日本の小説やマンガを原作とする韓国映画には、いろいろある。有名なものとしては、土屋ガロ・嶺岸信明のマンガ『ルーズ戦記 オールドボーイ』を映画化して大ヒットした『オールド・ボーイ』や、宮部みゆきの『火車』による『火車--HELPLESS』などが思い浮かぶ。
今も日本の小説原作の韓国映画が続々作られている。伊坂幸太郎原作の『ゴールデンスランバー』は今年2月に韓国で公開。市川拓司原作の『いま、会いにゆきます』は3月に韓国で公開されて大ヒット。
村上春樹の「納屋を焼く」をもとにした『バーニング』はイ・チャンドン監督の8年ぶりの作品として、カンヌ映画祭に出品された。吉本ばななの『デッドエンドの思い出』も日韓合作でクランクインしている。このように日本の小説が映画の原作になるのは、韓国では日本よりも純文学至上主義が強く、上質のエンターテイメント性を備えた作品を探すには国内より日本ということになるからだろう。
上に挙げた作品はいずれも、日本で公開されたら大きな話題になるだろう。けれども私としては、さほど目立たないのだが、日本の短編を原作として味わい深い映画を撮りつづけてきた監督を紹介したい。イ・ユンギ監督、1965年生まれ。今までに公開された作品は7作で、そのうち3作が日本の女性作家の短編小説を取り上げている。3作ともに監督自身が脚本を手がけ、3作ともに、原作の選び方、脚本への仕上げ方、さらに演出もセンス抜群なのだ。
私が最初に見たのは、『アドリブ・ナイト』(2006)だった。何の予備知識もなく、パッケージの女優さんの顔に魅かれてレンタル店で借りたのだ。見はじめて、あーあ、なんて韓国映画らしい映画だろうと思った。
冒頭シーンでは駅前で若い女性が人を待っている。すると、面識のない男性二人にいきなり声をかけられる。「おまえ、ミョンウンだろ? お父さんが死にかけているぞ、すぐに田舎に帰ろう!」ところがこれが人違い。彼女は全力で否定するのだが、男たちはしつこい。実はミョンウンという女性は実家と10年以上音信不通になっており、彼女の父親が末期がんで重体に陥ったので、親戚・知人の代表としてソウルまで、彼女を探しに来たというのである。そして、人違いだとわかった後も男たちは「それじゃアルバイトとして、身代わりを演じてくれないか」「お父さんは意識がないから、どうせわからない。枕元でごめんなさいと言ってくれればいい」などと懇願するのだ。
ええー、すごいな、こんなこと引き受けちゃうのか。でも韓国ならありそう……と私は思った。そう思ってしまったのにはもしかすると、個人的な体験が関係していたかもしれない。ちょっと長くなるが、そのことも書いてみる。
1990年代の初め、私はソウルで地下鉄に乗った。いつものように混んでいた。その中を、ガタイのいいおじさんが人をかき分け、かき分け、のしのしと歩いてきた。しかも笑顔である。何するんだろ……と思ったらいきなり、私のすぐそばに立って新聞を読んでいたもう一人のおじさんの肩にガシッと手をかけ、「兄さん!」と言った。
ああ、知り合いなのか。韓国では血がつながっていなくても年上の男性には「兄」と呼びかけるので、まあ、普通の光景である。しかしそこからが普通でない。「兄さん!」と呼びかけたおじさん(Aとする)はとてもにこやかだが、された方のおじさん(Bとする)は、それこそ鬼のような形相でムッとしたままだ。どうやら、知り合いではなかったようなのだ。どうするんだと思ったら、おじさんAがやおら口を切った。
「兄さん、あなたが読んでいる『朝鮮日報』は、とても面白そうだ!」
Bは露骨な不信感をむき出しにしてAを睨みつけている。Aがまた言う。
「私が読んでいる『東亜日報』も、たいがい面白い!」
何言ってんのこの人、と思ったら、彼はなんと「だから我々は新聞を交換しましょう」と提案したのである。もちろんBはさらに怒りを深め、Aの顔を穴があくほど睨み続けている。やばい、このままいくとBが爆発するかもしれないと私は思った。だが、Bはアクションを起こさない。じっとしている。何か考えているようである。そして熟考のすえ、「それもいいかな」と思ったのだろうか。あっさりと『朝鮮日報』を差し出して交換してしまった……。
