制作において何かをコントロールする手段をある程度習得すると、それをどの程度行使するべきかという問題に突き当たります。これはコントロールする手段を習得するということはそれを使わないという選択肢を獲得するということである、とも言い換えることができます。コントロールを徹底した作り方には魅力があり、たとえば小津安二郎やデヴィッド・フィンチャーなどはコントロールを徹底するタイプの作家の代表でしょう。視聴者にコントロールしていると感じさせない程度にコントロール量を調整する制作者が大勢だとすれば、そのラインを大きく超えてコントロールしていることを前面に押し出す美しさを追求しています。一方でJ・ケージのチャンスオペレーションなどはコントロール出来る範囲を意図的に手放すことで不干渉の美しさを獲得しようとしています。どちらの方向もコントロールをどの程度行使するかという点に関しては自覚的であることに注目してください。
はじめに結論を述べておくと「もっとコントロールに自覚的になるべき」というのが本稿の主張です。さて、制作におけるコントロールという要素について話す前にいくつか前提を整理しておきましょう。
[前提1]
コントロールという単語は操作という意味と支配や管理という意味を両方含んでいる。
[前提2]
コントロール可能なパラメータは無数にあり、それぞれのパラメータはリンクしていたり、パラメータとしての階層が存在する。
[前提3]
人間が意識的にコントロール可能なパラメータは限定的である。無意識にコントロールしているパラメータもまた有限に存在する。無数ではない。また、コントロール可能なパラメータを知覚するためには一定の学習などが必要となる。
[前提4]
「どの程度コントロール可能な要素を知覚しようとするのか」という最上位パラメータから逃れることはできない。
それぞれの前提について
前提1はコントロールという単語が持つニュートラルな要素とネガティブな要素を確認しています。文脈に応じて操作と支配という単語に置き換えることが出来るかもしれません。しかし、操作という行為が持つ支配の要素が失われたり、反対に支配という単語が過剰にネガティブな印象を与えることは主張にとって適切ではないのでコントロールという広い意味を持つ単語を選択しています。
前提2は直感的に理解できるでしょう。椅子が椅子として機能するためには概ねそれぞれの足は同じくらいの長さである必要があり、1本だけ短くしてみようとしても上手くいかない、などが拘束の一例です。ほかにも、同じ明るさの写真を撮るときにシャッタースピードや絞り、ISOなどはリンクしていますし、ピザに載せられる具材の量はピザの直径というパラメータに従属しています。また、使用ツールの選定も上位パラメータとして振る舞います。「ハンマーしか持っていなければすべての問題が釘に見えてくる」という言い回しがあるように、使用ツールの選定はその後の選択を大幅に規定します。
前提3の意識的にコントロールできるパラメータが限定されることには、単純に人間がそこまで優秀ではないということ以外に2つの理由があります。
ひとつは技量の問題です。たとえば、多くのカメラはフレーミングやレンズのフォーカスに加えて絞り・シャッタースピード・ISOという3つのパラメータでコントロールできるように設計されています。すべてのパラメータは直列に結果へ作用しますが、初心者はそれぞれの操作がもたらす分かりやすい変化の方に気を取られて本来コントロールするべき要素の望ましい結果を引き出すのが難しく感じるはずです。具体的に言えば、シャッタースピードを下げることや、ISOを上げることは共に写真を明るくする効果がありますが、前者はブレを大きくする効果があり、後者はノイズが増えるという効果があります。ほとんどの場合、写真の明るさという拘束条件のもとで何かの効果を得るために他の効果を犠牲にするという判断が行われるわけです。こうした判断を取り除いて構図などに注力するためにPモードといわれるものが存在します。もちろん、被写体やシチュエーションによってはシャッターチャンスという要素があるので一概に上級者がMモード(すべてのパラメータをマニュアルで操作するモード)を選択するとは言えません。しかし、技量の向上とともにほぼ固定でよいパラメータの見極めや、それぞれのパラメータをコントロールするのに必要な思考リソースも減るので多くのパラメータを同時に検討することが出来るようになります。
