第80回ヴェネチア国際映画祭・銀獅子賞(審査員グランプリ)受賞からおよそ半年を経て、2024年4月26日より劇場公開された濱口竜介監督最新作『悪は存在しない』は、この6月より公開館を拡大し、より多くの観客を興奮と困惑に誘うはずだ。音楽家・石橋英子氏からのライヴ・パフォーマンス用映像制作のオファーを発端に紡がれたのは、自然豊かな高原に生きる人々とそこに持ち上がったリゾート計画をめぐる一篇の寓話であるとともに、映画をつくることそのものの豊穣な記録でもあった。『夜明けのすべて』鼎談に続き、映画研究者の三浦哲哉氏と映画監督の三宅唱監督、そして濱口竜介監督自身による本作をめぐっての鼎談。そこでのキーワードのひとつは「目撃」だった。
(本記事は全編にわたって映画の内容に触れています。ご鑑賞後に記事をお読みいただくことをお勧めいたします)
三浦哲哉:僕は4回ほど見ているんですが、初見を見終えたあとのなんとも言えない余韻、腰を抜かして席から立てないような興奮をしたたかに味わいました。『ドライブ・マイ・カー』(2021)を完成させた直後に濱口さんは、いやあ、となんか首を傾げていたのを憶えているんですが、でも見たらド肝を抜かれて。本作についても「今回は軽く撮っちゃったけど、今これができてよかったです」ぐらいの感じでしたけども、見たらやっぱり予想をはるかに超えてきて、唖然としました。
三宅唱:悪い人ですねえ(笑)
三浦:『悪は存在しない』は小さなチームで作られた小規模な作品です。にもかかわらずと言うべきか、だからこそなのか、もちろん石橋英子さんという素晴らしい音楽家がいたからとはいえ、濱口さんはつまらない映画を本当に撮らないよね。
濱口竜介:まるでそれが問題かのように(笑)、ありがとうございます。
三浦:たくさんの要素があるけれど、想像力というものがやっぱりひとつの鍵なのかなと。本当に作品に没頭しましたね、想像しまくったというか。かつて濱口さんは小規模低予算でもおもしろい映画を作る鍵は、観客の想像力を焚き付けて、観客の想像とともにじょじょに映画が作られるようにすること、と『ハッピーアワー』(2015)のときに述べていましたが、本作でもそうした仕掛けにものすごく私がはまったということなのか、ものすごく前のめりになって見ました。
三宅:僕も4回見ました。完成直前か直後の時に呼んでもらったときと、スクリーナーと渋谷とさっき下北沢で。
濱口:ありがとうございます。ヴェネツィア映画祭に出品する素材の確認試写かな。たぶん三宅くんがスタッフ以外でこの映画を一番最初に見た方ですね。
三宅:最初に見たときも、今日見直したときも感じたのは、濱口さんほんとうに楽しそうに映画を撮ってるなと。たとえば花(西川玲)がいなくなったと知った3人が森の中を探しているときの横移動のショット。右から左にカメラが動いていくなかで、渋谷(采郁)さんがちょっと遠い位置にいて、真ん中に高橋(小坂竜士)がいて、手前に巧(大美賀均)がいて、いちど見切れてまたフレームインしてくるあのショット、楽しんでないとああは撮らない、テンションの高いショットです。さらにその後、金髪の彼(鳥井雄人)が走ってきて「花ちゃーん」って探す場面では手持ち(カメラ)なんかもあって、すごくノっている感じ。言うまでもなく映画に正解なんてないのでどう撮ってもいいわけですけれども、説話の効率性や現場の経済だけ考えていたら思いつかないショットを撮っている感じ、もっと言えば、そのショットがなくてもいいかもしれないのに「撮ろう!」ってモードが優先している感じがして、超楽しそうに撮っているな、それがとてもいいなと。自然とこちらの気分が上がっていく映画で、その理由はそんなあたりにもあるのかなと推測しました。パンフレットにも濱口さんは「楽しかった」と書かれていて、もちろん今までも楽しく映画を撮られてきたと思うんですが、今までの楽しみ方とこの映画での楽しみ方は違ったのではないか。もし違うならそのあたりから聞きたいです。で、楽しかったですか?
濱口:楽しかったですねえ(笑)。確かに、これまでの映画づくりの楽しさとは違うものを感じてたと思います。一番の違いは──もはや経緯は色々なところで話してるので割愛しますが──この映画が石橋英子さんの音楽パフォーマンス用映像としての発注から始まったということに由来してます。少なくとも、企画当初はそもそも映画として完成させる必要がないものだった。もちろん最終的には石橋さんのライヴパフォーマンス用に納品しないといけなかったんですけど、その制作方法が思いつかなくって、結局、自分が作り方をよく知っているものを作って、その副産物を納品しようと思った。だから、制作現場で作っているのはもちろん映画なんだけど、完成させる必要がない、あるいはどう完成しても、誰も文句を言わない。この経験したことのないような、圧倒的なプレッシャーのなさというのが、「映画づくり」として楽しかった理由の根本ですね。
そこで、これまでと変わらない劇映画づくりのために物語の枠組みは用意したんだけれど、そのプレッシャーのなさも手伝って、撮りながら変わっていけた。三宅くんの指摘する通り、ワンショットワンショット、「今はこれを撮るのがいいんじゃないか」ってものを撮ることができた。撮りながら、頭の中で編集を組み替えるっていうことの度合いが、今までよりも大きかったと思います。現場全体が撮れたものに応じて、変わっていける。それは小規模な体制だったことも大きいですし、よく変わる脚本内容をスケジュールに落とし込んでくれた助監督の遠藤薫さんの力も大きい。結果として、今までは書いたものを撮っているのだとすれば、撮りながら書いているような感覚がありました。つまり現場で撮れたものに応じて、編集していくような感覚があったっていうことです。それが「楽しかった」っていうことにつながるでしょうね。
■「目撃」そのものとしてのショット
三浦:冒頭の木々を見上げるファーストショット、ガッチリとこの映画に掴まれるというか、映画を見る構えができ、映画に吸引される始まりですよね。このショットが、それ以降の構成まで決めるようなものだったんでしょうか。濱口さんはこれについて、大学時代以来撮りたかったようなショットである、とまで発言していますね。
三宅:濱口さんって森を歩いてるときに上を見上げる人だったんだと。
濱口:そんなでもない(笑)。
三浦:どの時点であのショットを撮ったんでしょうか。
濱口:クランク・インして10日目ぐらいのタイミングですね。説明会シーンの撮影なんかは既に終えた、全体の半分ぐらいの行程のときです。これは、最初からシナリオに書き込まれていた視点でした。撮影前のリサーチで、ここの道ならこういうものが撮れるということは確認していました。かねてから自分が撮りたいと思っていたものが、主題とも全然齟齬のないかたちでようやく普通に撮れるな、と。ちなみにカメラがあるのは細い林道みたいな場所で、軽トラの荷台の上にカメラを上向きに固定して、エンジンを切ってスタッフが車を押して撮っています。途中から坂道で自然と滑っていくんで、ブレーキを運転の人に踏んでもらいながら。ただ普通に撮るとどうしても揺れるし、スピードが一定にならなかったりするんで、ハイスピードで、つまりスローモーションになるように撮影しています。
三浦:そうだったんですね。一切揺れがなくて、キューブリックの『シャイニング』(1980)の冒頭の滑るような空撮をちょっと彷彿とさせましたが、こんな画面見たことない、という不思議なインパクトと異世界感がありますよね。流れ方がとにかく絶妙ですが、編集時に速度も調整されたんですか?
濱口:いや、撮影段階で決めたフレームをポスプロで変更すると、画面がカクカクして、この気持ちよさ自体が崩れてしまうので、現場で2倍速で撮っているっていうそれだけです。それで最終的な画面は普通の1/2のスローになります。流れの度合いは、現場で車の速度次第で、これがいい塩梅っていうところを探してやりました。確か時速8kmぐらいで、最終的な画面は時速4kmぐらいの、本当に歩いている速度。この画面って確かにドローンっぽい感じもあるし、多分ドローンでも同じような効果が出せるんですけど、我々の予算だとちゃんとしたレンズを付けたドローンを飛ばせないので、この方法になりました。単純に撮ってみたら気持ちいいだろうと予想はしていたけど、本当にそうで。
三浦:石橋さんの即興演奏を触発するような、そういう力があるショットを探して選択されたものでもあるわけですよね。高原地帯でこれから起こる物語に関わりつつ、その両方を満たすような。
濱口:これはもう、石橋さんとのあいだでいろんなやり取りがあった上なんですが、僕にはいわゆる抽象的な映像は撮れない。かといってあんまり物語性が強い映像だと、少なくとも石橋さんの音楽とはナチュラルに合ってこないだろうと。我々の予算で撮れて、かつ石橋さんの音楽と合う映像とはどういうものか。基本的には、つねに画面の中に何か動きが生じているものだと考えた。しかも人間による動きだけではなく、ノンヒューマンな動きが相性がいいだろう、と。つまりは自然の動きみたいなものがあればきっと調和するだろうと、シナリオを書く前からそういうものをずっと探していたんです。水とか霧とか煙とか、そういうものはカメラを据えれば映る。木はもちろん風でも吹かない限り動かない、でもリサーチを車でしているうちに、そこの木々のレイヤーが見せる豊かなヴィジョンを発見するわけです。なので、木々はこちらの視点を動かせば、すごく魅力的な表情を見せてくれるに違いない、と。で、実際にそういうことをできる道も発見したことで、最終的にこのオープニングショットになりました。
言い方は難しいんですが、この木の映像ってとても音楽的なものだと感じるわけです。少なくとも『悪は存在しない』では石橋さんの音楽をかなりちゃんと吸収できるようなものになっている。でも実は現在、(ライブパフォーマンス用映像の)『GIFT』で石橋さんがここにどんな音楽を当てているかというと……無音なんです。
三宅:カッコいいなあ。
三浦:すごい、予想の上を行きますね。
濱口:それは何か、自分の撮ったものを石橋さんが全面肯定してくれたみたいな気持ちになって嬉しかったですね。でも『GIFT』の演奏はやりながら更新していくらしいので、いずれ何か音がつくかも知れませんが。ともあれ、撮ってみたら風情が実際にあった。編集中に何度見てもこれは本当に飽きない。ずっと見ちゃう。
三宅:すごい同意します。僕も飽きないんですけど、なんで飽きないんですかね?
