしていった、という感じです。
濱口:原作では栗田科学ではなく栗田金属という社名でしたよね。
三宅:はい。働くことについての物語であるとも捉えていたので、会社の場面のディテールをどうしようかと考えていました。小説では文字にならない背景だとしても、映画だとどうしても具体として常にはっきり映っちゃうから、描写からもう少し膨らませて想像しておく必要があって。それで、商材のアイディアのひとつに教育玩具というのが浮かんで、その流れでプラネタリウムを思いついたのかな。その後、実際にプラネタリウムに足を運んでみたら、「あ、これだ」と。天文の勉強も追加されるのはヤバいな、間に合うかなと思いつつも、そのあと各部の技師らにも声をかけて、みんなで渋谷のプラネタリウムにみにいったりした。
三浦:科学って三宅さんのフィールドだという感じがあるよね。『ワイルドツアー』(2019)も公共施設で自然観察をする少年少女たちの映画だったし。人の営みを描くとき、かたわらに必ず自然誌的な視点がある。
濱口:この映画ですごいのは時間の流れというか、その見せ方だと思うんです。一般的に言って、時間って放っておくとものごとを悪い方向に進める傾向がありますよね。たとえばものは腐食する。時間が経つと、エントロピーが増大していって、どんどん物事が乱雑に、より悪くなっていく。そういう側面がある。でもこの映画は時間のもうひとつの側面、時間の中に潜んでいる「回復能力」みたいなものをあぶり出していると感じます。それが物語として表現されている、ということはもちろんだけど、その時間の一つひとつが具体として観客に提示されている。物事がより望ましく変わっていく時間のその側面は適当にカメラを被写体に向けて撮るだけでは絶対に定着しない。現実そのままの時間ではなく、フィクションとして再構築された時間がここにはある。その再構築の作業の基盤になっているのが、先ほどお話にあったような、周期的な時間についての思考や、物語の周縁部に至るまで群像劇的に、一旦社会へと広げてシナリオを考えたことなのだ、と納得しました。でも、シナリオの話を聞いて個人的にちょっと安心したのは、一気呵成にこれを書いたのではないってことです。こうすればいけると最初から見抜いていたんじゃなく、本当にちょっとずつやっていったと。
三宅:そうです。プロデューサーたちとも何度も打ち合わせしましたし、二転三転もしましたが、僕含めて男性3人女性3人で世代も幅がある会議だったのでそれはよかったですね。一度は群像劇バージョンというか、栗田社長もより前面に出てくるような長尺のプロットも作りましたが、それだと2時間では絶対に収まらないと判断して、次第にまたふたりの物語に戻っていくという過程で。結構ギリギリまで改稿していたので、正直なところ「やべえ、(完成形が)見えねえ……」と思いながら現場入りしたんです。
濱口:なんと。できたものからすると信じられないですね。
三宅:クランクイン直前まで、撮影の月永雄太さんに「今回ちょこちょこ手持ちもあるかもしれない」と伝えちゃうくらい見えてなくて、あの時月永さんがどう思ってたのかは恥ずかしくてまだ聞けてない(笑)。それで、初日はいつも以上に時間をかけて段取りをすることにしたら、なんとなく見えてくるもんだなというか、月永さんの力量と落ち着きで自分も安心してきましたね。最初の数日は手持ちの用意してましたけど、結局出番はナシ。
三浦:時間の流れについてだけど、随所で感じたのは、説明うんぬんを気持ちよく飛ばして、すでに事態が始まってしまっている、その渦中に観客がぽんと置かれてしまうという印象ですね。映画の中盤に、藤沢さんのお母さん(りょう)がリハビリをしている場面がありますよね。普通のストーリーテリングなら、大なり小なりお母さんが怪我をしたことが語られると思うんです。お母さんが怪我をした、一人では暮らせなくなった、だから主人公はどうするのか、というような。この映画ではそれがまったくなく、いつのまにかごく自然にリハビリの場面になっている。ここの空間がまたすごく厚みがあるんです。群像劇として登場人物ひとりひとりのバックグラウンドを綿密に作り込んで演者のみなさんと共有されたとのことですが、きっとそのことともつながっているのかな、といま話を聞いていて気付かされました。