もうひとつはパラメータとして複数の要素がお互いに拘束しているにもかかわらず、操作としては独立した別々のパラメータであるケースです。拘束条件を見いだせていない場合はパラメータを単体で動かしたときの出力への影響を理解しづらいため、アウトプットが「いい感じ」になる状態≒それぞれのパラメータが適切である状態への操作性が悪いということが起こりえます。いかに自分の手を無意識にコントロール出来ていて素晴らしいのか、ということHand Simulatorというゲームによって体感することができます。
2つのダイアルを操作してXとY方向にスタイラスを動かして画を描くEtch A Sketchというおもちゃがあります。
このおもちゃは縦か横の直線を描くのは非常に簡単ですが斜めの線や曲線、円を書こうとすると途端に難易度が上がります。このおもちゃが魅力的なのは普段我々がフリーハンドで描くのは難しい直線が簡単に描ける反面、比較的容易に描ける有機的な形が困難であるという反転構造にあります。これはその「ままならさ」が面白さに昇華した例ですが、実際のところ制作の面白さにはこの「ままならさ」に起因するものが多くあると感じています。修練によって出来ることが拡張していくことの喜びはもちろんのこと、出来て当たり前のことが出来るよりも、出来ないはずのことができることや、出来るはずのことがうまくいかないこと、それをどうにか工夫して克服しようと試みるプロセスが楽しいという人は少なくないでしょう。
制作するときに知覚しうるこうしたダイヤルは2つではなく数百、数千というレベルになると思いますが、愚直にやろうとすると人間のキャパシティを超えるので適宜固定パラメータに置き換えたり、場合分けして意識するパラメータを減らすというのが現実的です。これらのダイアルのレパートリーと、それらの同時操作や取捨選択が意識的・無意識的に関わらず適切である状態のこと、あるいはその手際が良いことは一般に「センスが良い」と表現されています。
前提4は今回のメインとなるトピックです。コントロールするパラメータを選定する、知覚する(しない)、放棄する、といった振る舞いはすべて「どの程度コントロールしようとするのか」というパラメータに集約されます。このパラメータはコントロールしようとする前段階として知覚する必要があるため、自身にとって未知のパラメータを見つけたり知ろうとすることや既知のパラメータを意識することも含めて「どの程度コントロール可能な要素を知覚しようとするのか」に集約されます。
たとえば、「素朴さ」と表現されるものは、コントロール可能なパラメータへの知覚が絞り込まれた状態と、知覚しているパラメータをコントロールしそこねている状態の合わさった状態です。前者はアクティブにコントロールするパラメータを絞り込んでいるのではなく、その前の知覚の段階で絞り込まれていることに注意が必要です。初学者の制作物が自然と素朴さやひたむきさを纏うのはパラメータの知覚能力や操作能力がまだ低いからです。もちろん、多くのパラメータを知覚しているにも関わらずそれを知覚していないかのように振る舞うことは可能でしょう。しかし、そのことが露呈してしてしまった場合は不当に素朴さを獲得しているとして、「あざとさ」と受容されることもあるでしょう。これを不当と感じることが適切なのかは議論の余地がありますが、「まだ知覚していない」という不可逆な要素でしか得られない聖域を侵犯しているという指摘は可能です。また、知覚していないかのように振る舞うことと、知覚していながらコントロールを放棄すること、コントロールしそこねているかのように振る舞うことはそれぞれ異なります。
あざとさについて
コントロールすることとあざとさや傲慢さはある程度分離出来る要素です。というのも、本来あざとさや傲慢さは如何様にも鑑賞者が解釈を変更できるものだからです。
あざとさは制作者が想定している「鑑賞者をコントロール可能な範囲」の内側、とりわけ「鑑賞者がどう感じるか、およびそれをどの程度コントロールされることを受け入れるか」という部分に関しての見積もりと、鑑賞者が「コントロールされてもよいと許可している範囲」の間にギャップがあった場合に知覚されるものです。制作者の見積もった範囲と鑑賞者が許可している範囲を比較して、前者が大きすぎると知覚された場合に「あざとい」あるいは「傲慢」と人は知覚します。鑑賞者の許可する範囲は、その人自身への許可範囲というだけでなく「人が人をコントロールしてよいと考える範囲」と近似しており、「人をそこまでコントロールできると思うなよ」という義憤となって現れます。
