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2025.02.28

第5回 出光真子と宮崎大祐の露出=風景論

風景のスクリーン・プラクティス / 佐々木友輔

映像作家でメディア研究者の佐々木友輔さんが、映画、写真、美術、アニメにおける〈風景〉と、それを写し出す〈スクリーン〉を軸に、さまざまな作品を縦横無尽に論じる連載。1970年前後に議論された「風景論」を出発点にしつつ、その更新を目論みます。第5回では、女性や主婦を主なテーマとした映像作家・出光真子の作品と、宮崎大祐監督による映画『#ミトヤマネ』(2023)を比較。家庭という密室を問うた1970–80年代のテレビドラマや、「社畜OL」によるYouTube動画などとあわせて、他者の生活を覗き見る、あるいはむしろ他者に生活を露出することに対する欲望とは何かを考えます。

 

出光真子『主婦の一日』──窃視症的、露出症的
出光真子は短編ビデオアート作品『主婦の一日』(1977)で、作中の主婦役を自ら演じている。早朝、彼女は目覚まし時計の音で目覚め、洗面所で顔を洗う。皿洗いをし、洗濯物を干し、新聞を読みながら食事をする。電話で愚痴をこぼし、外出して食料品を買い、寝そべってテレビを見て、眠りにつく。各場面は定点カメラの1カットで捉えられ、画面内には必ずテレビモニタが映り込んでいる。モニタにはクロースアップで捉えた目が表示されており、主婦の生活を無言でじっと見つめている。
この目は、一方では、私的領域を覗き見る監視者のまなざしのように見える。アルフレッド・ヒッチコック『裏窓』(1954)や若松孝二『壁の中の秘事』(1965)をはじめとして、「覗き見」は古くから定番の主題であり続けてきた。またその行為は、しばしば映画を見る体験の隠喩として語られる。例えばクリスチャン・メッツは、映画を見ようとする欲望を「窃視症」(観淫症、のぞき趣味)と類似したものとして論じている[1]。観客は劇場の暗闇に身を隠し、スクリーンという壁の穴から欲望の対象を一方的に覗き見るのだ。また、同じく映画観客の窃視症的欲望を論じたローラ・マルヴィは、性的に不均衡な社会においては、男性が能動的に「見る」側、女性が受動的に「見られる」側に振り分けられてきたと指摘している[2]。男性はスクリーンに映る女性の姿に自らの欲望を投影して快楽を味わうが、女性もまた、男性の期待に応える姿に己を飾り立てるよう促される。
だが他方では、その目は、出光が自分自身を──あるいは「女性」や「主婦」という存在を──見つめ直す、内省的なまなざしにも見える。実際、『主婦の一日』のテレビモニタに映っているのは出光自身の目である[3]。出光は己の身体にカメラを向けることで、シャンタル・アケルマンの『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(1975)と同様、「女性」ないしは「主婦」の日常的な仕事や仕草を発見・可視化してみせた。従来の映像表現では取るに足らないものと見なされていた「主婦の生活」を対象化し、見るべき風景として提示したのだ。
ところで映画史家のトム・ガニングは、エジソンやリュミエールが活躍した「初期映画」の時代には、スペクタクルな光景やスキャンダラスな出来事によって観客の注意を惹きつけ、視覚的好奇心を満たそうとする傾向があったと指摘し、それらのフィルムを──メッツやマルヴィが論じた古典的物語映画の窃視症的まなざしと対比して──「露出症」的な映画と名づけている[4]。私的領域に属すると見なされてきたものを包み隠さず、第三者(観客・鑑賞者)に積極的に開示していると解釈するなら、『主婦の一日』を露出症的な映像表現に分類することもできるだろう。

瀧健太郎監督『キカイデミルコト—日本のビデオアートの先駆者たち』予告編
※出光真子へのインタビューおよび『主婦の一日』からの抜粋映像も収録

窃視症的な側面と露出症的な側面が同居することは、『主婦の一日』に限らず、すべての密室映画に共通する特徴でもある。例えば若松孝二の密室映画は、日常生活の隅々にまで浸透してくる権力=風景に抵抗すべく、社会秩序を撹乱する暴力とセックスを通じた革命を思考するための場として「密室」を構築する試みだった。だが出入口も覗き穴もない完全な密室では──要するに、密室の内部を覗き見る観客が存在しなければ──その目的を果たすことはできまい。スキャンダラスな話題を振り撒き、過激な暴力表現や性表現を喧伝して劇場に観客を集めることで、初めて人びとに革命思想を届けることができる。またそれは、いつまでも後ろめたさの伴う「覗き見」の対象であってはならない。現実に社会が変革され、密室の内部にあったものが大手を振って外を歩くような新しい風景が形成された時、ようやく革命は成就する。