たとえば三宅映画の常連俳優の柴田貴哉さんがいて、藤沢さんのお母さんと軽口を叩くような関係にすでになっている。「手の大きさ見せて」「いや僕はいいっす」などと屈託なく言い合っている。こういう些細なやりとりは、藤沢さんのお母さんがすでにかなり長い時間をここで過ごした証しにほかならないから、この女性がもう取り返しのつかない状態になってしまったことを、すっと受け入れてしまう。柴田貴哉さんだけではなくて、実際にリハビリをされている患者さんのたたずまいにもまったく違和感がないし、あの空間がまるごと客観的に成立しているからだと思うんです。そんな場面が要所要所にあって、それがこの映画の時間構成のひとつの秘訣になっていると思った。冒頭で、上白石さんが雨の中で寝ていることもまったく説明的ではないじゃない。そういう体の持ち主がそこにいることがただ提示されて、それを受け入れられる。
三宅:『ドライブ・マイ・カー』(2021)についての座談会のときに学んだことが大きくて、「映画をどこから始めるか」という話をしましたよね。あの話の要点とは少しズレますけど、この映画は、前兆や発作の瞬間をみるものではなくて、発作の後こそが重要な物語だと考えた。そこからどう立て直していくのかという。そこで最初に藤沢さんのどの状態から始めるのがいいかを考えたときに、あの彼女の姿を、ど頭で見てもらおうと。相当なことがなければ、あんな雨に打たれて倒れたりなんかしないだろうと考えて。もう雨が降り始めていて、もう鞄も投げた後である、そういう状況や環境の用意をしたら、あとは上白石さんが、もうそれしかないと言う形でゆっくりとベンチに倒れていって、あの崩れかたが決定的だったなと思います。
病院場面については、シーン全体の雰囲気について演出部と「どういう場所だと思う?」「やっぱり辛い場所ですかね」「いや、リハビリルームこそ明るくて賑やかな場所なんじゃないかな」と方向性を探って、それを取材で裏打ちしていってもらったんですが、そういう話しあいや準備もこのシーンの下地になっているかなと思います。参加してくださった、普段から車椅子で生活されているエキストラの方にも当日アイデアをもらって。ちなみに柴田くんは、1ヶ月ほどリハビリ施設のようなところで修行をさせてもらってから現場にきました。彼の希望で。
三浦:なんと! そこまでされる演者がいたからこそあの空間があの空間として成立してるんですね。びっくりしました。
■ロケーション──栗田科学・坂・歩道橋
濱口:今回も『ケイコ』と同じように、事前に見つけたロケーションをシナリオに反映させたんですか。それとも全部シナリオができてから見つけたんでしょうか?
三宅:今回は一人で散歩する時間が事前にとれず、具体的に地域も見えてなかったので、制作部が「シナリオに書いたこれを見つけて欲しいです」というリクエストに見事に応えてくれた、という感じでした。山添くん(松村北斗)が自転車で走っているシークエンスの道などいくつかは、別物件のロケハン中に近所をみんなで歩いて発見した場所もあります。あとは、トンネルは書いてなかったんですが、これも制作部から「ちょっといいのあったので一度見に行きません?」と連れて行ってくれて。
濱口:山添くんが「五反田行き」の電車に乗ろうとしている場面があって、かつ山添くんは基本的に電車に乗れないはずなので、東急池上線の辺りなのかなと思ったんですが、調べたら劇中の駅名は存在しなかった(笑)。実際のロケ地はどのあたりだったんですか。富士山が見えたりもしてますね。
三宅:会社は大田区の馬込のあたりという想定で、道周りは実際にそのあたりで撮りました。富士山が見えるのも東海道線沿いの道です。ふたりのアパートや喫茶店、レストラン、公園だとかもそれぞれ大田区内ですね。ただ、会社や体育館や駅などは区内では条件的に厳しかったようで、関東近郊に広げています。
濱口:栗田科学のロケーションがやっぱり気になるんですけど、あの建物はどこで見つけたもの?
三宅:埼玉県の東松山市でした。大田区内だと、あの大きさで空いていて予算にもはまるテナントはないと思いますね。
三浦:もともと何に使われていた場所なんですか?ちょっと不思議な間取りだよね。
三宅:そういえば聞いてない。もう完全にがらんどうの空き物件でした。
濱口:あそこは見つけてからもう即決だった?
