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2024.01.23

『庭のかたちが生まれるとき 庭園の詩学と庭師の知恵』刊行記念トーク
「かたちを見る、書く、つくる」(前編)

読み切り / 池田剛介, 千葉雅也, 山内朋樹

庭師であり美学者である山内朋樹さんは、著書『庭のかたちが生まれるとき 庭園の詩学と庭師の知恵』で、作庭のプロセスを徹底的に観察するとともに、その造形(かたち・構造)の論理を分析し、「制作されるもの」と「制作するもの」の間に起きていることについて記述しています。
本書の内容は作庭だけではなく、絵画やダンスをはじめとする芸術作品全般、または料理やビジネスなど多くの場面で応用可能なものになっており、刊行以来さまざまな読者層に読まれてきました。

本書の刊行を記念して開催されたイベントで、千葉雅也さん(哲学者、作家)、池田剛介さん(美術作家)、そして山内朋樹さんという、それぞれ異なるフィールドで活躍する三人に、芸術作品を見ること、さらには「書くこと」や「制作すること」など、「かたち」をめぐる議論を展開していただきました。

※本記事は2023年10月7日(土)にMEDIA SHOP(京都)で開催されたイベント「山内朋樹『庭のかたちが生まれるとき』刊行記念トークイベント かたちを見る、書く、つくる」を再構成したものです。

 


 

池田:本日はよろしくお願いします。フィルムアート社から刊行された『庭のかたちが生まれるとき 庭園の詩学と庭師の知恵』の刊行記念イベントとして、著者の山内朋樹さんと、ゲストの千葉雅也さんにお越しいただきました。今日は庭を起点としながら、美術や小説まで含め、様々なレベルの「かたち」を観察したり、さらには書いたり造ったりすることについて、横断的にお話しできればと思います。まずは山内さんに、ご著書についてお話しいただきます。

山内:みなさんはじめまして。2023年8月に『庭のかたちが生まれるとき 庭園の詩学と庭師の知恵』という本を出版しました山内朋樹です。さて、早速なんですが、この本は京都府福知山市にある観音寺というお寺の大聖院庭園作庭工事を最初から最後まで観察し、庭のかたちの生成と庭師たちの言葉や技を徹底して記述したものです。内容は大きく二つのパートに分かれています。1、3、5という奇数章は「庭園の詩学」。そこでは庭のかたちがどうやって生まれていくのかを徹底的に観察しています。他方、2と4の偶数章は「庭師の知恵」。職人たちが物や道具とともにどのように庭をつくっていくかを記述しています。今日のイベントのタイトル「かたちを見る、書く、つくる」に照らすならば、「かたちを見る」というのが1、3、5章で、「書く、つくる」という制作術として2、4章を読むことができるだろうと思います。

まずは、なぜそこまでかたちにこだわるのか、というところから考えてみたいと思います。例えば、京都には有名な龍安寺方丈庭園がありますよね(画像1)

画像1 龍安寺方丈庭園

この庭の石組については、今まで多くのことが語られてきたのですが、お寺に行ってパンフレットを見ると「虎の子渡し」という故事について書いてあります。母虎が子虎たちを川の対岸に渡していく様子を表しているのだと。とはいえ、そういわれて庭を見ても、故事はなぜこれらの石がこのような姿や配置になっているのかについては何も教えてくれませんよね。でも作庭現場で庭師たちの石組の作業を観察してみると、石をあっちに置いたからこっちに置くとか、ちょっと左にずらすとか時計方向に回すとか、隣の石との関係でわずかに高くするとか低くするとか、つまりは具体的なかたちをどう操作するかということに注意が向けられているんです。

美術作品を見るときもそう。美術館に行って絵を前にしたとき、チラッと見ただけですぐにキャプションを読んでしまうことってありませんか? キャプションはじっくり読んだのに、肝心の絵は一瞥しただけで次の作品に移ってしまうような。でも、よくよく考えてみるとこれって変ですよね。ようするに、そこで絵は文の挿絵のように、庭は故事の再現模型のように受けとられている。そのとき僕らは絵画を、あるいは庭を見ているんだろうか? 実はほとんど見ていないんじゃないか?