「ありがとう!」
Aはさらににこやかにはきはきとそう言い、「ヨッ!」という感じで片手を上げて挨拶した。そして、交換した『朝鮮日報』を手に、次の車両へと人をかき分けて行ってしまった。なんで? せっかく取り替えてもらったのに、そこで読めばいいのに……と私はガン見してしまったが、二人に注目しているのは私だけ。他の人は大して驚いていないようだった。
いったいあれは何だったのだろう。ひょっとしたらあの方法で何か悪い品物の受け渡しでもしていたのではないか? でも、だったらあんな衆人環視の中でやるだろうか? 韓国人の知り合いに尋ねてもみたが、「よくわからないけど、本当に新聞を交換したかったんじゃないの」と言われるだけ。そうなんだ……韓国人は唐突な提案に寛容なのか、提案の中身だけ検討して、提案のされ方を警戒しないのか……。
そんな先入観のおかげで、「アドリブ・ナイト」の設定を韓国らしいと思ってしまった可能性はある。だが、甘かった。この映画、平安寿子さんの同名の短編が原作だったのだから。
「アドリブ・ナイト」は、文春文庫の『素晴らしい一日』に収録されている。映画を見終わってからそれを知った私はさっそく、本も買ってしまった。そして深く納得した。こんな設定、日本だろうが韓国だろうが突拍子もないことに変わりはない。韓国らしいと感じたのは、とんでもない提案自体ではなく、そのあとのドタバタの方だったのだ。そして「韓国らしい」と感じたのは、物語が非常によく咀嚼されて、台詞がずば抜けて生き生きしていたからだった。
ヒロインのミョンウンを演じたのはハン・ヒョジュ。今や押しも押されもしない美人女優さんだが、『アドリブ・ナイト』での彼女は、えーっというほど不細工だ。終始、不機嫌を隠した無表情。まあ、自分で承諾したとはいえ、いきなり知らない一族の遺産をめぐる思惑の中に投げ込まれ、本意ではないことをやらされるのだから仕方がないのだが。
その上、初期のイ・ユンギ監督は「美人女優をそうでなく撮る」手腕がずば抜けていた。見ているこちらが恐縮するような無遠慮なアップの連続である。毛穴・皮脂・ふきでものが写りまくり(それを撮らせている女優さんとプロダクションも偉いわけだが)。とにかく、恐るべき生々しさ、リアリティがある。
そして、無表情に突っ立っている彼女の側にも、こんな突拍子もない代役を受けてしまおうと思うだけの理由はあった。その心模様がだんだん明らかになってくる。そして彼女の内面に、変化が生まれる。物語の終盤で、彼女はぽつりぽつりとそのことを語り出す。この、じわじわと起きていた変化が急に顕在化するあたりの描写は、小説も映画もものすごくうまい。結果として、原作も映画もそれぞれに大変良いという幸運を私は楽しんだ。
なお、「アドリブ・ナイト」というのは原作のタイトルで、映画の原題は「とても特別なお客」となっている。原作タイトルはアドリブを演じさせられる側の視点、映画タイトルはそれを迎える側の視点に立っているように思えて、それも面白かった。
次に見た平安寿子×イ・ユンギ監督の作品は『素晴らしい一日』(2008年)。「アドリブ・ナイト」が入っている文庫本の表題作だったので、こんどは原作を読んでから映画を見た。これは、私の好きな韓国映画の上位5位に入る。いや、3位に入るかもしれない。でも、この映画を初めて見るときは注意しなくてはならない。前半でものすごく腹が立つからだ。
だがこのハ・ジョンウ演ずる主人公が、「調子が良いにもほどがあるだろう!」と100回ぐらい怒鳴っても足りないほどのサイテーさなのである。これは私だけの感想ではない。ある20代の男の子がこれを見ながら「やめてー! この男、もう出さないで! 殺して!」って叫んでいましたからね。それほどムカつく、男として同じ範疇に入れられたくないと強く思うような男なのだ。