三宅:そうですね。他もいくつか見て、あそこが最後に見た場所で、「ああ、ここだわ」と。他の物件より都内から30分くらい遠かったので、移動で往復1時間削られてしまうなと一瞬躊躇したけど、いや、ここがベストだね、と。
濱口:あのロケーションを見つけてから、具体的に反映するかたちでシナリオを書き換えたりはした?
三宅:ほとんどなかったんじゃないかな。当初から、オフィス、作業場、給湯室、倉庫という柱は立てていました。ただ、あの真ん中の部屋は流石に事前には書けていないので、どう使おうか、撮影しながら検討していきましたね。あとは、藤沢さんが光石研さんに辞表を渡すのを、玄関の外で渡すか中で渡すかとか、山添くんと藤沢さんが日曜に洗車を一緒にしたあとに喋る場所を作業場にするかオフィスにするかとか、そういう場所の選択は前日か当日朝まで悩んでますね。撮り始めてからでないとわからない部分でした。
濱口:なるほど。じゃあ本当に、よく見つけたね……。
三浦:建物の中に高低差があって、中二階みたいな場所が魅力的な奥行きを生んでいるし、なかなかあんなに都合良く揃っていないような気がしますが。
濱口:さすがに揃っていないんじゃないかと想像してました。ひとつの建物で全部のシーンをこんなに処理できるのかなって。でもあの空間もこの空間もどうもつながっているようだし。だとすると、場所に合わせてシナリオを変えたか、もしくは違う場所をうまくつないでいるのかなと想像していたんです。一番可能性が低いのが、まあ見つかっちゃったってことだと思っていたんですけど。
三宅:制作部が優秀だったという。物件は水物だから運にも左右されるけど、やっぱり経験値やシナリオを読む能力がないと、あの物件には出会えなかったんだろうなと思いますね。それに、美術部と装飾部がかなりのレベルで現実味のある空間を作ってくれたので、無理のない印象になったんだと思いますし、だから俳優たちもそこにすっと馴染めたとワクワクしてくれてましたね。こりゃちゃんとやらねば、小道具ぐらい溶け込むぞ、みたいなことがあるんだと思う。
濱口:この映画って全体として、いわゆる大きな事件は起きなくて、本当に少しずつ関係性が良くなっていったり学んだりするという構成だけど、でもそれって物語としての面白さに頼れる部分がすごく少ないってことでもある。その上で、一つひとつの場面をどうやって映画として成立させていくのかという試行錯誤があったと想像するんですけど、藤沢さんと山添くんがカシオペア座の話をする大きな歩道橋があるじゃないですか。そのときにじゃあ、あの歩道橋はどうだったのか。栗田科学もそうだけど、もしあの歩道橋じゃなかったら、この場面はあの質を保てただろうかと考えてしまう。というのは、あの歩道橋のあの雰囲気がフィルムに定着するには、歩道橋に向けて照明が当てられないといけない。抜けのいいカメラポジションと、かなり高い場所に照明も設置する場所が必要なはずで、単に歩道橋だったらどこでもいいわけではないと思うんですよね。この場所もシナリオを書いたあとに見つけている?
三宅:そうです。まず会社からの帰り道が何度か反復されるシナリオでした。ただ「道」と書くと準備が難しいので、「線路脇の道」「歩道橋」「遊歩道」と柱を立てて、あと敢えてただの「道」と書いて、ロケハンで発見したものを活かせるようにしたところもあります。会社の近くに駅がある、なら線路がある、ということは歩道橋もあるだろうと。しかるべき線路脇の道を見つければ歩道橋は何個かあるだろうからその中で探せばいいや、ぐらいに想定していました。
濱口:そこまで事前にイメージができている、と。まず構想がかなり明確にあって、準備も含めた現場で微調整を繰り返していったということなんですかね?
三宅:そうですね。制作部が「こことここの歩道橋が自分は好きです」と事前に見つけてくれて、それも含めてその前後の場所を撮影の月永さんや照明の秋山(恵二郎)さんらと歩きながら、ここで何ができて何ができないか相談しながら決定していきました。歩道橋は、自分と演出部でセリフを読んで尺を測って、このセリフ量だとここからここまで歩けるなとか確認して。照明の準備とカット割に関しては、寄りは現場判断でもどうにでもなるからいいとしても、ロングショットの有無や方向は一応決めておいた方がラクなので、夜にロケハンして。
三浦:そもそもあの馬込のエリアに決めたのはなんで?原作通り?