パンフレットやキャプションやオーディオガイドが語る知識ももちろん重要です。重要なんだけど、そうした言葉をもう一度絵画の、あるいは庭の表面に立ち戻らせる必要があるんだと思います。僕はかつてたまたま庭師をしていたので、まずは庭の分野でそれをやってみたいと思ったんですね。故事や歴史の「深み」の手前で、目の前に現れるかたちや配置という、ひしめき合う物体の「浅さ」を徹底的に見るということです。徹底的に見ることで考える。

たとえば作庭工事中に、こういう構成の石組が出現しました(画像2)。僕はこの一群を「変形三尊石」と書いています。三尊石というのは中央に主となる石が高く据えられ、両脇に控えの石が低く配置される構成のことです。低い石で構成される場合は品文字とも言われます。この石組では2番の石が相対的に高く両脇の石を従えるように見える。この三尊石風石組の右側にもうひとつ6番の石が絡んで四石が群れとしてまとまっている。8番と1番はやや手前にあるので距離があり、四石が相対的に独立している。

画像2 大聖院庭園の変形三尊石

なんでこれら四石が組に見えるのか? もちろん近くにまとまっているからなんですが、この大聖院庭園を手がけている古川三盛という親方に話を聞くと石には「関係性」があるという。「似たようで似てない。似てないようで似てる。そういうのがあるとリズムが出てくる」と言うんですね。しかも重複は駄目で反復はいい。反復がリズムを生み出すんだと。質問にたいしてこう即答できるということは、石同士の関係やリズムをすごく意識してつくっているということだと思うんですね。ごたごたした石の海のなかに、反復のリズムをつくり出すことで石組をつくるということを考えている。

次の画像を見てください(画像3)。この四石は低い石と高い石がひとつの組になり、それが左右二つ組みあわされているように見える。なぜ組が二つあるように見えるかというと、左側の組は二石とも右斜め上を指向する線を共有していますね。それに対して右側の組は二石とも稜線が山なりになっている。しかし同時に、これら四石はふたつの組としてではなく、ひとつの「変形三尊石」としても見えるのでした。つまり、これら左右の二つの組をまたいだ石同士の「関係性」もなければならない。

画像3

さっき左の二石は「右斜め上を指向する線」を共有していると言いましたが、よくよく観察すると、右側の組の左の石、つまり右から二つ目の石の前面にも同じ方向性を持った線が走っている(画像4)。それに気づくと、右上がりの斜線は左右の組の左側にある石同士が共有していることがわかるし、右側の石はどちらも、左の面はゴツゴツして、右の面は同じ角度を共有している。ようするに組をまたいだ反復がかたちづくられている。

画像4

さらによく見ると、左右二つの組の右側の石も前面に、暗示的にですが、「右斜め上を指向する線」が走っている(画像5)。四石は二つの組からできているんだけど組同士を結びつける造形的要素も持っていて、さらには組を超えて全体が共有する要素も持っている。でも石はあからさまに似ているわけではない。古川の語彙で言えば「重複」ではなく「反復」になっている。つまり「似たようで似てない。似てないようで似てる」ということですね。

画像5

反復を見るということは、庭全体をスキャンする視線が似たところ同士をハイパーリンクのように結びつけてジャンプするということです。視線が走る、ゆっくり彷徨う、ヒュッと飛ぶ、また彷徨う、ヒュッと飛ぶ——みたいなことが繰り返されることで、庭を見る視線に速度の落差ができ、リズムが出てくる。1、3、5章では、こうやって徹底して目の前にあるかたちを見て記述することをおこなっています。

池田:庭の解説というと鶴亀の庭といったような「ありがたい」意味の紹介になりがちだと思うのですが(笑)、山内さんの本では、普段なかなか気にすることのない石組の造形的な配置やそのリズムについて、それが作られるプロセスを追いながら丁寧に観察して記述されています。今見せていただいた例では、置かれた複数の石が形態的に反復しながら空間に抑揚を作られることで、視線にリズムが生まれていくわけですね。

山内:はい。この四石以外にも多くの石が周囲にあるわけですよね。反復しているものもあれば、そうなっていないものもあり、直線的に並んでいるものもあれば、ジグザグになっているものもある——という感じで散らばっている。こうした無数の石同士の具体的な結びつきかたによって、庭を走る視線に速度の落差や、方向の斉一性や、動きの回遊性を生み出していると思いました。