濱口:でも多分飽きる人もめちゃめちゃいると思うんですよ。ただ、多くの人がついて来てくれる限界まで行こうと思って、長く使っています。
三宅:10秒以内で短く使うか、1分以上の長さで使うかみたいな。数字は適当ですけど、中途半端な長さだとよくないんだろうなという気がします。
三浦:この飽きなさは異様ですよね。僕が思ったのは、ある種、動くロールシャッハテストのようなものではないかと。カメラが捉える木立はおおまかに左右対称で、ほのかな不気味さというか、意思が介在するように思えてしまう。一方でそれを破るようなランダムネスもある。その両者がせめぎあっている、だからやっぱり長く使う方が効果的だと思う。ずっと見ていると自分の想念が引き出されつつ、でも気持ちよく裏切られたり、またシンクロするような効果がある。
三宅:これは「目撃すること」そのものを味わわせてくれるショットなのかなと。人はたいてい映画でも実人生でも何かを目撃したあとには意味を考えたり解釈したりするわけですが、このショットはどうか。三浦さんがおっしゃるロールシャッハテストのように人によっていろんなことを感じさせながらも、でも最終的に何か1つの意味に落ち着くということを回避して、やっぱり「目撃すること」そのもの、そういう体験になっているのかなと考えてみました。「目撃」に留まらせてくれる、つまり解釈の手前に留まらせてくれると言えばいいのか、あるいはいくつもの解釈を経由してなおそれを跳ね除けるような「目撃」に連れて行ってくれると言えばいいのかは、わからないんですが。
三浦:「目撃する」は、なるほどという言葉ですね。僕なんかはつい想像を引き出されて、それに溺れてしまいがちですけど、でもカメラの前の現実がつねに想像を上回るというか、先に行って驚きをもたらすのがこの映画のポイントだということは、その通りだと思います。このショットも、想像を掻き立てて音楽と気持ちよくシンクロするという意味でだけなら、たとえばiTunesのスクリーンセーバーに似ていると言えないこともないけれど、でもコンピューターで作り出したランダムネスは、どこかつまらないわけです。やっぱり現実の木立を撮影しているからこそのショットの力というか。
濱口:そうですね。この画面、ずっと見ているとちょっとだけ予測ができるようになるんです。枝ぶりのこのレイヤーとあのレイヤーがやがて重なってこう見えるんじゃないか……みたいな。その通りになることもあるんですが、でも「こんなものがあったのか」みたいなレイヤーが急に画面の外から出てきたりして、やっぱり覚えられないんですよ。おそらく編集時に100回ぐらいは見ていると思うんですけど、毎回不意打ちを受ける。編集としては、覚えやすい枝ぶりを起点にしてリズムは作っています。さらにポスプロ作業では、音楽をどのタイミングで合わせるかという、枝ぶりと音のレイヤーっていうのもあって、それらが上手く重なって高まるときもあるし、バラつくときもある。その「高まり」と「ほどけ」が繰り返される感じがあります。おっしゃる通り、この繰り返しが目撃の感覚みたいなものを、絶え間なく作り出している。今日も、さすがにちょっと忘れているかと思ってまた見てみようみたいなことを思ってPCで見たりしてきたんですけど……。
三宅:どうでした?
濱口:そしたらまた「ああ、こんなふうになってた」ってバカみたいに不意を打たれてしまう。自ら不意を打たれに行くと言うか。不意を打たれる快楽ってあるんですよ。でも本当に嬉しいことですよ、自分の映画でこういう気持ちになれるというのは。もちろん役者の演技に改めて驚くこともあるんですが、このくらいの短いスパンで見直しても、何度でも驚けるという体験はなかなかない。
三宅:映画は「発見する」喜びである、みたいことを僕はたまに書いたり話したりしてきたんですが、それって(言葉の選択が)甘かったなと思いました。この映画にあるのは「目撃する」驚き、そういう強さですよね。映画が終わった後に色々と話したくなっちゃうのは、観客がただの鑑賞者というより「目撃者」になるからだと思う。『悪は存在しない』の面白さ、稀有な体験を言葉にするならそんな感じかなと。そしてこの冒頭のショットは、ただ目撃し続けるをえない、そういう力があると思います。
濱口:いやまさに。でも、その「目撃」の感覚こそ、自分が現場で感じていたことで、それが「楽しさ」の理由だとも思いますね。
■子どもの視点/カメラの視点
三宅:子どもへの演出はいかがでしたか。これまでの作品と変わらず本読みはやったと聞きましたけど。
濱口:台詞のあるところは何度も本読みする、っていう普段通りのことをしました。子どもの演出は随分やってなくて、不安だったけど、まあ結局大人と同じようにやろう、と思って。子どもだからと言って態度を変えるのも苦手だし。
三宅:今回はオーディションなんでしたっけ?
濱口:オーディションです。3人ぐらい会って、そのうち2人は本当に一般の娘さんという感じで可愛らしい方たちだったんですけど、8歳の西川玲さんを選びました。彼女が一番大人として接することができるんじゃないだろうかという期待もあったんです。結果としてはかなり立派に8歳の少女だったんですけど。
三宅:そうだよねきっと。
三浦:少し異国的な面持ちの、それこそフォードの『捜索者』(1956)のナタリー・ウッドとかを一瞬思わせるところがありますよね。鳥の羽を持ったりしているところもあったり。フィクション性の高い顔ですよね。
濱口:実はそういうことは撮ってみるまでわからなかったんですよ。オーディションのときは特にカメラテストみたいなこともしないし、リハーサルをしてみるとけっこうおちゃらけた子どもらしい感じもあって、そんな彼女がフレームの中で立ったり歩いたりするときに、こんなにハマってくるのかということは、実のところ、撮影初日までわからなかったんです。で最初にあの切り株の上に立って横顔を見せて白い息を吐くとき、「おや、これは……」と思うという。
三浦:8歳って絶妙だと思う。そのくらいの子どもってちょっと小動物的というか、歩くとヨタヨタするじゃないですか。大人とは身体性が違って、あれはすごい目を引いて、見飽きない。
濱口:そうですね。子どもの演出というか、やっぱりいかにも子どもらしい部分というものについては、僕はやっぱりすごく苦手なのが根本です。話を聞いてくれないとか集中してくれないとか、そういう部分。ただ、一方で大人よりやりやすい部分っていうものもあって、当たり前なのかもしれないですけど、そこにいてもらっていいですかって言ったら、単にそこにいてくれるという。
三宅:はい。
濱口:そこでこの風景を見ながら何か考えてもらっていいですかって言ったら、本当に彼女なりに何か考えている。そういうやりやすさというのはありました。それってやっぱりカメラにも写ってくるし、すごくこの自然の風景と調和した居方だったんじゃないかな、という気がします。
三宅:じゃあ、目撃しろと言ったら目撃してくれちゃうってことですよね。因果関係なく。
濱口:そう。
三宅:まさにそういう彼女に触発されて撮られたショットもあるのかなと思いました。我々大人が、彼女のように世界を見るってことはさすがに難しい。
濱口:そうだと思う。でもカメラってそういうふうに見てるんだと思うんですよ、子どもの目線。これは自分語りになりますが、子どもの頃に転校ばっかりしていたんですね。転校した直後、自分が学校に通う街がどんな街かわからないまま、今日からここが通学路だと言われて見た風景と、大人になって映画を撮る中でカメラが映すものってすごく似て感じるんです。モノ自体の存在感がグッと迫ってくる。だんだん、通学路なんかはほとんど目印だけを見て、実のところほとんど見ないで通学できるようになるんですけど、大人になるっていうのは見なくなるっていうことでもありますよね。大学の映研で初めてカメラを三脚に据えて撮った映像を見たとき、何か覚えがある気がして、のちのち記憶を探ると、ああ、あれだな、と思って。つまり身体的文脈を欠いた状態で、ただ視覚だけがあるという。
三浦:公民館の中を見回すところとか、言われてみると本当にただたんに見るって感じだよね。
濱口:彼女の目の大きさとか、何か造形的なものが「見ている」ことを強調する部分もあるのかもしれないですけど、ちょっと30秒見てくださいって言ったら、30秒ただ見てるという感じは西川さんには強くありましたね。
三宅:見るっていう彼女のアクションで2つ聞きたいんですけど、ひとつは夢と思われるシークエンスの中で、目の上に手をかざして見ている、それを正面から撮ったショットがありましたよね。あのアクションは一体どう生まれたんでしょうか。
濱口:このアクションもね、やっぱり偶然生まれたものなんですよ。これをどのタイミングで撮ってるかというと、鹿の水場について話している場面で、水場を引きで写してから、1回返して大ロングの二人がいる。それに対する寄りとして元々撮ったショットなんです。ただそのときは照り返しか何かが眩しくて彼女が目を開けて長いあいだ見てられないということがあった。そこで大人たちはあの手この手でカメラを見させようとするんです。でもまあ、「何も言わないで」って言って、何もせずにしばらくいたら、やがて彼女がああいう表情をし始めて、それが撮れた。彼女の中で何が起きているかはわからない。でも、彼女は両手で陰をつくりながら、自分で「見よう」とした。その瞬間が映っているんだと思います。このアクションや表情はすごく印象に残って、その後、実際の鹿が遠目から撮れたときに、あ、これはあのショットと切り返せるな、と思って、現在の夢のシークエンスになったという。
三宅:なるほど、面白いですね。
濱口:これはビクトル・エリセの話なんですが、『ミツバチのささやき』(1973)のアナがベッドでイサベルと話してる場面、ここ実はエリセと話をしてるアナの表情はいわばドキュメンタリー的に、エリセと話しているときのものなんだそうです。結果としてやっぱりあの映画のアナは演じているというより、ただそこにいる。そのことが、あの映画を時間を超えたものにしているとも思うんです。その域ではもちろんないけど、今回はただ、そういう「そこで本当に起きた」っていうものがたくさん撮れたな、と。
三浦:ああ、「花」は「アナ」から来てるんですか。
濱口:『ミツバチのささやき』のことは、リサーチをしてるときから頭にありました。終盤には真似て発想したショットもありますし。それと娘の名前を考える作業は全く別のものではあるんですけど、「花」という名前をこの少女にふさわしい名前とあるとき感じるわけです。それが「アナ」から来てるかどうかは正直自分でもわからないんですけど、この映画が『ミツバチのささやき』の影響下にあるのは確かなので、さすがにその類似は恥ずかしいという気持ちもあった。けど、でもやっぱり名前って思いついちゃうと変えられないんですよ……。明らかに指摘されそうだなと思いながらも、最終的にはまあ、いいかと。
三宅:さらに彼女に関連してもうひとつ、鳥からパンダウンするワンカットがあるでしょう。あれって途中つなぎ目ありますよね、さすがに。
濱口:いやいや。
三宅:ないの?! なんであんなの撮れるの……。ロングショットのフレーム左上にいるギリギリの鳥って、合成で入れてるんじゃないの? には「鳥」って書いてあるんですか。
濱口:このショットはたまたまですね。シナリオに「鳥を追いかけてる」とは書いたけど。
三宅:どう撮るかはその場で撮影の北川(喜雄)さんと考えた?
濱口:そうですね。レンズを決めて、来た鳥をパンダウンは北川さんのファインプレーですね。もう追いかけるだけ。鳥はつねに飛んでるわけではなくて、たまに飛ぶからその辺にいるはいるけど、助監督の諏訪さんという方に「ちょっと鳥を追い立ててください」と伝えてお願いしたら、もうぜんぜん帰ってこない。
三宅:大変な手間ですよ。それを試すことができるスケジュールが取られていること自体がいいのと、あとは飛んでいる鳥が撮れる確率は極めて低いという場面に子役がいるという、なんだかいい撮影隊だなという感じがして、羨ましいショットだった。さすがに合成だろうと思ったんだけどな。
濱口:すごく遠くまで行ってもらって、たまたま鳥が飛んだものを捉えたのがあれなんです。彼女が飽きたらそこで終わったと思うんですけど、飽きずに追いかけてくれました。ここは別の偶然ともつながっていて、ここの撮影中に鳥を追い立てに行ってた諏訪さんから「ちょっと変なものを発見しました」と言われて、そうしたら鹿の骨があったんです。急遽脚本に組み込んで、これも撮りましょうということになりました。
三宅:あと、東京の芸能事務所の場面も、あれまたほんと奇妙なCGが使われてますよね。やあ、びっくりしました。
濱口:ああ、よくぞ(笑)。モニター画面のヨリでヒラッと手前を横切るあいつですね。今回は「劇映画におけるカメラとは何ぞや」という思いが自分のなかで強まってたから、色々変なことをやりました(笑)。
■冬のブロンソン──キャスティングとセリフ
三浦:今回は一気呵成にシナリオを書いて、そのままキャストも決まっていったという話で、プロのスターも出ていない。でもことごとくキャスティングが面白い。大美賀均さんはすでにいろんな人が称賛されていて、僕もすごいよかったと思います。なんだこの男は? という驚きが最後の最後まで絶えない。衣装もいいんですけど、あれは大美賀さんの私物ですか?