三宅:いえ、原作では明示されておらず。坂を撮りたいって僕が言ったんです。それで制作部から「大田区のこの辺で考えてみたいんですが、どうですか」と提案がありました。
三浦:田舎でもなく、都会でもなく。
三宅:ああいった企業が多くずっとあった地域ですよね。で、いざ行ってみたらまあ坂がうねっていて、面白くて。大田区内でも蒲田付近とはまた地形的に違って、新幹線が谷底に走り、その両脇に丘というか山があって。
濱口:なんで坂なんですか?
三宅:東京って坂多いなあという実感がもともとあるのと、PMSやパニック障害を抱えている身体を捉えるために、坂を上がったり下がったりするのはどうだろうか、という考えですね。
三浦:風景ショットが要所要所で効いているんですよね。必ずしも高いところから撮っているわけでもないと思うんだけど、坂があることで、夜景の馴染みがすごく良くなっている。
三宅:中盤すぎ、ロングショットでふたりが歩いていく夜の住宅街の坂のショットがあったと思うんですけど、これはロケハンの途中で「あ、見えたね。見えてる?」とみんなで目を合わせて頷きあったところでした。偶然、いろんな家のあかりの配置が絶妙によくて。でも、撮影当日はどの家の電気がついているかわからないんで、照明の秋山さんが制作部と一緒に事前に一軒一軒回って、あかりが欲しい家には撮影日に電気をつけていただけるかお願いしたり、電源をお借りしたり機材をおかせてもらえるか交渉したり、という感じだったと聞いています。ついてるのは後からCGで多少消せても、足すのはやっぱり微妙に違うし、当日思いついてもできることじゃないので。
濱口:この風景って、物語の中でもプラネタリウムのことが出てきて、町が星空みたいに見えないといけないわけじゃないですか。あのショットを撮るには夜間に、かなり広い範囲にわたって照明を配置しなくちゃいけないはずで、そういうイメージをどう(ロケーションを探す)制作部なんかと共有して合意を取っていったのか、どうやって照明を配置したのか、まさにそこを聞きたいと思ってたんですけど、そういう流れだったんですね。その視点を発見した三宅くんもすごければ、それを実際にフィルムに定着させるチームとしての動きもすごい。ちなみにこの場面にバイクが通りすぎるじゃないですか、あれも用意していたもの?
三宅:はい。チーフ助監督の山下(久義)さんがその日の朝、バイク持ってきて。
三浦:以前、この3人でブレッソンの『ラルジャン』(1983)について話したときに、背景をバイクや車があまりに絶妙なタイミングで通り過ぎるという指摘があったじゃないですか。「あれは仕込みだと思う?」「仕込みじゃない?」みたいな。結局、ものすごく丹念に仕込んでいるとしか考えられない。カット尻でブーン、と走らせると、さもなければ生まれてしまったかもしれない、沈黙の意味ありげな叙情性のようなものが消えて、代わりに、即物的な運動のリズムが映画を推進させる効果がある、という。『夜明け』を見ていて、そのやりとりを思い出しました。
三宅:今言われて思い出しました(笑)。ロケハンであの坂に行ったときも当然人が歩いているので、自然と演出部とも「どうします?」と話すわけです。主演がスターふたりだし、全部止めて作るので、偶然には人っ子一人通らないことになっている。なので、何を仕込もうかって発想する流れに自然になりますよね。全部ゲリラが前提だったらそもそも考えなかったことだったと思うんですけど。
濱口:当たり前ですけど一つひとつの場面がそうやって構築されていることがわかって、興奮するやら、恐ろしいやらです。そうした細かな演出が人に及んでいる場面についても、聞いていきたいんですけど、藤沢さんが実家に帰る場面があるじゃないですか。あの場所もどこなのかわからないんだけど。
三宅:あれは伊豆急行ですね。
濱口:ああ、伊豆なんだ。
三宅:小説では茨城で、でも僕がどうしても海沿いを走る電車を撮りたいとなって調べてみたら、関東近辺だと伊豆急行しかなかった。
濱口:なんで海沿いの電車を撮りたかったんですか?