個室化=密室化する郊外
ところで『主婦の一日』には、出光が演じる主婦と食料品店の店員の2人しか登場しない。電話の内容から主婦には子どもがいると推測できるが、性別や年齢など具体的な情報は一切明かされない。彼女の生活はまるで単身者のようで、その部屋は他者を寄せつけない密室と化している。
『主婦の一日』が制作された1977年、テレビでは山田太一脚本のドラマ『岸辺のアルバム』(TBS)が放送され、話題を集めていた。同作では、多摩川沿いに一軒家を構える中流家族の生活が、主婦の田島則子(八千草薫)を中心として描かれる。一見仲睦まじく幸福そうに見える田島家だが、実はそれぞれ口外できない秘密を抱えており、作り笑顔を浮かべて体裁を取り繕っている。則子は見知らぬ男からの電話を次第に待ち望むようになり、やがて不倫にのめり込む。薄暗い室内で一人掃除機をかけたり、縫い物をしたりしている則子の姿からは、家族と暮らしていても消えることのない孤独が伝わってくる。『主婦の一日』の主婦と同様に、則子もまた家庭内で自分だけの密室に閉じこもり、心理的な別居生活を送っているのだ。
社会学者の宮台真司は、日本社会におけるこうした家族の分断と孤立を「郊外化」の二段階のプロセスとして説明している[5]。第一段階は、1955年から70年代末にかけての「団地化」である。日本住宅公団(後の住宅・都市整備公団)による団地の販売やテレビの普及は家族のライフスタイルを大きく変え、またその生活の理想像として、『奥様は魔女』(1964–1972)などアメリカのホームドラマが人気を博した。だが都市部への人口流出に伴い、従来の地域共同体が崩壊し、見知らぬ隣人と暮らすことになった住民たちは、自らの家族へと内閉していく。また崩壊した地域に代わり、メディアが「標準」を計るためのモノサシとなって、家族関係のメディア化という事態が生じた。
第二段階の郊外化は、1983年からの「コンビニ化」である。コンビニの普及やワンルームマンションの建築ラッシュ、テレクラやNTTの伝言ダイヤルの全国的な普及、家電の低価格化・多機能化など、様々な領域で起きた変化は、家族と同じ家に居ながら疑似的な単身生活を送るような「個室化」状況を生み出した。テレビや電話が一家に一台の時代から、一部屋に一台の時代になると、誰にも知られずメディアにアクセスし、好きな情報を得られるようになる。また家族で食卓を囲まずとも、コンビニで夜食を調達すれば一人で空腹を満たせる。こうして地域に続き家族という共同体も崩壊し、各々が個室=密室での生活を謳歌し始めた。

『岸辺のアルバム』は、家族の一員としての主婦を自明視するのではなく、「個室化」した状況下で主婦を演じる個人の視点から家族生活を見つめ直し、その後のテレビドラマにも多大な影響を与えた。中でもTBSの『金曜日の妻たちへ』(1983–1985)は、結婚後も洒落たファッションや恋愛関係を求めて主体的に生きる主婦像を提示し、女性視聴者からの熱狂的な支持を集めたという[6]。当時、家庭内で主婦としての役割を担っていた視聴者は、これらのドラマを見て、作中の主婦生活と自分自身の生活を重ね合わせ、孤独な境遇に共感したり、家父長制への疑問を抱いたり、自由な生き様に励まされたり、束の間の解放感を味わったりしただろう。そして、貞淑であることが唯一許された生き方ではなくなり、離婚や不倫が新たな選択肢に加わる。郊外化によって急激に変化するライフスタイルを対象化し、風景として見つめることで、自分自身の生き方や家族のあり方を見つめ直すための手がかりが得られるのだ。
だが主婦層以外の視聴者にとって、則子ら「妻たち」の生活を見つめることは異なる意味を持つ。個室化が進行し、同居する家族の生活さえ見えなくなっている状況では、他者の生き方を知ることも、それと比較して自分自身の生き方を見つめ直すことも、メディアを媒介として行うほかない。中でも『岸辺のアルバム』や『金曜日の妻たちへ』のようなホームドラマは、ヴェールに包まれた他者の「密室」を合法的に覗き見できる好都合な手段となった。一見貞淑な主婦も裏では何をしているか分からない、密かに不倫にのめり込んでいるはずだといった下世話な関心は、若松孝二の密室映画や日活ロマンポルノの『団地妻』シリーズ(1971–1978)において、よりあからさまな窃視の欲望と結びつく。私的領域の対象化は、それを社会的風景として明るみに出し、見過ごされていた価値や重要性を認めさせることにつながるが、同時に、私的領域が他者の欲望の対象となり、公然と密室を覗き見ることへの口実を与えもする。