その上でシンプルに整理しきれないのは、いくつかの事情があります。まず、コントロールをかなりの部分手放したものを謙虚だと受け止めることもできれば、それは傲慢であると判定されるリスクを全力で避ける卑怯なふるまいで、他者よりも謙虚な存在でありたいという欲求こそが傲慢である、というような解釈が出来てしまうからです。また、鑑賞者として狭量な存在でありたくないという欲求を、自身に対するコントロールを許可することで達成しようとすることや、あざとさを積極的に開示したり謝罪してみせることで謙虚さを獲得しようとする、あるいはあざとさのオーバーフローで強さやスマートさへの変換を試みるなどの振る舞いもあります。
このような複雑な各々の欲求による歪みが組み込まれるために「よりよい振る舞い」というものは決定不能です。しかし、だからこそ徹底的にコントロールを試みた状態がコントロールを積極的に手放した状態より謙虚であるという状態もあり得るといえます。自身がどのような欲求によってそう振舞おうとしているのか、それによってどのような歪みが組み込まれようとしているのか、という点について振り返ることは、ありのままでいい、という達観よりも悩ましく、そして楽しいものです。
制作におけるさまざまなパラメータ
制作はプロセス、制作物の両面において多様なパラメータで解釈することができます。下位のパラメータ(どのような色味にするか、イージング、音のアタック etc…)についてではなく、比較的上位に属すると思われる重要なパラメータについて言及しようと思います。
ここでは
・制作ツールへのスタンス
・制作プロセスの非破壊性
・社会性
・被リファレンス性
の4つを紹介します。
制作ツールへのスタンス
まずは制作ツールへのスタンスをいくつかに分類してみましょう。
Diver
ツールが持つ可能性の限界に執着を持たないタイプ。ツールの持つ可能性空間の内、狭い範囲で事足りる場合や、ツールの可能性空間の限界に到達しない程度の習得度のためにこのタイプになっていることもある。あるいは限界への距離感をコントロールすることを好むタイプもこのタイプに含まれる。
Climber
ツールの習熟度を高め、そのツールのエキスパートになることを好むタイプ。ツールが出来る範囲の中で最も高度な出力を行うために積極的に修練を重ねる。ツール選定の基準は、習熟すれば高度な結果を出力出来るかどうかなどが重要な観点となる。
Builder
ツールそのものを作ろうとするタイプ。ツールの持つ制約がもたらすアウトプットの限界が気になり、既存のツールでは困難なアウトプットを出すためにツールそのものを作ることで打破しようとする。一般的に現代の制作ツールは非常に高度で複雑なため、一点突破で限定的なツールを作ったり、プラグインなどのように既存ツールの部分的な拡張でこれを行うこともある。
Hopper
多くのツールを行き来し、ツールが想定している主流の使い方ではない使い方を見出すことに魅力を感じるタイプ。DiverやClimberが使うツールの限界を根本的には超えているわけではないが、DiverやClimberが認識していない可能性空間を発見することを好む傾向がある。また、DiverやClimberが選定しないマイナーなツールを選定することで擬似的にBuilderが求めるものと似た効果を得ようとする。また、習得に投入できるリソースは有限なので、必然的にそれぞれのツールの習得度はClimberに劣ります。
Diverは多くの初学者が通るタイプです。それはアクセス出来る可能性空間の限界を認識出来る程度に習熟しないとBuilderやHopperのような欲求は生まれづらいからです。しかし、スタート時にDiverが多いということが真であっても上級者であればDiverではないとは限りません。他のタイプに共通して言えることですが、制作ツールが持つ可能性空間のエッジに拘るスタンスは結果的にエッジ付近の表現に偏るという宿命にあります。そうした「ツール開拓精神」から距離を置いた上級者のDiverは、「いかにエッジにアクセスしないか」という美意識と操作能力を持っており、他のタイプとは異なる次元を切り開きます。たとえば現代におけるドット絵と呼ばれるジャンルはそうした美意識と関わりが深いもののひとつでしょう。