さて、この作庭現場を観察していて面白かった点は他にもいろいろあるんですが、そのひとつが、偶然を取り入れながら即興的に石組をしていくところですね。石組もかなり進んで工事が終盤にさしかかったとき、親方が職人たちに「ちょっとあそこの茂みを整理して」と繁茂しているセンリョウを整理させた。すると茂みの奥から過去の庭に据えられていたけれど隠れていた、立派な景石が出てきてしまう。つまり今回の作庭工事は、もとあった庭の上に庭を上書きしているんですね(画像6)

画像6 中央奥のやや高い石が偶然現れた石

大聖院庭園には奥の土塀に沿ってサツキが植えられているんですが、その足元には江戸時代にこの庭がつくられたときの石組があった。けれど、百年を超える管理のなかでサツキが巨大化し、もとの石組は見えなくなっていたんです。たしかに石はずっとそこにあったんですが、僕も含めて現場にいた誰も気づいてなかった。

こっちで新しく石組をしていたのに、もともとあった石組が偶然現れて割り込んで来た。しかもこの石には、庭の構想を左右するほどの存在感がある。普通だったら今回の作庭工事で据えた石でもないし、なかったはずの石なのだから、どけてしまいそうじゃないですか。ところが古川さんは、この偶然的な石にすぐさま別の小さな石を添えることで、自分の石組の一部にしてしまうんです(上図中央奥の偶然現れた石の左下の小さな石が添えられた石。手前の石組と奥の石をつないでいる)

ようするに、偶然現れた石に即興的に別の石を添えて「補強」している。池田さんのリヒター論(「分割と接合――ゲルハルト・リヒター《リラ》」『ユリイカ』2022年6月号収録)の註釈に書かれていた「補強」です。リヒターは左右二枚のパネルを一組の絵画として描きながら、制作途中で各々反転させたり左右入れ替えたりして二枚組絵画としての有機的な結びつきを破壊するのですが、その後、左右を横断する筆触を部分的に描き入れることでギリギリの接合を果たす。先ほどの小さな石はこの筆触と似ています。まったく異なる文脈から偶然現れたものにちょっと手を入れることで、部分的に我有化し、成立させる。

ただ面白いのは、今この変形三尊石を見に行っても、もうないんですよ(笑)。住職が現れて「あの裏切れ込んでいるやつは人工的違いますか? どうなんですか?」とか言って、全部やり直しになるっていう(笑)。庭っていろんな角度から見れるので、裏側は見落とすこともある。この変形三尊石については造形的にめっちゃ分析してたんですが、その分析も無に帰してしまった(笑)

そもそも作庭工事では、つくっているあいだはなにもかもが仮置きなんです。だから、ほとんどの石に移動用のワイヤーを通したままで作業が進展していく。全部、仮、仮、仮。ただ、その「仮」が、職人たちを触発して次のかたちを導くんですね。変形三尊石のようになくなってしまうとしても、一度発生したかたちは次のステップに影響を及ぼしていく。だから、この生まれたり消えたりする「仮」の連続をひたすら記録していくことは、結果的にではありますが、非常に重要だった。こうした手順を36手目まで記述したんですが、この明滅する仮置きの変遷そのものがリアルな制作の現場だということなんですね。

こうして見てくると、作庭の現場では図像とか故事とか、そういったもの以上に、目の前にあるかたちに基づいて作業が進展していくことがわかると思います。このリアルを本書では「庭園の詩学」と題した奇数章で書いたんです。故事とか歴史の「深み」で語るのではなくて、本当に浅はかなくらい浅い、目の前のかたちの「浅み」をしっかり見ることを徹底しました。

これはあとから気づいたことですが、僕はたぶん職人たちの言葉もそのように扱っているんですね。インタビュー中に、いまのはちょっとはぐらかされたかなとか、適当に返されたかな、ということもあったのですが、そこで出てくる言葉の「浅み」を重視している。反射的に放たれたかのような言葉でも、他の無数の言葉や現場の状況と結びつけるとこう言っていると考えざるをえない、というふうに議論を進めているんですね。石組をかたちの「浅み」で見るのと同じように、反射的に返された言葉を解釈することで、言葉のかたちや配置の「浅み」から理解するということなんだと思います。