「ちえ丸の社畜日記」──幸福の陽気な断念
個室化=密室化が進行すればするほど、その内部を覗き見たい/露出したい欲望も強くなる。インターネットやスマホの普及、そしてYouTubeやツイキャスなど各種動画配信サービスを活用した個人配信者の登場は、密室の風景化をますます加速させた。シャンタル・アケルマンや出光真子をカジュアルに模倣するように、現在では無数の人びとが「主婦の一日」や「私の生活」を対象化し、虚実入り混じった風景を世界中に発信している。
例えば2021年開設のYouTubeチャンネル「ちえ丸の社畜日記──それでも楽しく生きていく[7]」では、過酷な労働環境で働くちえ丸が、出退勤や自宅で過ごす時間、出張の様子などを日記動画として不定期に公開している。そこで風景化されるのは、ガニ股でストッキングを履いたり、コンビニ食品や化粧品を「社畜投げ」(卓上などに乱雑に放り投げること)したりといった、社畜OLとして暮らす女性の日常的な動作や仕草だ。視聴者は彼女の健康を心配したり、共感のコメントを書き込んだり、時にはヤラセを疑いながら、限界ぎりぎりの生活を見守っている。「ちえ丸の社畜日記」は登録者数48万人の人気チャンネルとなり、2023年には玉城ティナが主演(ちえ丸役)を務めるショートドラマ『社畜OLちえ丸日記』(日本テレビ)も製作された。

「ちえ丸の社畜日記」より、『【社畜OLの1日】限界突破「学生たちよ、これが現実だ」』

ちえ丸のチャンネルにも、窃視症的な側面と露出症的な側面の同居が認められる。一方では、ちえ丸は自らの私生活を積極的に開示することで、従来は軽視されたり、見落とされたりしてきた女性の動作や仕草に光を当て、その存在の可視化に貢献してきた。似た境遇に置かれている視聴者の共感を呼び、ある時には明日を生きる力を与え、またある時には普段の仕事や生活を見つめ直す契機を作り出してもきただろう。だが他方では、ちえ丸の日記は、他者の私生活を覗き見ることを娯楽として消費するよう促してもいる。またそれにより、問題だらけの企業経営や社会構造を実質的に肯定し、延命させることにつながっているかもしれない。
ショートドラマ版ではその傾向がさらに顕著で、ちえ丸の職場は、違法かつ非倫理的な労働環境として批判されるのではなく、彼女が成長して乗り越えるべきハードルのように描かれる。上司や同僚たちも、厳しくて口は悪いがどこかユーモラスで、愛すべき人物として演じられる。これは、かつてマックス・ホルクハイマーとテオドール・W・アドルノが指摘した幸福の「陽気な断念[8]」そのものと言えるだろう。メディアに登場するキャラクター(ちえ丸)が徹底的に痛めつけられる姿を見続けることで、視聴者はいつしか、自分自身の痛みや苦しみにも慣らされていく。ちえ丸のガニ股ストッキング履きや社畜投げを見て同情的・自嘲的に笑う時、その人は、変えることのできない現実や逃れられない権力に屈従し、その恐怖を幾分かでも和らげるために「笑う」のだ。