濱口:私物です。それこそシナハン中からずっとあのスタイルだった。彼、お洒落なんですよ。それこそ花を見つけるショットとか、シナハンをやっているときに彼が黒い点か穴みたいなものとして動いているのを見て、こういうショットが撮れるんじゃないか、これはいいかもしれんぞと思いついたわけです。
三宅:そのすごいわくわくする気持ちはよくわかります。
濱口:なので、すみませんけどシナハンの時と同じ服を着てきてもらっていいですか、洗濯もあんまりする時間ないと思うし、格闘とかもあるんですけど……みたいにお願いをしました。最終的には全く同じじゃないんだけど、似たものを用意してもらって格闘シーンも撮ってます。
三宅:他の方の衣装はどう決められたんですか。偶然なのか皆さん見事に色が分かれているというか。目立つのはやっぱり赤系だと思いますが。
濱口:まずその中心として巧の黒、もしくはそれを脱いだときのちょっと濃いめの青があり、次に決めたのは娘の花。これは本当に石橋さんの地元のご友人のさらにご友人で、INSPIRE(インスパイア)っていうブランドをやっている方がいて協力していただきました。何かすごく熱心に協力したいと言ってくださって、「じゃあ、子ども用の青いダウンジャケットとかどうでしょうか。もしかしたら使わないこともあるかも知れませんが、それでもよければ……」って言ったら、作っていただけて。それが本当に素晴らしい感じの青色だったので、これは是非使わせてください、となりました。
三浦:映画用なんですね。ブランドが特定できると身近な感じがしますもんね。
濱口:そうです。そのままそれを使っています。小坂さんが着ているオレンジのダウンは、結局まああの場における高橋の異質さ、空気の読まなさみたいなものの表現として、ですよね。そして、巧と一緒に花を探す際にも、巧とは対称的な目を引く色が欲しい、ということでオレンジにしました。これは、格闘もあるからということでこちらで二番、用意しました。
三宅:衣装クレジットってあるんでしたっけ。
濱口:衣装部はいません。演出部の管理ですね。ほとんどは演者自身の私物を中心にしていて、あるもので、映画に合うものを選んでお借りしました。立樹っていう血の気の多い若者のドカジャンなんかは、スタッフの知人のものを借りています。これは、彼がすごい細い体格なので、高橋と対峙する上で、それを誤魔化す意味もありつつ。
三宅:なんで花さんは青なんですか。何か他の色を避けていった結果という気もするんだけど。
濱口:うーん。まあ、ものすごく意図があったわけではなくって、おっしゃる通りの消去法かなあ。やっぱり赤や黄色だと強すぎるというのがありますよね。だからその色を避けつつ、引きでも目立つ視認ができるような色を考えると、オレンジのような色合いは高橋に振ったときに、やっぱり父親との関係性的にも、明るい青かなっていう感じでした。
三浦:大美賀さんの体言止め強めのあのセリフの言い方は、今までの濱口さんの映画でもさすがになかったですよね。素人俳優であるにもかかわらず、ものすごくフィクション度が高い。森の賢人というか、僕が最初に思ったのが、デューター・ミューラーくんっていう『キャプテン翼』に出てくるドイツの幻のゴールキーパーみたいだなと。山岳地帯からとつぜん降りてきたという設定の少年でして、幻(まぼろし)度が高い。
三宅:ほんと三浦さん、いろんな喩えが「少年ジャンプ」から出てくる(笑)。すごい。
三浦:(笑)。それぐらい大胆ですごい人になっている。
三宅:ものすごく難しいセリフがいくつもある。たとえば「俺は、便利屋、この町の」。倒置法で書かれていて、かつそのまま言うわけですよね。これ自分も家で真似してみたんですけど、めちゃ難しかった。正気では言えない。だって、「失礼ですがご職業は」って聞かれて、「俺は、映画監督、日本の」なんて言えない(笑)。でもそれを大美賀さんは言えている。ここでは身振りが3分割されてるんですよね。「俺は」で手元の名刺に目を落としていて、「便利屋」で相手の顔をみる、そして去り際の背中で「この町の」と。この身振りというかアクション、仕草は、濱口さんが作られたものなのか、それとも大美賀さんが発見された体の動きなのか聞きたい。
濱口:本当によく見ていらっしゃる。身振りの指示はほとんどしてないので、これは演技本番で生まれたものです。後で大美賀さんに聞いたら、なんかこのセリフ、やっぱり恥ずかしかったみたいです。めっちゃ難易度が高かったと。
三宅:ですよね。
濱口:視認できるかどうかはわからないですけど、あの場面では「この町の」っていう、決めのセリフを言うとき金髪の鳥井さんとほのかに笑い合ってるんですよ。二人はどちらも元々は助監督で、その立場で他の現場で会っていたそうで。で、これ撮影始まって4日目なんですよ。イコール大美賀さんが演じ始めてまだ4日目。だから、どこかで大美賀さんもフィクション世界の中でそのセリフを言うためのよすがとして、旧知の鳥井さんに助けを求めるところもあったんではないかと想像します。鳥井さんに対して「僕、こんなことしちゃってますっ」ていうような恥じらいが込められているのかな、と。彼の分割されている身振りというのも、彼の恥ずかしさみたいなものと対応しているのでは。
三宅:なるほど。鳥井さんがニヤッと笑うのって、役として「こいつはヤバいやつだぜ」という不敵な笑みなのか、「いやいや大美賀くん、言っちゃったねえ」っていう堪えきれない本人の笑いなのか、ぶっちゃけどっちかわからなかったですね。
濱口:そうそう。鳥井さんのほうはけっこう積極的に演じたい人だったんですよ。だから僕も、演技のときに漏れてしまう失笑みたいなものなのか、もうちょっと役に入り込んでいるがゆえの笑いなのかは、わからない。ただ、真実がどうであれ、結果としてこの二人の間には通じ合いがあって、街から来た二人より濃い関係である、という表現になっていると思ったので、OKとして使っています。大美賀さんに用意したセリフは、100で発されてしまうとチャールズ・ブロンソンみたいな感じになる。それが大美賀さんの生来の、そこそこ内向的なところもあるキャラクターみたいなものと相互作用して、70とか80ぐらいの割合で言われているような感じになっていて。そのことによってかえってキャラクターが丸まるというか、ちょっと可愛らしくなるという印象を持ってます。そのことで映画を救ってもらってる部分もあるんじゃないかな、と。
三浦:大美賀さんがブロンソンっていうのは、パンフレットの中で石橋さんも言っていましたね。あらかじめ決まっていたイメージなんですか。
濱口:いやいや、そんな明確では。ただ、シナハン中に寡黙に薪割りとかしてる姿を見たら、段々そんなイメージになった気がしますね。チェーンソーで木を切っている姿をあの景色で見て、あ、こんなハードボイルドに映る人なのか、と撮りながら思ったり。
三宅:冬のブロンソン。
濱口:ええ。あの薪割りの一連は本当に堂々としていますね。本人は本当にドキドキしながらやっていたみたいなんですが、自信がないなかでもやるべき行為があって、それをしているうちにだんだんと立ち方を覚えていくところがあったんじゃないかと。ちゃんとそこにいられる、ちゃんとそこに立てるという。
三宅:いやあ、それにしてもあのセリフは難しい。本読みの時点で彼は恥じらいを感じているものなんですか。
濱口:本読み中はむしろ、そんなに恥じらいはないんです。もちろん堂々と発声する、みたいなことはないんだけど、こっちもそれを求めているわけではない。本当にただ繰り返し文字面を読むだけなので。そこにいるみんなが一斉に無機質に読んでいるということ自体、異常な空間でもあるから、そんなに彼一人が恥ずかしさを感じるということはなかったように感じています。でも同じことを普通に演じている人たちの中でやらなければいけないというとき、彼が普段持っている人との距離感が、恥ずかしさとして立ち現れたんじゃないですかね。
三浦:確かにブロンソン100を70に抑えたことによる柔らかさっていうのはすごく感じましたね。渋谷さんが「ごめんなさい」って言ったあとに大美賀さんが鸚鵡返しに言う「ごめんなさい」とかニュアンス豊かだし、その幅がすごく魅力的。最初は好ましい意味でちょっとエキセントリックかなって思ったんですけれど。でも基本的に巧はめっちゃ賢人ですよね。『ドライブ・マイ・カー』でいえば三浦透子さんの演じるみさきがそうだったように、自分の最適解を瞬時に出して、余計なことは一言も言わない。だから見ていてすごく気持ちがいい。知性の人なのに、なぜか忘れっぽいんですが。
三宅:忘れっぽいのに、「もう1回やろう」と言う。貯水槽についてまたゼロから説明しなきゃ(笑)。
濱口:きっと次はもう忘れてるんですよ。だから最初から、みたいな(笑)。実際は、記憶喪失というより、本当に物忘れっていうぐらいのことですけども。
三浦:三浦(博之)さんが「巧さん忘れすぎですよ」って遠くで言うあの一言で、ああそうなんだって。
三宅:三浦さんは前にも増してまたよくなりましたね。すごいと思う。何度見ても惚れ惚れしてしまうもん。ウルヴァリンみたいだった。
濱口:(笑)。あの二人が水運んでいる場面の撮影は初日なんですが、このまま別の話を展開したいというような思いに駆られました。こいつらベスト・バディだろうっていう。
三宅:そうですよね。僕、続編あると思ってますもん。うどん屋の話(笑)。
三浦:三浦さんはただそこにいるだけなのにSF感が醸されますよね。巨大な陰謀と密かにずっと戦っているかのような。しかも俳優専業の方ではないんですよね。
濱口:そう、あの方は別の生業を持ってるんです。でも本当に映画の現場が好きになったようなので。それこそ録音助手で塩田(明彦)組の現場にも行ってますし、野原(位)組の『三度目の、正直』(2021)ではスタッフと俳優を両方やっている。『三度目の、正直』では多くの人がスタッフと俳優を兼ねてやっていたんですが、それが『悪は存在しない』制作のヒントにもなっていますね。大美賀さんや三浦さんもですが、小坂さんとかもスタッフ的な動きをかなりしている。花を見つけるロングテイクは、小坂さんの運転でカメラ車を動かしていますね。これも、小坂さんの運転が上手くて本当に助かりました。
■バランスの問題――討論会の撮り方について
三宅:討論会の場面はどうやって座る位置決めたんでしょうか。大美賀さんが自分の位置からなんとなく決まっていったとはすでにお話しされていましたが(https://www.nobodymag.com/journal/archives/2024/0513_1559.php)、やっぱり見事だなと。2カメですよね? エキストラの方はどれくらい参加していたのか。メインの方を含めてそこでの雰囲気はどうだったんでしょうか。
濱口:飯岡幸子さんにも来ていただいての2カメ体制です。セリフがはっきりある役者が6人、東京から来てもらって主要人物たちの周りに座って雰囲気を作る方が7、8人、さらに30人ぐらいが現地の方たちですね。40人強くらいになります。
三宅:大げさでもなく、むっつりしてるわけでもなく、みなさん本当にその場にいるような佇まいで、いったいどうやったんでしょう。必要な顔を選ぶなんてことは現実的になかなかできないと思うんですが、みなさんいい顔立ちだなと。
濱口:それはよかった。東京から来ていただいた方はもちろん選んでいますけど、現地で参加いただいた方は、いわゆる顔を選ぶということは全然していません。この映画の演出部は遠藤さんと諏訪さんの二人体制だったんですが、ここでは諏訪さんに役のついていない30人分ぐらいの人物設定を書いてくださいとお願いしました。住民役の年齢と性別をまとめた表に、一人ひとりに3、4行で「どういう経緯で説明会の場にいるのか、グランピングのプロジェクトに対してどういう心持ちでいるのか」ということを書いてもらっています。都会から人が来てくれて嬉しいのか、とんでもないことだと思っているのか、ただちょっと話を聞きに来ただけなのか、みたいな。それが一人ひとりに対して記してあります。
三宅:紙で配られたんですか。
濱口:そうです、全員に配ってもらってます。この作成はほかに仕事もある中、本当に大変だったらしいですけど、自分の仕事の成果が確かに住民役の方たちの表情に反映されているのを見て、嬉しそうでした。ありがとうございます、という感じですね。当日は撮影直前までセリフのある人たちはひたすら本読みをして、エキストラ無しでリハーサルみたいなものを1回だけやって、流れを確認して、現地の方が入られたらその段階でのカメラを回し始めました。そういう意味で新鮮なリアクションというのも存在したと思うんですけど、この場面は17、8分の場面を全体で10回ほど通しでやってもらっていまして、新鮮さもだんだんだんだん失われていきますから、単にそういうものを狙ったというわけでもないです。
三浦:この場面の撮影は1日で?