三宅:波を撮りたかったんです。坂と波という具体が今回の主題にあうだろうと考えて。ロケハンであちこちポジションを探り、結果的に「波というよりこれは地球を撮ってるみたいだね」と感じたところで撮影しました。
濱口:なるほど。そこでりょうが演じるお母さんをケア施設から家に送るとき、子どもがふたり通り過ぎて「こんにちは」っていいますよね。あれはどうして必要だったんでしょう?
三宅:よくぞ聞いていただきました。プロデューサーの城内(政芳)さんからも「あの演出が要るのか要らないのかずっとわからなかったけどやっと意味がわかった」って言われたところです(笑)。
濱口:じゃあこの演出には明確に意図があるということね。
三宅:そうです。この場面では藤沢さんがお母さんに向ける眼差しがどんなものかを撮る場面だと考えていました。そのためには、いちどその視線を邪魔するような状況を作ってみたら、上白石さんから何が出てくるかなと考えた。まあ、アクション映画でいうところの、厨房の人とか路上の花屋ですよね。あれがあるから、主人公の走りが加速して、力強くなると思うんです。
濱口:なるほど、いちど外さないとその眼差しが強調されないんだ。いや、素晴らしい。
三浦:あの子どもふたりの挨拶がまた屈託のないいい声で、すごくいい効果を上げていますよね。りょうさんが、あの場所の人間関係のつながりの中にすでにずっといるんだ、ということが伝わってくる。だから、やがて上白石さんが帰ってくる場所になるということにも違和感がなくなる。
三宅:あとは、あの団地はすでに使われていない場所だったので、生活感を出すには美術の仕込み以外に人も必要で、正月だし小学生が元気よく遊んでいれば、かつて藤沢さんもそう育ったんだろうなということも、そう強調せずとも、雰囲気としてあればいいなと。
濱口:ちょっと引きのところに遊んでる子も写ってましたね。そのことで使われていない団地自体が生き返って、それ自体の時間を持つ。本当にジワジワと一つひとつの空間がイキイキとするような配慮が各所になされている。
■松村北斗・上白石萌音の素晴らしさ/相互関係の上に成り立つ芝居
濱口:少し話変わりますが、この映画を見てから原作を読むと、ふたりの印象的な会話場面のセリフがほぼそのままなんだってけっこう驚きました。小説にはそれぞれの言葉に対する人の心の流れが書かれているわけですが、映画の場合、特に前半は、たとえば山添くんに自転車を届けようと思いつく藤沢さんの気持ちや行動に関して、因果関係を埋めていくということではなく、ただたんにそういうものなのだと進んでいく。正直、最初はその映画の展開に十分ついていけないところもあったんです。もちろん、後半になると、観客もああ、藤沢さんと山添くんだったからなんだな、と納得できるようになってもくる。そこがこの映画の力だと思うんです。ただふたりの関係で、ゲームチェンジャーだと感じたのはやっぱり髪を切るところの松村北斗さんの笑いですよね。あのちょっと高めな笑い声はそれまでの人物像からは予想してなかった。でも、それがやがて回復していく山添くんのキャラクターと実は見事に呼応している。このハプニングみたいな会話場面もほとんど原作にも書いてあったわけで、そこはとても驚きました。
三宅:ああ、よかった。あの笑い声に濱口さんが反応するのは嬉しい驚きです。セリフについてはそうですね、瀬尾さんの書かれたキャラクターの見事な側面で、やりとりの言葉をなるべく活かしてみたいと思っていました。
濱口:そこから先のふたりのやり取りは全部素晴らしいですよね。自分が原作を読んでこれらの会話が書かれてあったことに驚いたのは、映画の会話がまるでそこで発生しているように、あまりに自然だったからだと思います。そういう点で、ある小説の映画化という観点からも、原作を尊重した上で映画として飛躍した、素晴らしいものだな、と。原作のセリフがそのまま生かされている場合、俳優が「ここが大事」と思い入れが強くなりすぎて準備をし過ぎてしまう懸念もあると思うんです。でもこの映画におけるふたりの会話は常にフレッシュで、その場で初めて話しているようで素晴らしかった。特に自分は松村さんの「普通さ」に驚いてしまうんです。映画の中でこんなに普通に、つまりは相手に反応して相手と話している人ってあんまり見ない。この普通な感じはどうやって作られていったのか。会話はどんな演出をしたんですか?基本的にふたりの会話は切り返しのない、同時の撮影ですよね。