『社畜OLちえ丸日記』第1話特別公開

宮崎大祐『#ミトヤマネ』──巨大な密室と化した世界
『社畜OLちえ丸日記』が放送された2023年、ちえ丸役の玉城ティナは長編映画『#ミトヤマネ』(宮崎大祐監督)の主演を務め、人気インフルエンサー・山根ミトを演じている。
同作は、街頭インタビューに応じた人びとが「山根ミト」のイメージを語るところから始まる。ミトは妹のミホ(湯川ひな)と事務所のマネージャー(稲葉友)によるサポートの下、様々なメディアで活躍しており、動画配信の様子や出演映画の1シーン、新商品の広告動画などのイメージが、矢継ぎ早にモンタージュされていく[9]。いわゆる客観(三人称)ショットも使われているが、何らかの作為や演出、加工を疑わせる要素が随所に散りばめられ、物語の整合性がとれない描写も多い。中盤には、誰もが自分の顔をミトの顔に置き換えられる動画フィルターアプリが登場。ミトのイメージはますます増殖・拡散していき、メディアの媒介と非媒介、内面と外面、主観と客観、現実と虚構といった区別は次第に崩壊していく。そもそもミトは実在するのか。ミトとミホは同一人物なのか。観客が当然抱くであろう疑問や謎に明確な答えが与えられることもなく、すべては無数のミトのイメージという「藪の中」に紛れ去ってしまう。ここに至って『#ミトヤマネ』とは、ソーシャルメディア時代の『羅生門』(黒澤明監督、1950)なのだということが了解されるだろう。
監督の宮崎大祐は、同作で密室映画の一つの終着地点を示している。ミトは私生活や家族など自己を取り巻くもののすべてを対象化=風景化し、メディアに露出・流通させることで、あらゆる私的領域を喪失するが、同時に公的な領域をも喪失する。彼女にとっては、世界のすべてが巨大な密室と化しているとも言えるし、逆に、どこまで逃げても他者のまなざしに晒される、密室なき風景に取り囲まれているとも言えるのではないか。

『#ミトヤマネ』(2023)

ミトの爆破テロ──手段としての露出から目的としての露出へ
『#ミトヤマネ』の終盤、ミトはショッピング帰りに渋谷駅近くのコインロッカーに立ち寄り、おそらく何かしらの爆弾を仕掛け、大規模な爆破テロ事件を起こす。風景論の文脈からこの映画を分析してきた私たちは、この場面から即座に永山則夫の連続ピストル射殺事件や若松映画の悲劇的結末、あるいは『街をぶっ飛ばせ』(シャンタル・アケルマン監督、1968)のラストシーンなどを想起するだろう。松田政男が永山について語ったのと同様、ミトは自身を取り囲む均質な風景を切り裂くためにテロ事件を起こしたのではないか。自ら破滅を選ぶことで、心身の隅々まで接続された「メディアの回路[10]」を切断しようとしたのではないだろうか。
だがこの仮説は直後に裏切られる。ミトは自宅のパソコンから渋谷の街並みを映したライブカメラにアクセスし、爆発による配信の中断を見届けた後、「犯行声明」と題した動画配信を開始する。爆破テロはメディアとの回路を断ち切るためではなく、さらなるメディアへの露出を実現するための手段として行われたのだ。ここで映画は終わりエンドクレジットが流れるが、もしも続きがあるとすれば、おそらくミトは逮捕されてからも、協力者を得て獄中からメディアへの発信を続けるだろう。
彼女の偏執的なまでのメディア露出の欲望は何に起因するのか。すでに確認したように、増殖を続けるミトのイメージは、現実/虚構や内面/外面といった区別を無化しているため、作中の描写から彼女の真の目的や本当の姿を読み取ることはできないし、そもそも初めから「真の目的」や「本当の姿」など存在しなかったのかもしれない。だが常に寡黙でポーカーフェイスを崩さないミトが、わずかに感情を顕にする場面がある。動画フィルターアプリが悪用され、ミトの顔をコラージュした性的な動画や政治的な動画、犯罪動画などが出回って炎上騒ぎになった際、心配する周囲に対して、ミトは「でも良いじゃないですか。私の露出が増えたんだから」と他人事のように言い放つ。この言葉に妹のミホは食って掛かり、口論になる。

ミホ「は? こういう露出は良くないでしょ。」
ミト「露出に良いも悪いもないよ。」
ミホ「あるよ。」
ミト「ないでしょ。」
ミホ「あるでしょ。」
ミト「だったら、誰にも知られてないのと皆に知られているの、どっちが良いの?」
ミホ「そんな極論言わないで。」
ミト「でも結局そういうことでしょ。」