濱口:2日ですね。この説明会、場ができあがっていく過程としてとても良かったんですよ。住民役の方々が、この人たちが次はどういう演技をするのか、どこか舞台の観客みたいな感じでいてくれているように感じました。やりすぎることはないし、無理に驚いたりもしない。今まで撮ったエキストラの人の出演場面の中でもすごく安心して撮れる部類のものでしたね。
三宅:話を聞くという行為を回数を重ねていく上で、集中力をキープし続けるだとか、テイクによって違う動きになっちゃうみたいな、難しいこともあると思うんですが、技術的な面で映画の都合として気にしてほしいルールみたいなものは事前に伝えたんでしょうか。
濱口:いや、基本一切言わないです。それはセリフのある俳優も同じですが、さすがに座る位置が違うとかは困るんですけど、その位置にいてさえくれれば気にしない。もし万一動きが繋がらないとしても編集上逃げることができるように撮ってあるので、俳優がこういうことをしなきゃいけないとプレッシャーを感じて、そこに不要な意図が映ってしまうより、ただそのとき感じたように演じてもらえるようにとは考えています。
三宅:濱口さんは撮影現場で台本はつねに手に持って開いているんですか。
濱口:あんまり開かないですね。今回は小規模体制だったので、脚本を製本しておらず、ペラ紙しかなかったから、畳んで尻ポケットに入れておくぐらい。今までの映画だと大体のシーンがセリフでできているわけで、本読みを一緒に何十回とやっていればやっぱりある程度覚えるんで、そんなに開く必要がない。「このセリフでこうして欲しい」みたいな指示を人と共有するときに開くことはあったけど、基本的にはそんなに開かない。そしてセリフがなければ、尚更開く必要がないということも今回わかりましたね(笑)。
三浦:パンフレットで北川さんが「濱口さんはカット割りも頭に大体入っている人」だって語っているんですが、今作は偶然を使って撮影を変える余地もあったわけですよね。それはつまり想定していたカット割りを変えていくということを意味するんでしょうか?
濱口:カット割りについては……ケース・バイ・ケースとしか言えないことなんですけど、複雑な場面であれば、いちおうスタッフと事前に共有している仮のカット割りはあります。現場到着して、準備がスムーズなものであるのが望ましいので、最初に何を撮るかは共有していることが多いと思います。だけど、そんなにかっちりとは決まってないです。たとえばこの説明会になると極度に複雑なので、事前にカット割りを決めるのはまず不可能で、決めていたのはカメラの配置だけです。それが大体20近くあるから、これを段々撮っていこう、というのが2日間の大方向です。この場面以外だと今回はカット数というか、ポジション数そのものが多くなかったので、「だいたいここから撮ります」というくらいのことは言ってありますが、撮りながら「これが撮れたならあれ要らない」とか「これがこう撮れたなら、あれはああ撮っておくか」みたいな判断がされていきます。
そういう点では、ある程度事前に想定しつつも、結構その場で変わっていく現場でした。そういう指示がその場その場で出るから、こっちがカット割りを把握しているように見えているってことだと思うんですよね。たぶん北川さん自身はあまりカット割りに頓着していない(笑)。それ自体が彼の能力です。彼はむしろ目の前のことに集中する力がものすごくあって、「あれ、こう撮るって言ってなかった?」みたいなことは言わないから、その点で多分、自分のやり方と相性はすごくいいな、と思っています。
三浦:北川さんは「自分にはイニシアティヴがない」みたいなことを言おうとしていたように思います。そんな中で討論会はアクションつなぎがけっこう印象に残ったんですよね。最前列の金髪の坂本が怒って立ち上がったとき、その後ろに座っていた巧が、彼の首のところを引っ張って座らせ、代わりにそのまま自分が立つところも見事な動きだし、あと、マイクを手渡すのもそうで、見ていて気持ちがいい。アクションつなぎって、気にするとフィクションっぽくなる、映画を見ているという気持ちになる。それがとてもよかったように思ったんですけど、こういうことは狙ったわけではない?
濱口:いや、狙ってもいるんですよ。三浦さんがおっしゃるようにアクションつなぎこそフィクション映画の醍醐味なので、できるだけアクションつなぎがしたいと思っているところもあります。なので、アクションの瞬間はつなぎやすいように、できるだけリフレームしないように、撮影者には伝えています。とは言え、細かいカット割りは撮影者にはわからない状態で、立ち上がれば追いたくなるのが人情だし、大変だと思うんですけど。自分が近くにいるときは、ちょっと囁いたりしつつ。ともあれ、細かいつながりは一切気にしないというのがまず大前提です。理由は、ここでこのアクションをしなきゃと思うと、俳優の集中力がそっちに行ってしまうので。
大まかな動線、マイクを渡しに行くとかそういうのはやっぱり決めてます。でも水を飲むタイミングなんかは全く指定していないし、それは小坂さんが自分のタイミングでやっています。なのに水を飲むアクションがつながるのは、ここではセリフを発している菊池さんの口が映っていないからですね。本当は違うセリフのタイミングでやっている動作を、編集上はそういうふうに見せています。巧が立樹を引き戻すアクションのところは、テイク1のヒキ画がとてもよく撮れていたので、それがアクションつなぎで行けるように、2テイクめ以降を、ヨリめの画をどこか、良い演技でおさえられることを願ってカメラを置く、っていう感じです。
三宅:2カメって、僕はやったことないんで置き方を知りたいんですけど、考え方は大きく分けると2パターンと思うんですよ。話者と聞き手を同時に撮るのか、あるいは話者に対して別サイズや別角度で撮るのか。それはブロックごとに違うのか。どう整理してるんですか?
濱口:これはやっぱり言葉で説明は難しいけれど、今のお話なら挟んで撮るんじゃなくて同方向で撮ります。つまりアクション/リアクションを撮るんじゃなくて、基本的には同方向。なぜなら照明が違うから。この討論会なら、高橋と黛が座っている壇上と、住民側は背負っている光が全然違う。そこは照明で調整をしないといけないので、同方向で撮っているわけです。
2カメ体制の問題って、やっぱり「Aカメ」「Bカメ」という判断が存在してしまうことだと思うんですよ。つまり1カメ体制だったら当然ここにカメラが入るよねっていうことが、複数のカメラが干渉することで、Bカメがベストではない位置に置かれてしまうことがある。だから今回の撮影では基本的にはどちらのカメラもそれぞれの「Aカメ」ポジションに置く。話の中で人物の関係性、要するに誰と誰が話しているかという関係性は変わっていくわけですから、ある人物がある別の人物と喋っているところを捉えるAカメ的なポジションと、その人がまた別の人と話しているところを捉えるAカメ的なポジションと、そういう意味で2つのAカメを設定する。そうすると、もちろんそのポジションからではその場で起きていることを何も撮れない時間帯も生まれるわけです。そういうときにはもう適当に振ってくださいと伝えていました。ただ、それが意外と面白いものが撮れていたりもするんです。怒りを高めていく立樹の横顔とかは、もともとその顔を撮るつもりじゃないポジションから撮ったもののほうがむしろ良くて使ったりしてます。
三宅:そういう遊びが途中で生まれることもあるのか。
濱口:そう。まあ、結構ライブ中継に近い感覚がありますね。北川さんが使っているカメラについては、半分ぐらいは簡単なドリーに載せていて、自分も一緒にフレームを見て「この会話が終わったら次はこっちのポジションね」と伝えて、ポジションを移動させられるようにしていました。
三宅:へえ。やってみないとわからないけど、なるほど。やってみたくなる。
濱口:結局2つのカメラを同時に見るとか、2つの視点を同時に持つっていうのは、単純に不可能なんですよね。だから今回のような場面に何をやっているかというと、見るということではなく、ひたすら声を聞くわけです。その声の質がOKであれば、優秀なカメラマンがそれをおさえてくれているはずだから、基本的にOKなはず。20分撮影したものを現場で確認する時間は我々にはないので、声の質がOKで、然るべきポジションにカメラが撮られていたら、そこはもう撮る必要はないと判断して進めていくんですよ。
三浦:10テイクという数はどうして必要だったのでしょうか。
三宅:単純にカメラが20ポジションあるわけですよね。
濱口:あります。ごくシンプルに、この場面にはそれだけのテイク数やポジション数が必要だったということです。実際はドリーに載せてたりするので、20ポジション以上が存在してます。10テイク必要だったのは、カメラマンから、ここが上手く撮れなかった、って言われることもあるし、撮れていてもセリフがつっかえてしまったっていう事態がやっぱりあって、よく撮れていなければ以降のテイクで撮り直せるかをトライしていくからですね。説話としてこのくらいの複雑さのシーンの場合、編集可能なOKテイクが揃うのには、今の自分の演出だとそれぐらい必要だったいうことです。
三宅:事前に図面なりを描いてその大体の数は割り出すんですか。
濱口:図面は一応、説明会の場面は書いていますね。ただ、今言ったように変わっていくから、かえって混乱のもとにもなるので、難しいなあといつも思う。ただ、今回のチームは変わっていくということが前提にもなっていたから、その辺は受け入れてもらえていたような。
三宅:ちなみに役者さんたちには、回数こそ伝えてないと思うんですが、2日間やる、日が暮れたら終わりっていうのがゴールだから、そこが心の支えになるわけですね。
三浦:でも、リアクションが新鮮なのに驚かされます。一般には、何回も繰り返すことで疲れたり摩耗してくるものものかなと思いますが、たとえば渋谷采郁さんの顔の反応はいちいちすばらしいですよね。まるで炭鉱のカナリアというか、周囲の不穏な空気が敏感に顔に反映されて、ずっとスリリングです。ほかのみなさんもシーンを通しいい顔でしたけれど、そんなにリピートできるものですか?