三宅:髪を切る場面について話すと、髪を切る瞬間は彼の地毛だったので基本的には一回で、そこだけはテストできないんだけど、その前後のやりとりはアクシデントがないようにやたらテストはしました。その意味でふたりはとっくにフレッシュではなく、練り上げたものです。
三浦:即興という感じではないよね。
三宅:はい。この場面はインの前にも読み合わせをする機会を設けられたので、そこでセリフの足し引きのアイデアなどを実験できて、それを受けて撮影稿にブラッシュアップして。濱口さんのいう「普通さ」の大部分は、本人たちが「この役を自分が演じること」だとかシナリオから読み取ったテーマなどを意識した上で、自ら持ち込んできてくれたトーンでした。自分ができるのはその場その場で正直に伝えられるくらいだし、大したことは言ってないと思うんですが、印象として、彼の素晴らしさはやっぱり相手が上白石さんだったからこそだと感じていました。これはお互いですが、相手のことをよく見ている。たとえば、松村さんは撮影当日、自分が数ヶ月伸ばしてきた髪を切られることではなくて、髪を切る上白石さんが緊張やプレッシャーを飛び越えて役としてそこに立っている、その存在感に意識をフォーカスしていたように思います。そういう感覚がセリフの発し方を支えていたのではないかなと。
三浦:この映画の上白石さんを見て、僕は勝手にかつての薬師丸ひろ子さんを思い出していて。相米慎二の『セーラー服と機関銃』(1981)みたいな、理由が必要ない人というか。つまり、ガーッと動いて、その芯から出る声で周囲を説得してしまうような人で、多少因果関係が飛んでいても、上白石さんだと「カ・イ・カ・ン」という感じでやれてしまうというか。PMSのつらさも切実に表現しつつ、なおかつコミックな魅力もある。どちらかというと松村さんはそれを観察して受ける側ですね。そのふたりの登場人物が映画の中でどうなっていくかということに関していうと、上白石さんは本質的に変化しない。まったく変化しないわけではないけど、むしろ変化するのは松村さん。そういう意味では、役割分担がすごくはっきりしていると思いました。
三宅:そうかもしれないですね。
三浦:最初は見えなかった新しい観点を得るのが松村さん。最後の見事なモノローグでも示される通りなんですけど。
濱口:そう思います。上白石さんの発話には、松村さんとはまた違う歌のようなトーンがありますよね。その相互作用をふたりとも楽しんでいるような印象があります。会話するふたりのあいだで、その都度何かが生まれていて、それを信じることができるというのが、間違いなくこの映画の素晴らしさの核心かと思います。
三宅:自分としては、序盤の玄関前のやりとりを撮影した時に、この映画が捉えるものが見えたという手応えがありました。あの場面も、カットバックするかどうか事前に答えを出してなかったんですが、段取りをして、これはふたり同時に等距離だ、と。ふたりも、習慣的に顔を撮られるものだと思っているからキャメラポジションに興味を持ってくれて、自分が掴んだ狙いはその日のうちに話しましたね。ふたりは取材で「カメラがどこにあるかわからない」と言ってましたが、別に遠くにいたり隠れていたんじゃなくて、視線にあんまり入らない角度にいた。キャメラの存在や距離というのはやっぱり物理的に、演技に影響するように思います。それは無意識のうちに邪魔するとかいうレベルではなくその逆で、俳優自身もキャメラの意味を感じ、集中すべきものを見定められるということです。上白石さんがヨガで怒りを爆発させるシーンは、後で本人から「あの位置にキャメラがあるのは助かりました」と言われたんですが、当然のようにすごく見えているもんなんだな、と改めて思いました。口調などの演技指導のことは正直いまだによくわかってないけど、然るべき状況をその場面に用意すれば、今回のおふたりみたいに優れた俳優たちは持っている力を自然と発揮してくれる。演技がいまいちという時は、俳優の問題でもないし、口先を調整しても大して変わらないというか、大抵その環境設定自体や芝居の位置関係に問題があるはずというアプローチくらいしか自分にはできないですし。