ここで語られる「露出」は、1970年代の密室映画の露出症的な側面を引き継ぐものでもあるが、その内実は大きく変化している。『ジャンヌ・ディエルマン』や『主婦の一日』は、それまで主婦の生活が不可視化されていたからこそ、フィルムやビデオなどのメディアを用いて私的領域を露出することが公的・支配的な風景に対するカウンターとして機能した。対して、ミトのソーシャルメディアへの露出は抵抗や叛逆のための手段ではなく、露出すること自体が目的化している。私的領域と公的領域の境界が失われ、巨大な密室と化した世界において、露出することはすでにカウンターとしての機能を無くしているが、だからと言って、直ちにそれをやめて良いという話にはならない。良い露出であろうが悪い露出であろうが、訴えるべきことがあろうがなかろうが、とにかく露出し続けなければ瞬時に忘れ去られ、「私」という存在は社会の中で居場所を失ってしまう。ミトの露出への執着は、こうした危機感に起因しているように思われる。

『#ミトヤマネ』(2023)

ソーシャルメディア時代の景観論争
やや極端な描かれ方ではあるが、ウェブ掲示板やSNSなどオンライン上のコミュニケーションに慣れ親しんできた者なら、ミトの思考や行動をまったく理解できないわけではないだろう。宮崎大祐は、絶え間なく自己イメージを増殖・拡散しようとするミトの姿を通じて、ソーシャルメディアと現実空間との根本的な空間特性の差異を鮮やかに浮かび上がらせている。
インターネットが普及したことで、ソーシャルメディアは人間の新たな活動空間となり、あたかも「新しい自然」であるかのように捉えられるようになった。だがその空間は、何かしらの主張を持つ者による積極的な発言や議論の応酬によって構築されるため、現実空間のように何もせずとも「ただ在る」ことは難しい。タイムラインや検索結果の上位に表示されないものは、端的に「存在しない」と見做される。それゆえ、政治家や知識人による立場の表明であれ、民族やジェンダー、社会階層などを同じくする者たちによるアイデンティティ・ポリティクスであれ、アイドルやアーティストの表現活動であれ、自らの存在を対象化=風景化し、常に露出し続けることは、その社会における居場所や権利を維持するために──つまりは「生きる」ために──不可欠な営みとなる。
またそのような空間では、情報の正確さや主張の正当性よりも、継続的な発信や印象に残る語り口、それに伴う閲覧回数やリアクション数のほうが重視される。たとえ自分が間違っていても、誤りを認めず、居直って強気に振る舞ったほうが擁護者や支援者を得られ、社会的な地位を維持できる。ミトの言葉通り、良い露出であろうが悪い露出であろうが、とにかく露出し続けなければならないのだ。こうして日々、ソーシャルメディア上で熾烈な「景観論争[11]」が繰り広げられることになる。
だが私的領域を隅々までメディアの回路に接続し、密室を世界規模にまで拡張することは、本来なら体内で保護されていた過敏な神経回路を剥き出しにして、外気に晒しているようなものだ。それがどれだけリスクを伴う行為であるかは、リアリティ番組で相次ぐ自殺者や、声を上げたマイノリティに対する誹謗中傷の山からも明らかだろう。爆破テロを起こしてでもメディアに露出せんとするミトの動機は、主義主張のためではなく、虚栄心や承認欲求のためでもなく、露出し続けることでしかこの世界に己の場所を確保できないためであるが、その目的を果たすべく行動すればするほど、彼女の身体は性的・暴力的なまなざしに晒され、生命を脅かされるというダブルバインドに直面する。誰もがミトの顔になれる動画フィルターアプリは悪用され、別人の裸体にミトの顔をコラージュした動画が無数に拡散する。ミトの社会的影響力を恐れた人びとによってバッシングが行われ、デモ隊の投げた石は妹のミホの頭に傷を負わせる。ソーシャルメディア時代の景観論争は、誰もが何もせずとも「ただ在る」ことを肯定し、その権利を保障することの困難を私たちに突きつけている。