濱口:これは不思議なもので、ある程度保たれてたという気がします。まず、渋谷さんに関しては「聞く力」がある人だってことだと思います。注意深く聞けば、1回1回演技のニュアンスは違いますし、それに反応しているんだとは思います。演じる人たちに1回ごとに演技を変えてよいことは伝えていました。ただ、無理に変える必要は一切なくて、その場で本当に感じていないことはやらなくていいし、感じたらそれを表現していいと伝えていました。
撮影前の本読みの作業中に解釈は一切しませんが、初読のときとは全く違う読み方を本読みをするうちに必ず発見しているとも思うんです。そういうそのテキストの多義性が本読みを通じて、身体に保存される。その「ああも言えるし、こうも言える」っていう可能性を、その都度その都度試しているっていう感じが多分ある。それはすごく些細なアプローチの変化なんですけど。あるいはさっき言ったようにNG的な瞬間もあるんですよね、つっかえちゃうとか。でもそのときに、それを何か盛り返そうとする力とかが働いたりすると、全体として揺らぎが出てくる。それは舞台での表現と近いと思うんですよね。そういうものを何度も見ることで、最初は本当に新鮮に驚いていたり、ときには過剰に演技してしまっていたものが、回数を重ねることで細かな差異に気づくようなモードに皆なっているんではないでしょうか。だから本読みを始めて以降は、何度テイクを重ねても、ちゃんと休みを取れば、悪いことにはあんまりならない印象はあります。
三宅:関係性が変わっていくのに応じてカメラポジションが変わっていくとき、結局は角度の問題なんでしょうか。
濱口:それはあると思います。説明会の場面は単純に言えば、3ブロックに分かれていて、説明するプレイモードの人たちと、巧たちのグループと、焚き火のことを言う山村崇子さん演じる住人ブロック。このどことも画面の中の誰かの視線を合わせて編集できるようにカメラを配置していました。そうすると関係性とか、その場の力関係の移り変わりが見えてくる。で、だんだん関係性の内側に入っていくようなイメージです。たとえば、高橋と黛の間にカメラを置くと、黛とはラインが合っているけど、高橋とは合ってない、みたいな編集が可能になる。イマジナリーラインを超えた編集も試したくて、それが可能なようにも撮ったんですけど、演技の具合とか、やっぱりイマジナリーラインが合っていると観客の負担なしに話が入り込んでくるっていうのがあって、結果的に編集としてはイマジナリーラインに沿ったものが中心になりました。
三宅:なるほど。
濱口:この場面は撮影の3日目と4日目、つまりかなり最初の段階で撮っていて、正直ライブパフォーマンス用の『GIFT』では使うことをあまり考えていなかったんです。単純に使えないだろうなと思っていた。ここは役者たちが自分のキャラクターを理解して、その先の撮影でカメラの前に立ちやすいようにということを主な目的として撮った、自分の言い方で言えばサブテキスト的な場面だったんです。でも、ここを10回ぐらいやったときの、大美賀さんの成長ぶりに普通に感動してしまって。「問題はバランスだ」というセリフ、あれは最後の方の、9テイクめなんですけど、これはすごいなと。4、5日前まで演じたことなんかなかった人がすごいところまで来たなと。
三宅:そういうことはおそらく『ハッピーアワー』以降長く研究されているとは思うんですけど、やっぱり人が変わると新たに感動するものですか。
濱口:いや、役者さんが役を掴み取るような瞬間は、いつも変わらぬ感動がありますね。ただ、今回はセリフの質がフィクション度が高めで、そこに人物が引っ張られるような感じなので『ハッピーアワー』よりもある種の負荷をかけていると思うんですよね。『ハッピーアワー』はすごく自然に積み上がってきたものの感じ。今回はすごくフィクション感が凝縮されたセリフに人物が頑張って応答することで、思いも寄らないものが出てくるような印象が強かったです。
三浦:「問題はバランスだ」にはしびれました。
三宅:「思い当たる節は」って言われて、「ありすぎる」とかね(笑)。
濱口:(笑)。なんか書いちゃったんですよね。
三宅:問題はバランスなんですよねえ。帽子を脱ぐんですよね、あそこでね。
濱口:それこそテイクの途中には帽子脱ぐのをしばらく忘れたりとかもあったりとかするんですけど、そうすると慌ててあとの方で脱いでいたりする。だから編集でつながらなかったりする(笑)。
三宅:そういう明らかにNGのことがあっても基本的には止めずに芝居を撮るわけですよね。でもそれって他のスタッフとも共有してるんですか。
濱口:なんか初期に明らかにNGっぽいことがあってスタッフが止めてしまったときに、「止めないでください」って言った気がするな。
三宅:そうですよね。スタッフの思いからすれば「止めないんだ、監督ちゃんと見てる?」って疑問に思うかもしれないケースは想像つくし、事前に言っておかないと慌てて誰かが止めちゃうときがあるかもなと。いや、僕も今度からそうしよう。絶対止めないからって言おう。「俺は、止めない、本番で」。
濱口:(笑)。少なくともカットかけるまでは演技を続けてください、というスタンスです。まあ、普通なんですけどね。
三浦:討論会の撮影で大美賀さんのすばらしさを再発見されとのことですけれども、ということは、濱口さんの引き出しに最初からこうすれば成立するだろうという森の賢人の完成像があったわけではないということですね。
濱口:いやいや、全然なかったです。この映画をちゃんと映画にしようと思えたのは、本当に大美賀さんがすごかったからですね。薪割りとかにものすごい顕著ですけど、彼に驚くことが多くて、それでここまでやってしまった。とはいえ本読みやいろいろな準備していたら、きっと何かが起きるだろうという目算もありました。それがなにかはわからないけど、そこで起きたことを撮ろうと。それこそ本当に目撃をしようと。そしたら、本当にそうなってくれたという感覚です。
三浦:当て書きではないわけですよね。「大美賀さんならこういうセリフを喋るに違いない」という発想とは違う。これをぶつけてみたら何か起きるかもという「ワン・プラス・ワン」の発想ですよね。ギャップありきの、実験。ちょっとギャグっぽくもあるけどミステリアスな奥行きが生まれている。
濱口:やっぱり上手い下手で言えば上手いはずはないってことが大前提です。こっちはそれをわかっている。で、何かが上手く行かなかったら、キャスティングしたこちらの責任という前提で対応する、と思って見てました。でも、大美賀さんの演技がむしろ、その役柄として成立してしまっていることが非常にたくさんあったし、彼自身がその役として確かに育っていった。だから、撮れた演技を起点に物事を進めていく感じでした。自分が対応する、というよりは追いかけるというか。「あ、これが巧という人なのか」ということを、一人の観客のように自分も発見していったという感じです。
■音のずり上げ/ずり下げ
三宅:今回の映画での音のずり上げ(画に対して音を先行させること)ずり下げ(画に対して音が遅れ、後ろの場面にこぼれること)について、いくつかの角度から聞いてみたい。初めから今回はそういうことをやるぞって思ってました? それともこれは編集中の発見?
濱口:少なくとも自分の中でこれはやっちゃいけない、という気持ちが前よりはなかった。それはやっぱりブレッソンだとか侯孝賢『悲情城市』(1989)でやられているのを見て、こんなふうにやっていいのかって思ったのが大きい。
三宅:今回の映画はそれがなかったら106分より長かったかもしれませんね。実際にやってみて、どうでしたか。
濱口:いや、まず上手く行くものだな、と。ただ、成立してしまう怖さみたいなものを今は感じてますかね。ずり上げずり下げって、今まで自分がどういう局面でやっていたかというと、どうしてもショットがうまくつながらないときなんですよ。もしくは観客の心の準備ができる前にシーンが変わってしまうとき。なので、観客に編集を受け入れてもらういい方法だとは思っていたけど、自分の中ではネガティブな印象のある手法だった。でもこれはかなり創造的に使える手法だということも理解できたので、使ってみています。
本来だったらあんまり関わりのないつながりそうにない映像同士を、音を使えば滑らかにつなぐことができてしまう。今回は、説明会の場面なんかは別として、ショット間の連結をかなり緩めて撮ってあります。実際ずり上げずり下げしなかったら上手くつながって見えないものも多かったと思います。これまではカメラをどう置くかということ、視線に対してどう置くかによって作っていたカット間の滑らかさみたいなものが、音で実現できてしまう。すごく手法としては広がった感覚もあるんだけど、やりすぎるとよくないということはすごく思っていて。どの場面も一応、具体的な画との関連性みたいなもの、何らかの必然性の感じられるようなずり上げずり下げの使い方というのは心がけてやっています。
三浦:「だるまさんが転んだ」のシーンとかも誰が見ても印象的なはずで、石橋さんの作った音響が先行していることで、SF映画のワンシーンに立ち会うような効果になっています。でも今回のずり上げずり下げはすごい特殊ケースというか。つまりこの映像がそもそも音楽家に対する問いかけというか、この映像に触発されて音楽を作ってねというオーダーでもあるじゃないですか。そこから触発されて、映像が呼び込まれる部分もある。この場面なんかはまさにそうですよね、音から喚起される映像というか。
濱口:そうですね。だからこそやっていてすごい不安なんですよ、剥き身の映像を見ている現場では。
三浦:たしかに編集以前の現実だけ見ると、なんだこれってなりそうな。
濱口:これ大丈夫かいなと思いながらやっているんですけど。でもそれこそ石橋さんの音楽、元々デモでもらっていたものがブラッシュアップされて上がってきて、「ミヨーン」みたいな音があるじゃないですか。あの音が編集をしていてハメたときに、何かある種の宇宙人感みたいなのが出たので、これで行こうと。
三浦:しかも記憶喪失気味の主人公が見ている世界ですからね。
三宅:大美賀さんが迎えに行く車の中ぐらいから「ミヨーン」でしょう。もうやばいですもんね、あの時点でね。
三浦:この光景も全部忘れ去られるような、不確かな何かに思えて不気味でした。
三宅:音が先行することで、次に何が来るのっていう目撃感がより高まるのかもな。そこに貢献しているのかなと思いました。
濱口:三宅くんはやります? 音のずり上げずり下げ。
三宅:僕はけっこう苦手というか、これまでは、ズバッと編集点毎に同時に変えることの方に神経を注いでいたかな。
濱口:なるほど。やっぱりちょっと麻薬的なんだよね。多用は危険っていう気はする。つなぎの基本は現場でカメラを置く場所を選ぶことにある、というのは忘れたくない。ただ、この方法があると思えば、今まで想像しなかったような場所にカメラを置けるようになるかもな、という気もする。音との関係は未だ、模索中。
三宅:映画の中で2度銃声が鳴りますよね。最初は自然音の中で鳴って、2度目は音楽の中で流れる。その銃声で音楽が切れるなんていう下品なことはしない。でも銃声をどう録るかっていう難しさってありません? 銃自体は画面に映らないわけで。撮影現場では銃声をスピーカーから出したりはしてないですよね。想像の何かのきっかけで、みんなに振り向いてもらっている。どんな音がはまるのかって怖くないですか。
濱口:現場では手で合図したかな。この音が自然なものにできるかは確かに怖かった。猟区があるんでもともと銃声が聞こえる地域ではあるんですよね。本当にビクッとするような。だからその生の音を録れたら一番よかったんですけど、結局録れなかった。あれは録音の松野さんが効果音のアーカイブから選んでます。そのビクッとする感じを表現しようとすると、嘘っぽくなったりもするから、松野さんも結構調整した上で、今の塩梅にしてくれていると思います。
三浦:2回目のときの高橋のセリフがまた本当にもう小憎らしい。「ああ銃声だ」って言って、黛が「銃声なんて聞いたことあるんですか?」って聞くと、「それ以外ないだろう」と。音で想像が焚き付けられるっていうのが映画全体のテーマだから、わざわざセリフに書かれているんだと思うんですが、これもラストにつながるのかなと思いました。
■霧について
三宅:ラストシーンの話をする前に技術的な面から確認したいことがあるんですが、ここで霧は焚いているんですか?
