円山町で見た幻
2015年の冬は、渋谷の道玄坂裏手、円山町の界隈をよく歩いた。春に円山町のユーロライブという会場で演劇を上演することになっており、その台本を書くために周辺の地理を研究しようと思ったのだ。制作のユーロスペースから、渋谷をテーマにした演劇を作るのはどうかというアイディアをもらっていた。渋谷のことなんかよく知らない。歩いてヒントを探したかった。
私は2011年からSWANNYという演劇の団体を主宰している。中学高校と演劇部に所属していたので、大学に入ってからも芝居に関わってみようと思い、指輪ホテルという団体のオーディションを受けたのが、幸か不幸か、転機だった。そのまま、大学を卒業しても、10年ぐらいその劇団に出演し続けた。それと別に文筆の仕事もしていたので、「演劇関係の知り合いも多いし、自分で本を書いて演出をしてみたら良いんじゃないの」とよく人から言われたが、大変そうだし実際にやってみようとはしなかった。劇団を旗揚げしたのは2011年の5月だったが、きっかけは東日本大震災だったように思う。
私は3月11日の昼ごろ、家の近くの図書館にいた。雑誌閲覧室の黒い長椅子に腰掛けて、「暮らしの手帖」だか「装苑」だかのページをめくっていた。少し離れた隣に、紙袋の荷物をたくさん携えたホームレス風の老人が座っていた。本も手に取らずに意味不明な独り言をしきりに呟いているようで、私も含め、閲覧室にいる全員の人間が、それをやんわり無視していた。そこへ地震が起こった。
書棚が激しく揺れている。いつもならば少し待てば地震は止まる。何事もなかったかのようにやり過ごすのが火山国の住人たる我々の嗜み……と待っていたが、揺れは延々止まらないのである。何かがおかしい、しかし一度やり過ごすべく冷静な表情を取り繕ってしまったのをどこで変えていいのかタイミングが掴めない。そこへ隣のホームレス風老人が大声で言ったのだ、「こりゃあ、大震災だ、大震災」。どこか呑気な調子で。まるで地震がきっかけで、老人の隠されていた知性が突然露わになったかのような、奇妙な瞬間だった。
大震災なんていう大袈裟な言葉で語っていいのか、そのときは分からなかったけれど、帰宅したら二度目の揺れが起こって、飼い猫が恐怖のあまりに震えながらオシッコを漏らした。普段は見られないような異常な反応で、どうして家が揺れることが恐ろしいって分かるのだろうと不思議で仕方なかった。テレビをつけたら惨状が知れて、あの老人の発言が、完璧に正しかったことが判明した。確かに大震災だったのだ。続いて原子力発電所が大爆発した。
それから毎日インターネットを見て行き場のない思いを巡らせた。私の生活には大した支障が出なかった。しかし私を含め、東京に住む人々の中には何かをしなくてはという焦りが蔓延っていった。東北にボランティアに行く人もいれば、放射能を恐れて沖縄に引っ越す友達もいた。私は非常に利己的に、急に天変地異が起こったら逃れられない、自分もいつ死ぬかわからないなと凡庸な心配をしていた。何ひとつ成し遂げていないこの中途半端な人生で、やり残していることは何だろうかと考えた。