[1]クリスチャン・メッツ「想像的シニフィアン」『映画と精神分析──想像的シニフィアン』鹿島茂訳、白水社、1981年
[2]ローラ・マルヴィ「視覚的快楽と物語映画」斎藤綾子訳、『新映画理論集成① 歴史/人種/ジェンダー』岩本憲児・武田潔・斎藤綾子編、フィルムアート社、1998年
[3]作家が自分自身の身体にカメラを向け、見る役割と見られる役割を同時に担うのは、ブルース・ナウマンやヴィト・アコンチなど、当時のビデオアーティストが採用した定番の方法だった。美術批評家・理論家のロザリンド・クラウスも、こうしたフィードバック(閉回路)構造にこそ、ビデオというメディウムの特性があると論じている。詳しくはロザリンド・クラウス「ヴィデオ──ナルシシズムの美学」(石岡良治訳、展覧会カタログ『ヴィデオを待ちながら──映像,60年代から今日へ』東京国立近代美術館、2009年[原論文1976年])を参照。
[4]トム・ガニング「アトラクションの映画──初期映画とその観客、そしてアヴァンギャルド」中村秀之訳、『アンチ・スペクタクル──沸騰する映画文化の考古学』長谷正人・中村秀之編、東京大学出版会、2003年
[5]宮台真司「郊外化と近代の成熟」『まぼろしの郊外──成熟社会を生きる若者たちの行方』朝日新聞出版、2000年
[6]1984年12月28日付『朝日新聞』の記事「’84世相語年鑑(8–12月)」では、「「結婚しても相手に満足できなければいつでも離婚すればよい」と考える女性は、総理府調査によれば昭和54年に24%、59年33%。「離婚願望症候群」はびこる。「くれない族の反乱」「金曜日の妻たちへ」「変身」……。女性の間で「金妻見た?」と言いかわすきのうきょう」と語られており、『金曜日の妻たちへ』が当時の主婦たちの気分を反映したドラマであったことが窺える。
[7]「ちえ丸の社畜日記──それでも楽しく生きていく」https://www.youtube.com/@chiemaru
[8]マックス・ホルクハイマー、テオドール・W・アドルノ『啓蒙の弁証法——哲学的断想』徳永恂訳、岩波書店、2007年、p.290
[9]宮崎大祐は『#ミトヤマネ』のモンタージュについて、「今回はスマホの動画アプリの画面を何の気無しにスクロールしていくイメージでつくりました。ランダムにスクロールしたりクリックして色々なイメージへ飛んで、出てきた映像と音を組み合わせていくと観客それぞれの『#ミトヤマネ』が浮かび上がってくるようなイメージです」と語っている。吉野大地 取材・文「『#ミトヤマネ』宮崎大祐監督ロングインタビュー(前編)」神戸映画資料館WEB SPECIAL、2023年8月14日、https://kobe-eiga.net/special/1366/
[10]「メディアの回路」については、今井瞳良「団地とメディアと若松孝二」『団地映画論──居住空間イメージの戦後史』(精興社、2021年、pp. 145–161)を参照。
[11]ここで風景論争ではなく景観論争という語を用いたのは、主に都市開発やまちづくりの文脈で、伝統的な街並にそぐわない建築物が建てられることへの批判や、高層マンション建設によって周辺住民が慣れ親しんだ景観の破壊が生じることへの批判など、公共の景観(風景)を巡る議論を指す言葉として一般に「景観論争」が用いられてきたことを踏まえている。社会学者の若林幹夫は、「景観」が問題化されるのは、古くからの地域住民や新住民、企業や自治体など様々な社会的行為者が、それぞれ異なる風景概念や景観概念に基づいて土地に関わるために、あるべき景観に対する公共的な合意が得られず、むしろその概念が拡散してしまうからであると指摘している。若林幹夫『〈時と場〉の変容──「サイバー都市」は存在するか?』NTT出版、2010年、pp. 53–54。

*次回は3月28日(金)に公開予定です。


 

『#ミトヤマネ』
監督・脚本:宮崎大祐 出演:玉城ティナ、湯川ひな ほか
(C)2023映画「#ミトヤマネ」製作委員会
デジタル配信中


 

本連載著者の佐々木友輔さんと、杵島和泉さん、Claraさん企画による展示+新作映画上映+トークイベントが、
3月14日〜16日に開催されます。ぜひ足をお運びください!

「見る場所を見る4──映画の記憶とメディア考古学の旅」
展示「鳥取の映画館の記憶──イラストレーション・ドキュメンタリー」
映画上映&トーク『ファントムライダーズ』
会期:3月14日(金)〜16日(日)
会場:元映画館(東京都荒川区東日暮里3-31-18 旭ビル2F)
会期:3月14日(金)〜16日(日)
料金:展示・上映ともに無料
詳細・予約はこちらから