濱口:霧は引きが2ショットぐらいありますけど、これはどちらもリアルに霧が出たんですよ。どのショットも一応、煙も焚いていますけど、うちは人数も少ないし、あれぐらい広いフレームだと当然カバーできない。シナハンの時点でも霧が出たんですが、やっぱり霧に包まれるというのはすごい感覚で、こりゃすごいってなって。シナリオに「霧が出る」と書いちゃったんです(笑)。でもやっぱり出なくて、とはいえ霧が出ない日をもちろん無駄にすることはできないから、「ハチノス」という発煙筒で霧を焚いて寄りのショットを撮ったりとかはずっとやっていたんですが、非常に心許ない。それで3日ぐらい用意していた撮影の最終日の早朝、山のピンポイント霧予報みたいなもので30%ぐらいの低い確率だったんで諦めかけていたんですが、現場に行ったらモヤモヤと霧が出始めた。これは何だか、恐ろしい気持ちになりましたね。霧が出ていたのは30分もなかったので、それでヒキのショットをまず撮った。夕方のマジックアワーでも、前にも撮ったショットを、早朝の霧のショットにつながるように撮り直しています。撮りきれなかったヨリなどに対しては、実際の霧と風情が合うようにVFXのチームに霧感を調整してもらって、シーン全体はできてます。
三宅:早朝なんですね。夜の森を見上げるショットに、おそらく巧の息切れが入っている。あれはシナリオで発見したものなのか、編集の発見なのか。
濱口:霧の中に消えていくショット、あれはまさにその霧が実際に出たショットで、大美賀さんが画面奥に向かって本当に花役の西川さんを抱えて大美賀さんは走っていってるんですけど、彼からはどの時点で自分たちの姿が見えなくなるかがわかんない。だから林の中に入るまで、ずっと移動しなきゃいけなかった。彼は胸にワイヤレスマイクをつけているんですけど、心臓がちぎれそうになりながら奥へと走っている間の息切れ音というのが録れていた。これを聞いたときに、この必死さは実に切実に感じられたので、編集時に、最後のショットに重ねて加えています。まあ、鼻に指を当てたうえで、必死で走っているのだから、そこに希望を感じてもらいたいと思って。ただ、その歩みが止まってしまったりもするので、結局両義的なのですが。
■ラストシーンとタイトル、あるいは因果を超えて
三浦:ここから問題のラストシーンについて話しましょうか。
三宅:まず体感で言いますけど、1回目は「あれ、俺、今何か見逃した?」って思うほどの短さだった。じっと見ていたはずなんだけど、なにかカット見逃したかも、なんか考えちゃったかも、ちゃんと見なきゃ、みたいな。
三浦:たしかに矢継ぎ早にできごとが起きて、取り残される感がありますよね。省略もある。ラストシーンで花ちゃんと鹿のあいだに何があったのかは映されないから、これは誰も目撃していない。つまり決定的なものが見えないということが実際にあって、だからいろいろ考えさせられます。スリーパーホールドにも非常にびっくりするわけです。一瞬、巧は猪木ファンだったのかとか思ってしまいましたけど、でも、そういう「理由」とか因果の「因」らしきものが作品のそれまでにほぼ見当たらない。だからこそ衝撃的に思われるし、衝撃は衝撃として受け止めるほかない、とも思いつつ、でもこの衝撃の質についてもう少し、作品全体の構成を踏まえて言えることがあるのではないかと考えてきたんです。巧と高橋が、西部劇のガンマンのような緊迫状態で横並びになって、鹿たちと対峙しますよね。間に花ちゃんがいて。で、巧がことに及ぶ。ここのポイントは高橋の「想像」をシャットダウンしたことだったのではないかと思うんです。
なんで巧が高橋の「想像」を止めたのか、それがどんな効果を持つのかについては、前提が二つあって。一つには、この映画の冒頭から森は人の想像を触発し、それだけでなく、実際に出現させてしまうものとしてあった。森の映像から触発されるようにして音楽が生まれ、その音楽からまた触発されるようにして幻の親子が出現するっていうように映画は始まっている。ちょっと強い解釈をすれば、この森はソラリスなんだと。つまり人の想像を焚き付けるだけでなく、それを本当に具現化してしまう『惑星ソラリス』(1972)のソラリスとして、本作の森がある、というか、そんなふうに機能していると言えるのではないか。
それからもう一つ。この森には、そもそも何者かの視点というか主観が浸透していて、自由間接話法とでもいうような、とても不思議な混ざり方をしています。丘わさびとか、あるいは鹿の死体の視点ショットが不意に混入したかと思えば、それが客観的な視点とシームレスにつながったりして、一定しない。花ちゃんが夜に見る夢のヴィジョンと入り混じりもする。ちなみに、『ハッピーアワー』でも世界が突然、桜子というキャラクターの幻視であったかのような、唐突な場面つなぎがなされる箇所がありましたが、僕はそこも思い出しました。カメラマンが同じ北川さんだから、ちょっと共通する不思議さの印象を憶えたのかもしれません。画面はものすごく克明なのに、どこか幻めいている雰囲気なんです。ラストシーンでは、どんどん視野が暗くなり、靄もかかって、幻想の度合いが増し、すると実際、話題になっていた「半矢の鹿」が出現してしまう。さらには、誰も見つけられなかったはずの花ちゃんも現われている。
その前提の上で、なんで高橋の首を締めるのか、という話に戻ります。ちょっと飛躍めいた解釈なんですけれど、この森は誰かの想像を唐突に具現化する場所である、ということを、森の住人である巧はどこかで気づいていた。だから高橋の想像をシャットダウンした。ここで部外者の彼に危険な想像をさせるのは許されないことだと直感して、即座に遮断する。巧と花ちゃんは森に還り、そこで映画の物語も途切れる。一体このあとどうなるのか、という私たち観客の想像も、高橋の意識とともに寸断されて、最後におぼろげな森の映像だけが残される。……などということを考えてしまいました。自分が覚えたありえないような衝撃と余韻の質をなんとか言葉にしようとしてみたということでしかないんですけれど。
濱口:ありがとうございます。自分としては全部現実のことだと思って撮っているんですけど、三浦説、面白いですね。結局、自分もリサーチのときにあの森の中に入ってこういう物語を想像して具現化して、撮影したわけで。森にはそういう力があるのかもしれません。大学院のときに黒沢清さんの出した課題で『SOLARIS』(2007)を撮っているんですが、実際これはその後の自分にとっても、大事なモチーフなんですよね。タルコフスキーの『惑星ソラリス』のリメイクになるんですけど、何か、この惑星のこと、俺、わかるかもみたいなことを思った記憶があるんです。現実と想像の境目のなさが自分としては腑に落ちる、というか。『寝ても覚めても』(2018)なんかもそういう感覚の延長で撮っているような気がします。
話は飛躍するかも知れませんが、この映画を見た人で寓話っぽいとか、民話っぽいという感想があって、自分としては当初、結構意外な感じがあったんですよ。基本的には全部、リサーチのなかで現実にあるものを発見して撮っているんですよね。だから、実際に人に見てもらうまで、あまりこれが非現実的な話だとは思ってなかった。そういう反応が出てくることへの自分なりの解釈は、一つは、映画撮影っていうのが、そもそもそういうものだということ(笑)。現実の空間の一部を切り取ってしまうと、映像だけを見る人はその一部以外を想像するしかないわけですよね。当然、それは現実から遊離したものになる。そして、さっき音の話でも言ったように、この映画は普段の自分の作り方よりショット間の連結がゆるい。つまり、あの時空とこの時空が確かにつながっているっていう持続の感覚がより少ない。もちろんある程度の想像力の方向づけは全部のつなぎでしているつもりなんですけど、ショットのつなぎ目を通じて、いつもより、観客の想像力が制御のつかない形で、この映画体験のなかに入り込んでくるようになっているのかな、と思いました。
ただ民話っていうのは、相当飛躍を含んだ穴ぼこだらけの話で、でもそれは「暮らしの現実とつながっているがゆえに語り得ないような、切実な穴ぼこなのだ」ということを『うたうひと』(2013)で出てもらった民話研究者の小野和子さんに教えてもらいました。それ以来、そういう民話的な、「想像と現実の切実な接点」のようなものをフィクションで撮れないものか、という想いはベースとしてずっとあります。なので、もしかしたら今回初めて、そういうものが撮れたのかも知れないなと、三浦さんの解釈を聞きながら思いました。狙ったわけではまったくないのですけど。
三宅:ちなみに、最後はなんでフェードアウトなんですか。
濱口:言われてみれば。
三宅:今日見直して初めて気づいた。ああフェードアウトだったって。
濱口:音は本当に最後まで残してるんですよ、画面がなくなっても。あのラストの移動ショット自体もまた、偶然撮れたもんなんですよ。あれは懐中電灯の場面を撮ったあと、冒頭のショットを撮ったときと同じような軽トラ後部にカメラを載せたセッティングになっていたときに撮ったもので。そもそもは「アメリカの影(デイ・フォー・ナイト)」的にというか、絞りを絞って暗くした同アングルで終わらせる予定で、そのショットももう撮ってあったんです。それはそれで素敵な画だったんですけど、その懐中電灯の場面のときに月がすごくいい感じの朧に出ていて、その月に誘惑されたというか(笑)。急遽北川さんにカメラを上に向けてもらって、撮りました。アングルも微妙に異なるから対称性は崩れるんだけど、それはもう、こっちのショットだろう、と思うようなものが撮れた。で、最後になぜあそこで画の動きが止まるかといえば、身も蓋もない話ですけど、道が終わるからです。画としては、あの編集点が使えるリミットだったっていうことなんですけど。フェードアウトにしたのは、まあここはある種の情緒ってものでしょうね。そこでカットアウトだと、あまりに放り投げられたような気がするだろうな、と。フェードアウトで音だけにすることで、最終的に登場人物たちのことをより強く思ってもらって終われるんじゃないかって思ったから、音だけを最後まで残している、ような気がしますね。
三宅:どこかのインタビューで、「初めて映画というものを撮ったような気がする」っていう言葉があったと思うんです。それは濱口さんの口が滑ったのか本音なのかわからないんですけど、とても気になる言葉だったんですね。映画を完成しなくてもいい、映画じゃないつもりでやっていたにもかかわらず、「映画を初めて撮った」という言葉が出てきた。責任から自由になるということ、楽しく映画を撮れたということが、ああいったラストを撮ることにつながっている感じがしたんです。
濱口:これはたぶん、撮影後かクランクアップ直前くらいの高揚感で口が滑った(笑)。「お疲れ様でしたー、なんか初めて映画を撮ったような気がしますね」というふつうの会話の中の言葉が、どこかから漏れ伝わったってことなのかな。でもある面では、本当にそういう実感もあります。まず何より、楽しかった。自由に変わっていける環境のなかで撮れたからこそ、ああいうラストを選択できたし、いままでになく「動くもの」を撮れた。それが「映画」を撮ったという感覚にもつながってる。今回の映画は今まで以上に偶然ばかりでできています。これまでもそういうことはもちろんありましたが、今回の体制は小規模あるがゆえに、偶然を受け入れて変わっていける余地が非常に大きくあって、撮りながら次に撮るべきもの発見するようなところがあった。現場の最中で変わっていけたことが多かった。たとえば最初の方の話にあった後半の横移動の撮影について言えば、途中で姿が消えるというのもやっぱり偶然なんですよ。大美賀さんがつまずいちゃった。三宅くんの『密使と番人』(2017)もまさにそんな場面があったような気がしますけど、人が画面から外れたことでほどけた緊張感が、彼が画面に戻ることでまた回帰してくる、みたいなことが、もともと考えていた撮影よりはるかに緊張感のあるリズムをショットに与えてくれた。パンフレットにも書いたけど、そういう数々の偶然がなかったら自分はどうするつもりだったのかなと思います。でも、これこそが正しい映画の撮り方なのではないか、撮りながら、このように変わっていくべきものなのではないか、ということは強く感じた気がします。