作家・批評家のスーザン・ソンタグが、ボスニア扮装のときに、サラエヴォへ行って、現地の人々と協力してベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』を演出した、というエッセイを読んだ。サラエヴォの演劇関係者にとって、芝居を上演することは大きな意味をもっていた、と書いてあった。劇場の外から狙撃の爆音が聞こえてくる中、蝋燭の灯りを頼りに芝居が行われたという。いつ殺されたり重傷を負わされたりするかわからず、トイレの設備もうまく機能しないような戦時下、ベケットの芸術に触れることで彼らは束の間、人間としての尊厳を取り戻すことができた。ソンタグのような勇敢さが自分にあるとは思わなかったが、そのエッセイは強烈な印象を残した。戦時下でも人は芸術を求めるのだ。一人で行う文筆とは違って、演劇は他の人々と、時間や場所を共有して創り、表現することができる。地震と津波と原発事故の衝撃を癒したい、そのために他人の顔を見たい、わけもなく寄り合ってお互いが元気であることを確認したい、と感じている人は多いのではないかと思った。演劇をやれば、それを理由に人は集まる。俳優の友達に連絡して自分の芝居に出てくれないかと頼むと、皆ひどく喜んでくれた。そういう機会を待っていたと言われた。
渋谷の東急文化村の向かいの、地下のライブハウスで、10月に初めての公演を行った。演劇をやろうとする老人たちの話だ。彼らは過去の記憶を失っているのだが、話しているうちに、自分たちがかつて舞台俳優であったこと、そして何らかの理由で死んでしまっていることを思い出す。彼らはそれぞれの人生の全ての瞬間の記憶を、気の遠くなるほど長い演劇にすることを試み、最後にダンスを踊って舞台からいなくなる。
私の行った公演は東北の被災者を救わないし、東京の観客や出演者を癒すには表現が遠回しすぎて意図が伝わらなかったかもしれない。それでも旗揚げを契機に、何かに引っ張られるように、2017年まで6年間SWANNYを続けてきて10本の芝居を作った。毎回なんとか上演できているのは周囲の人々の助力のお蔭だ。
2013年と2015年には、ドイツの映画監督ファスビンダーの演劇用戯曲を演出した。で、——長い前置きだったが——その公演を見に来た人の紹介で、2016年3月、映画会社ユーロスペースの制作で公演をやらせてもらうことになった。ユーロスペースの代表である堀越氏は、私の大好きなファスビンダーやヘルツォークなどの映画人を日本に初めて紹介した人物で、そんな人に話しかけてもらえるだけですでに嬉しかった。氏は、渋谷から芸術文化が消える一方であることを憂いており、地下から4階まですべて映画館であったビルの2階を、ライブのできる多目的ホールにしたと語ってくれた。地域に芸術文化を根付かせるためにライブのパフォーマンスに敵うものはないから、今は落語やコントのイベントを主に開催しているが、今度はぜひ演劇の力を貸してください、と言ってくれた。制作の会議をして、渋谷をテーマにした台本が良いのではないかという案が出た。それで、2016年の冬に私は、円山町をひたすら歩いていたのだった。
道玄坂、円山町のエリアについて、昔から不思議に思っていた。なぜ狭い一画にあれほど坂があるのか。あの驚くべき数のラブホテルの林立は何なのか。その近辺に、ストリップ劇場やら風俗店は分かるが、なぜひとつ路地を入れば突如として小さな神社や荘重なクラシックをかける名曲喫茶「ライオン」が現れ、いかにも歴史ありげなおでん屋や小料理屋などが営業をしているのか。さらにライブハウスやクラブが何軒もあって、そのままユーロスペースのビルの前を通って坂を下ると、東急文化村にぶつかる。その背後には超高級住宅地である松濤が控えている。その組み合わせの、支離滅裂なことと言ったら。松濤や神山町に住む富裕層は、すぐ傍に日本有数のラブホテル街があることは気にならないんだろうか?