一例を挙げよう。チョン・ドヨンが鬼の形相で借金を取り立てに行くと、ハ・ジョンウは「嬉しいな、俺も会いたかった」とか「せっかく久しぶりに会ったんだから飯でも」とか「いきなり金の話なんて寂しいな」などと抜かす。350万ウォン(日本円で35万円程度だが、その中途半端な金額が泣かせる)借りて、一年も雲隠れしていたのにですよ。その様子は「臆面もなく」「ぬけぬけと」「恥知らず」といった単語をグロスで投入しても足りないという感じだ。映画相手にこれだけ腹が立つのは、やはり脚本が抜群にうまいからなのだろう。
このままでは絶対逃げられると踏んだチョン・ドヨンは、自分の車にハ・ジョンウを乗せ、彼が金策に走り回るのに同行する。かくして興味深いロードムービーが成立する。
しかしハ・ジョンウは、自分の携帯の電池が切れそうだからと彼女のを平気でじゃんじゃん使うし、相変わらず少しの反省の色もなく「何を怒ってるんだ?」だの、「おまえほんとは、金のことだけじゃなくて、俺に会いたかったんじゃないか?」などと言い続けるので、このあたりでもう「やめてー!」となる。ところがこの後、実際にいろんな人たちにお金を借りる段になると彼の「ぬけぬけ砲」がさらにパワーアップするのだから、たまらない。
しかし『アドリブ・ナイト』同様、人間模様の深いところが徐々に引き出されて、二人の関係が変わってくる。すると見る側にも変化が訪れ、気がつくと二人のやりとりにすっかり引き込まれ、共感してしまい、「やめてー!」と思ったことなど忘れてしまう。
『アドリブ・ナイト』と『素晴らしき一日』が描いているのは、人と人との関係の中で生まれる心の深いところの変化、一種の小さな魔法だ。『素晴らしき一日』のラストで、不機嫌のかたまりだったチョン・ドヨンにどんな変化が生まれるかをぜひ見てほしい。
なお、「素晴らしい一日」は平さんのデビュー作でもある。それが収められた短編集が『素晴らしい一日』で、イ・ユンギ監督はこの本から二作も映画化したことになる。
ハ・ジョンウが演じた役は、平安寿子さんの原作ではもう少しなよなよした感じの男性なのだが、それぞれに大変キャラが立ち、リアリティがある。だから「原作と違う!」とも「原作よりいいじゃん!」とも思わず、「あーあ、両方よかった」としみじみ思わされる。
実は、平さんの本を読んだのはこのときが初めてで、私はこのあと、立て続けに彼女の本を三冊も読んだ。私はイ・ユンギ監督によって平安寿子という、ものすごくうまい小説家を知ったのである。
最後に、『愛してる、愛してない』(2011)。こちらは井上荒野さんの「帰れない猫」というタイトルの短編が原作だ。
そして妻が家を出ていくことになり、荷物をまとめるのだが、ほんとに離婚する気があるのか? と思うほど作業が進まない。あちこちから思い出の品が出てきては足を引っ張る。そうこうするうちに大雨が降ってきたり、子猫が迷い込んできたりして、出かけられないままどんどん時間が経ってしまう、そんな一日を細やかに描いている。妻をイム・スジョン、夫をヒョンビンという美男美女カップルが演じた。
この小説こそ、イ・ユンギ監督が映画にしてくれなかったら出会えなかった作品だ。井上荒野さんの小説は何冊も読んできたが、「帰れない猫」は『ナナイロノコイ』という恋愛小説のアンソロジーに収められており、自分では見つけられなかっただろうと思うから。
他の二つの映画もそうなのだが、原作と映画を比べると、監督がごく小さなエピソードも大切にして、しかも手をかけて脚本に仕上げていることがわかる。例えば、「帰れない猫」には、雨のせいで外食に出られなくなったため、妻がパスタを作るところがある。彼女は『パスタ法典』という分厚い、イタリア語からの翻訳書を持っていて、それを見ると、どの料理をいつ作ったかほとんど正確に思い出すことができた、と書いてある。