だけど、仮に予算が10億円かかった作品で同じような冒険心を持てるかと言われたら、まったく心もとないですけど。
三宅:ただ濱口さんって人が悪いなあと思うのって(笑)、『悪は存在しない』というタイトルって、まあ見事に面倒な仕掛けだと思うんです。もし「濱口竜介の目撃」っていうタイトルだったら、ただたんにそういう映画として受け取られていたはずなんですよ。みんな「うわー目撃しちゃった!」って終われた。
濱口:イーストウッド以来の、『目撃』(笑)。
三宅:しかも映画の最後にわざわざもう1回そのタイトルを出すわけですから。そりゃ、みんな「目撃」後の人生を生きますよね。これはどういうことなんだ、と。あの目撃経験の意味や解釈について書かれたものを色々読みました。でも、「悪は存在しない」って言葉が「意味や解釈なんてものは存在しない」と言い換えるとして、この映画はそういう世界についてのものだと捉えると、目撃後の意味づけは全部、宙吊りにされる。理屈を超えている圧倒的な自然現象を前にした時の、まさにその感じが、濱口さんの映画に通底しているのかなということに今更気がつきました。先ほど聞かせていただいた「引越し」という子供にとって理不尽な経験もそうですし、あるいは東北記録三部作や『寝ても覚めても』、あるいはまだ見ぬ『FLOODS』のことまで繋げてみたくもなります。そして、今回の企画の出発である「自然」というお題に対して、風景として「グラマラス」みたいな意味づけをして消費したり、つまらない対立構造なんかに落としこんだりせずに、「自然を見る、自然に対峙するってどういうことだろう」とものすごく直球に考え抜かれて、映画の形で応えられたのではないか。
三浦:そうですねえ。想像の手前のできごとを「目撃」することにこそ力点があるというのは、三宅さんの言う通りで、説得されました。でもつい想像しちゃうんですよね(笑)。濱口さんに仕組まれているから。「悪」という大きな言葉を含むタイトルについて、これは石橋さんと組んだ『ドライブ・マイ・カー』との連続性かもしれないですけれど、スケールの大きな「原型的」物語が召喚されますよね。自然が壊される、という話で、誰もが身に覚えのある「ザ・ストーリー」と呼ぶべきものですよね。ポスターにも「これは、君の話になる──」とキャッチが書かれていて、やっぱり仕掛けている。僕はいいバランスだと思うんです。ある神話的な物語を想像するからこそ、想像を凌駕したり、断ち切ったりするできごとが、あるいは偶然が、観客を撃つ。だから、このタイトルは目撃を準備する効果も上げていると思うんです。それでいえば、どの時点でタイトルは決まったんでしょうか。それから「EVIL DOES NOT EXIST」の「NOT」が赤なのも気になります。赤にする前提でタイトルを考えられたのでしょうか。「NOT」がなければ「EVIL DOES EXIST」なわけで。
濱口:シナリオ書く前にシナハンをしていて、プロットの時点ですでにこのタイトルをつけているんですけれど、自然のなかに視覚的なモチーフを集めていたとき、冬の、生命の気配のない、音のしない林のなかにいて、そのタイミングでふっと思い浮かんだものです。
『悪は存在しない』というタイトルについて、これはそういう「自然そのものの言い換え」であるということはよく言っています。ただまあ、そもそも自然のなかで「ここに悪は存在しないなあ」とか思っちゃうのも、やっぱりSNS上のやり取りとかを見て「疲れるなあ」って気持ちを抱えていたからではないか、と思います。端的にそういう場では「誰が悪か」を決める手続きがすごく粗雑ですよね。そういうなかで『悪は存在しない』というタイトルをつける際に、これに対して最初にあるだろうなと予想した反応は「んなわけあるかいっ」っていうものです。「NOT」の効果で、存在を否認するっていうのは、その存在のほうがかえって強調される、活性化されちゃうわけですよね。つまり、どうしたって「そんなわけないだろ」とか「本当にそうか?」みたいな形で「悪」について考えちゃう。考えながら映画も見ちゃう。その点で、確かにいいタイトルつけたなとも、罪なタイトルだなとも思います。
ただそこに、それなりに自分としての切実さもおそらくあって、もうちょっと悪というものが吟味されはしないか、と。悪は確かにこの社会に存在するでしょう。自分も全くそう思います。しかし誰が悪かは、そんなに簡単に決められるものではない。誰にどの程度、責任があるかは構造を見ないとわからない。そして構造を見るには必ず相応の時間がかかる。おそらくはそういう時間をかけた、ものごとの吟味へと誘いかけるようなものとして放り込んだタイトルではあるとも思います。
三浦:英語で考えたんですか? それとも日本語で?
濱口:この英題になったのは最後の最後ですね。最初は英語タイトル表記する際は「THERE IS NO EVIL」ってしていたんですけど、字幕作成のときに、すでに同じタイトルの映画があって、しかも数年前にベルリンで受賞した有名な作品だったとわかるという〔モハマド・ラスロフ監督の2021年の映画、日本未公開〕。だからこっちの「EVIL DOES NOT EXIST」になったんですけど、結果的にデザイン上の文字のバランスもこちらがよかった気はしています。
言われてみれば映画の中で2回もタイトルを出したのは初めてかもしれない。一番最初の出し方はもう単純に、「フォルム」として出している、ていうところがあると思います。オープニング全体が、観客の映画を見る構えを作っていくものでもあって、それは完全には言語化できませんが「このタイトルの文字列を、この順番で、この配色で出す」ことで生まれてくる感覚をまず共有しようとしたってことです。要するにある種のビジュアルと音の絡み合いの映画なのだ、ということを宣言している。更には『悪は存在しない』という映画は「NOT」の映画なんだと、非常に強く印象づけるという意味合いもあったと思います。そう思うと確かに性格の悪いことをしているような気もします。どうしても解釈を促す、考えなくちゃいけないという方向で観客に映画を見させる。
でもまさに三宅くんが言ってくれたことにつながるんですけど、解釈というのはある種の「意味」を探る行為ですよね。考察というものがそこで生まれてくると思うんですけど、でも多くの場合そういうものの中では「原因」と「意味」がごっちゃになっているように見える。物事には「原因」があるから「結果」がある、これはある種の物理法則です。だからおそらく最後の行動にも「原因」というのは存在するでしょう。でも、そこに「意味」というものが存在するとは限らない。少し言い直すと、彼の行為にそもそも「意図」や「意識」があったとは限らない。少なくともこの映画の中にそれは描かれていない以上、それはわかるということは決してない。おそらくこの『悪は存在しない』というタイトルが最後に出てくるのはその宣言なのかも知れませんね。
■ゲームの外へ、ゴダールの方へ
三宅:タイトルデザインは明らかにジャン゠リュック・ゴダールですけども、じゃあ『悪は存在しない』にはゴダールのどの作品を横に並べればいいのか。ぼくは『さらば、愛の言葉よ』(2014)なのではないかと思っていたんです。
濱口:正直、ほとんど覚えてないんだよね。
三宅:映画の中身というより、すごいタイトルだなと思ってるんですよ。原題は「Adieu au Langage」。「Adieu」ってフランス語には「さようなら」と「こんにちは」の両方の意味があるらしいですけども、言語つまり意味・解釈にさようなら/こんにちは。人間ってのは、AとBがどういう関係にあるのか、その因果を勝手に解釈する能力を、幸か不幸か持っている。この映画はそういう人間の側にあるのか、あるいはそうではないのか、こんにちは/さようならの間に立たされるような緊張関係がある。『悪は存在しない』では、いわゆる因果を明かすようなショット連鎖で進んでいく場面もありつつ、ときにそこから自由になる喜びがある。そういうことのサスペンスフルな往復があって、面白かった。
濱口:いやあ、本当にちょっとこの映画について何か書いてほしい(笑)! 本当に三宅くんがここまで言ってくれたこと全部、そうだと思うんですよ。でもこういうふうには今まで誰も聞いてくれなかった。
三宅:僕の聞き方次第で答えてくれなくなりそうだけど、濱口さんはそういう因果を撮ることに対して、どういうモチベーションがあるんですか? 僕は、もちろん楽しいときはあるけれど、面倒でつまらないと思うときだとか、自由になりたいみたいなこともある。どうなんですか。
濱口:その点、そんなに面倒だなって思うことはあんまりない、というかなかったんですよ。因果を撮ることのほうが、非-因果を撮るより得意、という自覚もある。つまり会話って、結局は因果でできているわけじゃないですか。ある人のある言葉に対して、別のある人が応答の言葉を発する。そこには何がしか「原因」に対する「結果」として、言葉が連鎖していく。そう考えれば、結局自分はつねに因果を撮ってきたわけです。それは今後もやっていくだろうし、映画を見る側としても、そういう因果というものがあってくれる映画ってなんと見やすいことか、みたいな気持ちにもなります。
でも「因果疲れ」みたいなのは多分ちょっとあったんだと思うんですよね。『ドライブ・マイ・カー』が本当にありがたいことに世界中で見られて、多くの反応をもらったわけです。そのとき、やっぱり「喪失と再生」という大枠の物語について聞かれる。ただ率直な思いとして、そういう大きな構えがあることで、むしろ色々な実験ができたし、「喪失と再生」には単純に収まらないようなものまで含められたと考えていたんだけど、どうしても「喪失と再生」について語られたり聞かれたりすることが圧倒的に多かった。もちろんそれはそれで大真面目にやってはいるから聞かれたら真摯に対応もするんだけど、それ以外の要素、特に映画としての視聴覚的な細部とかに関してはごく少数の例外を除いて、世界のどこの国でもほとんど聞かれなかった。もう端的に言えば「あれ? 映画見てくれてますよね?」みたいな気持ちになるわけです。
今後もそういう状況をある程度受け止めながら生きていく覚悟は一応あるのだけど、でもこれは疲れるな、と。要するに、映画を自分が見出した因果で語りたがる人たちがいるとして、でもそれって正直自分にはほとんど関係がないわけですよね。それはその人たちの頭の中のことだから、自分に聞かれたとしても知らない、っていうことがあまりに多い。そういう人たちと、どうやったら関係を再構築できるだろうってことを、離れるってことも含めて、今回の映画では考えたわけです。そういう因果的な枠組みには必ずしも収まらないことを、『ドライブ・マイ・カー』以前も以後も、気付きにくいかもしれないけど私はやっているんです、こういう人間なんですと、わかりやすく示すことが今後の自分のためなのかなと。だから、単に因果では語れない映画に今回はなっている。もちろん今回の企画はそういう映画として始まっているわけではないんだけど、石橋さんから提案を受けたこのプロジェクトであれば、まさにそういうアプローチができそうだった。それがこのプロジェクトを引き受けた大きな理由ですね。