ClimberはDiverから派生する一般的なタイプです。特にソフトウェアによる制作ツールは機能が日々追加されており、Climberとしてそれを追いかけることも容易なことではありません。制作しようとしている出力物に対しての寡占的なツールが存在し、Climberであることを強制されている場合もあります。Climberでいることの良い点は仲間がたくさんいることです。道具が同じであるということは発生する問題や躓くポイントに関しても共有が可能で、お互いに助け合うことが容易です。そうした互助のコミュニティを発展させるのもClimberの特徴であり、初学者のDiverをClimberに引き込む手助けもします。また、可能性空間が同じであるという点において競技的な側面も生まれます。クリエイティブと競技的な考え方はしばしば衝突しますが、競技的な土壌があることによって生まれる独自のトーンやハレーションが面白くなるということはあり得ます。Climber的なあり方で注意しなくてはいけないのは、そのソフトウェア固有のバッドノウハウは制作の奥深さとイコールではないという点です。特定の車のエンジンのかけ方やシフトチェンジのコツをマスターすることは広義では運転の腕の一部には含まれるかもしれませんが少なくともイコールではありません。とくにソフトウェアのツールにおいて、可能性空間が広いものはアップデートの歴史的経緯から設計に歪みを含みがちで、ある程度自由にその空間を移動するためにバッドノウハウの習得が要求されますが、それは本来ソフトウェアの瑕疵です。それらをカバーする能力を獲得することはツールコミュニティの中での相対的な強者になりうる要因ですが、表現的な探求そのものではないことに留意する必要があります。
Builderはそれほど多いタイプではありません。その理由のうちのひとつは、多くの人が作りたい要素を作り出すための機能はその要素同様に需要が高いので既存のツールに実装されやすいということにあります。多くの人が向かいたいところへは最短経路の道が自然と芝生の上に出来てしまうということに近いかもしれません。
それでも既存のツールにはアクセスしづらい可能性空間への希求、あるいは覇権ツールによって「どんなものを作りたいか」までもがコントロールされている構造への反発から、荒れ地や青々とした芝の上に道を作り出す欲求を持つ人々は存在します。多くの場合は制作プロセスの一部を取り出し、独自のプロセスを組み込むのが限界で、現代においてすべてを支配しようとするのはトースターをゼロから作るのと同じくらい困難でしょう。場合によってはこのプロセスの支配権を握れる範囲が広いことを理由として制作物の内容を決定することもあります。
また、Climberなどほかのタイプの人が部分的にBuilder的なふるまいをすることはあるでしょう。たとえば治具とよばれる一時的な道具を適切に制作できることは電動のこぎりをDiverやClimberとして習熟していく中に含まれています。
BuilderとHopperはどちらもClimberに対置される存在ですが、Hopperは少しアプローチがBuilderと異なります。Hopperの人々はBuilderの人々と同様にDiverやClimberの未踏空間への興味関心が強く、寡占ツールが制作者たちの可能性空間を制約していることに疑問を抱いていますが、道具そのものを作り出すのではなく、道具(インターフェイス)群を飛び回ることで未踏空間へアクセスしようとします。ある道具ではアクセスしづらいことが別の限定された用途の道具ではアクセスしやすいということはよくあることですが、複数の道具の組み合わせによってアクセス速度を上げたり、時には可能性範囲やアクセス速度がいびつな道具を使うことによって寡占ツールでは通過してしまうところで分岐してみせたりすることに喜びを感じています。
しかし、こうした未踏空間への偏愛はClimberが陥りがちなバッドノウハウを奥深さと勘違いしてしまうことの裏返しでもあり、未踏であったりアクセスしづらいということはその場所が良い場所であったりすることを保障するものではないということに注意が必要です。制作物の良さや面白さがこれらに立脚していることは研究という観点やコミュニティ全体の発展という意味では十分に意義深いものですが、それこそが制作の本懐であるという視点は上級DiverやClimberの到達を軽視することに繋がるでしょう。
私自身は、Hopper寄りのスタンスを持っていると感じています。しかし、可能であれば、使い分けや重ね合わせた状態で複数のタイプを掛け持ちたいと望んでいます。なぜなら、どのスタンスも一長一短であり、それらを行き来することがツールからの暫定的な自由と主導権を確保する方法だと考えているからです。
次回は今回に引き続き、コントロールについて
・制作プロセスの非破壊性
・社会性
・被リファレンス性
の要素を紹介したいと考えています。