一方映画では、夫婦が一緒にパスタを作る。この妻は編集者として働いている人で、かつて、翻訳物のパスタ本の編集を担当したという設定になっている。その本の編集をしていたころ、二人は自宅でたびたびレシピを再現し、仕事仲間を呼んでみんなで一緒に食べたんだそうだ。別れ話の最中にはそんな思い出も飛び出す。「チョリソーと、変わった形のキノコが入ったパスタ……」と夫が言うと、妻が「そう、そう」とうなずく。変わった形のキノコって、ポルチーニかなあと思う。実に細部の芸が細かい。
しかもチョリソーパスタを友人たちに振る舞った日、それを記念してみんなで寄せ書きをしたというのだ。このあたりが実に韓国らしい。韓国人は集まるのが好きだし、記念日も好きだ。珍しいパスタを堪能した後、みんなが「美味しかった!」などと感想を付箋に書いて、原書のページに貼ったんだそうで、楽しげな手書きの付箋が画面にもちらっと映る。可愛い。この感じ、例えば『アンダー、サンダー、テンダー』(チョン・セラン著、吉川凪訳、クオン)という小説などを読むとわかってもらえるんじゃないかな。
そして、こんなふうに友だちを大事にする人たちだから、夫婦の別れがたさがいっそう、複雑なものになってしまうのだ。カップルの組み換えは、人間関係の地図の大幅書き換えを意味する。そりゃ、日本だって同じだろうけど、パスタパーティーで寄せ書きだもの。そのたびにいちいちみんなが、気持ちを込めてカード書いてくれるんだもの。この人たちにいちいち離婚の報告するの、面倒臭いよねえ。
物語はこんなふうに、何考えているんだかわかるような、わからないような夫婦の行動を淡々と撮っていく。ちょっとイライラする人もいるかもしれない。けれども、離れそうで離れられなくて、でもちょっとしたことで終わりになってしまいそうな、といって他の人と寄り添ってみても埋められるのかどうかわからない……そんな二人の微妙な関係が静かなリアリティをもってしみこんでくる。
原作も映画も、ずっと雨が降り続ける中で展開される。私にとって「帰れない猫」と『愛してる、愛してない』は、雨というと思い出す小説と映画になった。
イ・ユンギ監督は、かなり丁寧に原作のストーリーを踏襲する人である。その上で、エピソードを足したり、抜いたり、細部を細かく描きこんだりして、物語の裾野をしっかりと固めている。裾野の手入れによって、物語がしっかり韓国に定着するのだ。
だから、映画を見てから原作を読むと、それぞれの細かい襞の違いがとても生き生きと感じられる。原作にはなかった実に良いエピソードが足されている一方で、ここまでと思うほど、原作の細部を再現している。
例えば、『アドリブ・ナイト』でミョンウンに化けたヒロインが田舎の家に到着すると、あるおばさんが「あんた今まで何で帰ってこなかったの」と抱きついてきて、「あんたが可愛がっていた犬のマルも、死んじゃったよ」と言う。この「マル」という名前、原作でも「マル」だし、映画でも「마루」、発音するとまさに「マル」となる。韓国の犬の名前としてはちょっと不自然な感じもするが、まあ音感を大事にしてつけた名前と思えなくもない。
とにかく、犬はマルといったらマルなのだ。台詞の中で一度しか登場しない、もう死んでいる犬なのにだ。このことを確認したときとても温かい気持ちになった。監督は、「この設定が使える」などと思って平安寿子さんの小説を起用したんじゃない。本当に、この小説が好きで大事にしているんだと思えたからだ。
イ監督はここのところすっかり大御所感が増して、近年は、以前に比べたらお金のかかったラブストーリーを撮っている。それも大変すてきなのだが、日本の小説の映画化もぜひまた手がけて欲しいなと思っている。何より、それを通して日本の小説を発見できるのが嬉しい。そうやって出会った小説は、海外に植樹されて愛情をかけられて、いっそう晴れやかな表情を見せる一本の木のように思える。その木陰に入るととても涼しい。今まで知らなかった風が吹いている。