三宅:因果疲れの話を、そうやって前作との因果として語らせてしまって申し訳ないなと思ったんだけど(笑)。映画を見るときの、因果とは関係のない魅力、たとえばオリヴェイラが「美しい記号たちが一切の説明を欠いた光のなかで(…)スクリーンを溢れんばかりに満たす」みたいなもの、そういう喜びを撮るんだというモチベーションもあったんだろうなと。そんななか、今回の映画で参考映画としてビクトル・エリセが挙げられていたと思うんですが、それはなぜなんでしょう。
濱口:この映画のシナハンをしていたとき、主演の大美賀さんを見て、あ、この人なら、いけるんじゃないかっていうような心持ちがあった。この人はなんなんだということを考えてるうちに、彼が何かを探している映像というものが浮かんできた。そのとき、すんなりと『ミツバチのささやき』的なイメージが入り込んできたんです。幼い娘がいなくなってそれを探しているというイメージ。それは『ミツバチのささやき』だけじゃなくて『エル・スール』(1982)の父と娘のちょっと壊れた関係性みたいなものが直接的に下敷きとして入ってきた。そこから逃れたいとも思ったんですが、逃れられないようなかたちで入ってきちゃった。だからもう、まんまみたいな。ただ、まさに名前を出してもらったようなオリヴェイラとか、彼も敬愛するジョン・フォードのような、画面の中でのいろいろな光と影の蠢き、戯れ。物が動くことによって光も影も動くということ。そういう非-因果的なものをまず撮りたいということが発端にはありました。
『塵』(ハルトムート・ビトムスキー) トレイラー
三宅:(ハルトムート・)ビトムスキーの『塵』(2007)もそうした理由で事前の参照作品として挙げられるんですね。
濱口:そうです。
三浦:あれもフォードだよね。最後に。
濱口:ええ、『幌馬車』(1950)がまさに引用されている。もちろんエリセもフォードの映画を愛していて、画面のなかに影響は確実に入ってきていると思うんです。特に風景を撮るときとか。ただ、エリセのショットって、特に『ミツバチのささやき』とか『エル・スール』とかには、なんていうかケレン味の強いショットはほとんどないじゃないですか。特に人を撮るときは、その人の前にただカメラを置いただけみたいなショットを撮る。しかしそれが何か特別なものに変わっていっているような感覚がある。もちろん照明の当て方とかそういうこともある。けれど、これって究極的に説明できない。人物自体から出てくるようなものがある。エリセのショットの質って、エリセが撮ったから、としか言いようがないと感じているんですよ。アナ・トレントもまた「一切の説明を欠いて」ただ、そこにいたような気がする。究極的に、そういうものに憧れたということだと思います。
三宅:僕としてはラストの意味とかそういうことについては、せっかくこの映画が外に連れ出してくれる側面もあるからそれに乗って、ゲームの外に出ようと思っていて、そこで「目撃する」ということを強調したい、という考えに至った。そして、それによって何に気づかされたかっていうと、あのラストシーンには驚くのに、冒頭で薪を割った後に家の前まで歩いて言ってタバコを吸う長いショットだとか、あるいは高橋さんが薪を割って「やった! 割れた」っていう長いショットは、なぜ、了解可能のものとして僕は見ることができていたんだろう、ってことです。「一体これはなんだ!」と驚かず、勝手に納得してしまっていたのはなぜなんだと。あのラスト以外も、ラスト同様に驚いたってもいいはず。補助線としてゴダールを見る時の感覚を並べると、本屋で本を選んでいるだけのショットとか、空港で話しているだけで、「一体これはなんだ」とドキドキしたことも思い出しました。なんら不思議なことは映っていないのに、了解不可能なショットとしてゴロンと存在する。それと似たようなこととして、『悪は存在しない』のラストシーンは、それまで「うんわかるわかる」と普通に見えていたショットや笑っていた場面すらも、「あれ?」って了解不可能な世界としてもう一度問い直すきっかけになるような、そういうものとして受け止めてみたい、と思いました。映画を見るとはすなわち、何かを理解するとかいう以前に「まずはとにかく見るんだ」と、その根底に連れていかれる感じ。
濱口:ありがとうございます。言っていることが自分の体験としてよくわかるというか、僕自身もこの映画のショット一つひとつに、というかそのなかの出来事の一つひとつに対して驚いてるんですよね。たとえば薪割りも、大美賀さんがそんなに上手くなっているなんて思ってなかったのに、本当に薪割りが上手くなっていてまず驚いた。それだけでなくて、チェーンソーの木くずの散り方とか、雪のひとひらの舞い散り方とか、そういうものに驚いたりしていた。高橋の薪割りのシーンについても、テイク3ぐらいまでやっていて、最後もかなり「気持ちよく」割れたんですけど、最終的にテイク1をOKテイクにしています。テイク1の高橋は映画にある通り、3回の失敗パターンがどれも違って、アクシデント的で、いちいち驚けた。あと、このテイクを当初NGと考えた理由の一つは、巧がコート持ってくの忘れて取りに戻るっていう動きがあるんですけど、それは大美賀さんが素で忘れてるんですよね。編集時には、それってまさに巧っていうキャラクターじゃないか、と思えるようになるんですけど、それこそ撮影時も「あ、忘れた」っていう「目撃」の感覚があった。自分にとってそういう感覚を与えてくれたショットが並んでこの映画はできているんですよ。ただ当然、観客は自分ほどは驚かないとも思う。驚くとしたらやっぱり物語がベースになっていて、その因果から外れたものや、予想から外れたものみたいなものでしょう。でもやっぱり、できれば観客にも「目撃」してほしい。自分自身は今回、そこで起きていることにいちいち驚きながら撮っていて、それが「初めて映画を撮った」という感覚だったり、ゲームの外に出るっていう感覚につながっているんだと思います。これを多くの観客が楽しんでくれるようであれば、自分もすごく希望が持てるというか。
三宅:外に出してくれるような映画というか、非常に元気が出る映画だと思うんですよね。『悪は存在しない』の方向性がより先鋭化していくと、ジャン゠リュック・ゴダールの映画があるなと思いました。シナリオや物語に抗うというのとも全く別の形で、ショットとショットがいわば自由にぶつかって、出来事がそこにゴロンとある、みたいな驚き。
三浦:でも濱口さんはゴダール的な方向を目指しているんですかね。
三宅:『偶然と想像』シリーズが向かう先も楽しみにしているし、他にもいろんな先があると思うんですが、この先が知りたいですよね。
三浦:今回はぐっと自由な時空が開かれてしびれました。いわゆる本読みを経た演者たちの存在がカメラの前でいかにすばらしく輝くかということに関しては、これまでの作品でもずっと驚嘆していたんですけれど、本作はさらにその可能性を押し開いたという気がしました。制約の少ない環境があったのに加えて、石橋さんの音楽があったのはやっぱり大きいですよね。意味以前のできごととしての映像を石橋さんに問いとして投げかけて、具体的なセッションを起こすという構えで作られたと濱口さんは言っておられますけれど、だからこそ、突拍子もない本当にピュアな目撃が撮れている部分もあったわけですね。ゴダールに引きつけて言えば、今回の製作体制が「ワン・プラス・ワン」だったからという。
濱口:そうですね。「ワン・プラス・ワン」でした。すべては石橋さんと彼女の音楽のおかげっていう思いがあります。彼女の音楽がなければ、自分の撮影や編集もここまで自由にはなれなかった。石橋さんとの共通言語みたいな存在がゴダールだったので、実際ゴダールを意識しないわけもない制作ではあったんですが、やっぱり単純にゴダールのやってきたことに向かうって、自分には難しいだろうなとは思うんです。
ただ、自分が掴んだことで言えば、ゴダール的にやるというのは、ブレッソン的でもカサヴェテス的でも小津的でも成瀬的でも、エリセ的でもいいんですけど、結局は自分自身の生理というものに沿うということなんです。その人たちが示してくれているものって、そういうものなのではないかと。もちろん規模が小さければ、より自分の生理というのは反映させやすい。でもたとえ規模が大きくても、そういう体制は組めるかもしれない。どうにかして自分自身が容易には説明できないこの生理的な感覚とか判断を実現できる体制がつくれれば、それこそいつか「映画」というものを作れることもあるんじゃないかなと。
三宅:面白い。そうやって濱口さんが自分の生理で撮られたものが、映画を介して、僕自身の生理も呼び起こしてくれもするから、映画って不思議ですね。キャメラの機械的な目撃が、個々の生理を顕わにさせてくれるんですかね。
三浦:三宅さんは『無言日記』というまさに「Adieu au Langage」と表現すべき作品をつくられている。だから『悪は存在しない』の「目撃」の側面にすごく鮮明に反応できたんだなあ、と聞いていて思った。同じ映画を見たはずなのに、目から鱗が落ちた気がしました。
濱口:お二人に改めて御礼を言いたいです。ほかでは聞かれないことを色々聞いてもらって、言ってもらって、こうしてお話したことで、映画というのは本当にまず「ワン・プラス・ワン」なんだなということが腑に落ちてきています。この映画の驚きというのは大美賀さんとか石橋さんとか西川さんとかと自分、そしてその人たち同士のあらゆる関係から生じているわけです。自分ひとりのものではありえない。それが作品として完成すると、こうして一人ひとりの観客との関係になる。やりたいのは、それをちゃんと重ね合わせていくことかもしれないですね。今回の現場が幸せだなって思ったのは、やっぱりこの規模だとそういう「ワン・プラス・ワン」の関係性がつくりやすいからです。でも、より多くの人を巻きこんで、「ワン・プラス・ワン」が重ねていけるなら、それが一番よいとは思う。現在のホン・サンスみたいにずっと小規模な体制でいいのかって言われたら、なんかまた別の欲があることは否めない。
三宅:まだ人生半分にも達してないから大丈夫ですよ。
濱口:だといいけどね(笑)。ホン・サンスがまだ『気まぐれな唇』(2002)とか撮ってたぐらいの年齡だと思えば、もっとギラギラしてても許されるのかも。
三宅:オリヴェイラはまだ再開してない年齢ですからね。ぜひ別の欲、ギラギラ方向でどうなるかもみたい。でも本当に、どういう体制の現場にするかはその都度悩ましいですね。
2024年5月16日収録
構成:フィルムアート社
『悪は存在しない』
キャスト
大美賀均 西川玲
小坂竜士 渋谷采郁 菊池葉月 三浦博之 鳥井雄人
山村崇子 長尾卓磨 宮田佳典 / 田村泰二郎
監督・脚本:濱口竜介
音楽:石橋英子
プロデューサー:高田聡
撮影:北川喜雄
録音・整音:松野泉
美術:布部雅人
助監督:遠藤薫
制作:石井智久
編集:濱口竜介 山崎梓
カラリスト:小林亮太
企画:石橋英子 濱口竜介
エグゼクティブプロデューサー:原田将 徳山勝巳
2023年/106分/日本
第80回ヴェネチア国際映画祭 銀獅子賞(審査員グランプリ)受賞
製作:NEOPA / fictive
配給:Incline
配給協力:コピアポア・フィルム
配給:Incline
■公式サイト:https://aku.incline.life/
■X(Twitter):https://x.com/Incline_LLP