私は、名曲喫茶「ライオン」でコーヒーを飲みながらワーグナーに耳を傾けたり、こっそり神社に行って、公演が成功するよう願いながらおみくじを引いたりした。小吉か中吉か……忘れた。大吉ではなかった気がする。神頼みするのが我ながら恥ずかしく、人に見られないように物凄い速さでお参りを済ました。そして円山町の歴史をざっくり本やネットの記事で調べた。かつて円山町は茶屋町として栄え、芸者が闊歩していたらしい。あれっ、あそこに芸者が……! 東急文化村のオーチャードホールでオーケストラ演奏されている、ドビュッシーの曲に合わせて踊っている……! ラブホテルに挟まれた路地で、そんな想像をした。
どうやら、円山町というのは、関東大震災で家屋が倒壊した浅草あたりの老舗飲食店の何軒かが、新装開店するために新しく作られた街であったらしい。今のNHKの放送局のあたりがかつては陸軍施設で、軍人たちの食事や遊びの場として繁栄して、何軒もの置屋があった。だが渋谷は東京大空襲で焼け野原となった。戦後、渋谷は東急・西武が凌ぎを削り、二社の経済戦争のただ中で見違えるように復興してゆき、若者の街として生まれ変わったのだが、円山町の芸者文化は廃れ、じょじょに現在のような風俗街として完成していった。ちなみに、坂がたくさんあるのは、昔々、神泉から渋谷、広尾にかけて、渋谷川という長い川が流れているからだという。渋谷川は、明治通沿いでは地上を流れ、川としての姿を保っているが、駅周辺では暗渠として埋め込まれている。私は学生時代、渋谷西武デパートで数ヶ月、アルバイトをしたことがあるのだが、あのデパートの地下には従業員用の巨大な地下通路があって、その大きさといったらかなり迫力がある。すぐ壁の向こう側にパイプがあってその中を渋谷川が流れていると聞いた。渋谷は、名前の通り、谷底にできた街なのだ。まるでギリシャ神話の怪物キマイラのような、円山町の支離滅裂さは、戦前・戦後の歴史に応じて街の姿が激変していった痕跡なのだ。
こういったエピソードを私は片っ端から演劇の台本に盛り込んだ。そして、地方から出てきてラブホテルとスナックでバイトする女の子がタイムスリップして、戦前の円山町の芸者屋で働く話を書いた。彼女は先輩芸者たちとドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」をバックに舞を踊り、戦時を体験し、空襲で焼け野原になった渋谷を見る。そして現代に戻る。上京してきたときは写真家になりたかった彼女だが、50年後もまだラブホテルで働いている。超高齢化社会となった日本の東京の円山町で、老いた夫と睦まじく暮らしながら。
この演劇が、果たして渋谷の文化発展に役立ったのか、私は皆目わからない。そんなことすぐに目に見える形でわかったりしない。ただ、2015年末にユーロスペースのビル一階のスペースで公演のチラシを撮影したのだが、そのときは一階が空き家だった。なかなかテナントが決まらないと会社の人が言っていて、前に入っていたカフェの設備の残骸が散らばって荒れていた。撮影時にちょっと目を離した隙に、スタッフの人がお財布を盗まれた。さすが円山町って柄悪いねと私たちは怯えた。
演劇を作るときはいつも、その場所で何かの鎮魂の儀式を行うような気持ち、空間の大掃除をするような気持ちで作る。谷底に溜まった川の水を新しい方向へ押し流すような、そんな芝居を作りたかった。公演が終わってしばらく経ったら、長らくテナントが決まらなかった一階がイベントスペースになっており、びっくりするほど繁盛している。週末には人が列を作るほど集まっている。別に私たちの公演のお蔭でビルの運気が良くなったとか言いたいわけじゃないけど、もしかしたらそうかもしれない、なんて想像できるのは面白いじゃないの、と思う。演劇は物事が変わるきっかけを作り出すことがある。
もうすぐ、再びユーロライブで公演を行う。次は鳥をモチーフにした、主婦の物語だ。劇団を結成したことで、状況につねに押し流されるだけではなく、可能性を切り拓くこと、少なくともそれをイメージすることを私は学ぶ格好になった。未だ勉強中で苦労ばっかりしているが、今度はどんな発見をするのだろうか。あれこれ心配しながらも微かな楽しみを抱いて、演劇の稽古を続けている。
【告知】
2017年11/23-26、渋谷ユーロライブにて
千木良悠子主宰・SWANNYの新作舞台『小鳥女房』の上演があります。
公演の詳細はhttp://eurolive.jp/ をご覧下さい!
文芸評論家・川本直氏による舞台稽古レポート