では、そもそもこの現場で職人たちがどう庭をつくっているか、石を組んでいるかという話しをしましょう。ひとことで言うと、この現場の庭づくりは「ありあわせの素材による即興」です。まず素材ですが、古川さんが買いつけにいったという福知山の石材屋の土場に行くと、こうやって大きな石がいくつも積み重なっていくつかの山になっています(画像7)。古川さんはこの重なりあって奥がよく見えない石の山を、崩しもせずに即決している(笑)。ほしい石のかたちを先に決めて、それにあう石を探し回る人もいます。でも古川さんはそうしない。「たまたまそこにあった」という出会いの偶然性によって、素材の選択肢の無限性を圧縮してしまうことだと思うんです。

画像7 地元の石材屋の土場の一画

彼がよく使う喩えに「冷蔵庫のなかにあるもので料理できる人が一番の料理上手」というものがあります。頭のなかだけで「今日何食べよう?」と考えても、無数の選択肢を前にしてなにも思いつかなくなるということがありますよね。そうではなく、とりあえず冷蔵庫を開けるとか、買い物に行くとかして、たまたま出会ってしまう「ありあわせの素材」によって無限の可能性を圧縮すること、方向づけることがなにかをつくるときには重要になる。千葉さんとご一緒した『ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論(千葉+山内+読書猿+瀬下、星海社新書)の座談会でも話題にした「制約の創造」です。

そうやって決めた石を、次はどこにどう配置していくかです。古川さんはまず、土場で即決した石の山をとにかく庭に搬入してもらいます(画像8)。この石の海を見ながら、決まったものからあちらこちらへと移動させて即興的に据えていく。この現場には設計図もなければ、構想についての話もありません。職人たちもこの庭がどうなっていくかわかっていない。不安に駆られた住職が、どうやって石を決めていってるんですかと聞いたら、古川さんは「こはん(乞はん)にしたかひて」なんだと言うんです。それは石の「求めるところにしたがう」ということを意味する平安時代の『作庭記』の一節なんですね。石を据えるとき、まずは主になるいい感じの石をどこかに据え、あとは、最初の石が求めるところにしたがって次の石、次の石をと据えていくんだと。

画像8 地元の石材屋が庭に次々と石を搬入する

石が求めるって現代人にとっては完全に意味不明ですよね(笑)。石が「次の石はあそこに置いてくれー」とか言うわけないんです。それでも古川さんが石の「求めるところにしたがう」という言葉にある種のリアリティを感じていると想定するなら、自分の判断だけで石の配置を決めているわけではない、という直感があるということです。自分以外のなにかに、なかば行為させられている。だからこそ石が求めるなんて言葉が口をついて出るんだと思います。本書の布石の分析から見えてきたのは、ひとつの石が置かれることによる場の変化がこの老庭師を巻き込み、この変化した場が次の石の配置を強く制約してくるという事態です。だから古川さんは、なかば石に行為させられる感覚を覚えるんじゃないかと思います。

この石の話も『ライティングの哲学』で言及しました。たとえばぼくたちは何かを書こうとするとき、白紙を前にするとフリーズしてしまうんです。でも、あらかじめいくつかのメモをつくっておくと、それらが所与の素材となり、メモに触発されることで書きはじめることができる。それと同じように、まず石をひとつ据えると、次の石が決まっていく。そう考えるなら最初の石でさえも白紙に打たれるわけではないんですね。そもそもの所与がある。「植栽のかたちがこうなっているから、あのあたりに置きたい」とか「あらかじめあった石組の一部がここに露出しているから、それとの関係でここに据えてみたい」ということになるんです。

こうしたことが「庭園の詩学」と題した奇数章で書いたことですね。

偶数章の「庭師の知恵」で注目しているのは、職人たちの言葉や体や道具の使い方がすごく面白いということ。たとえば言葉だと、庭師は「ぬすむ」という言葉をたびたび口にするんですね。これについては4章で詳細に書いていますが、「ぬすむ」というのは、一般的に想像されるような「他人のものを盗る」という意味での「盗む」ではなく、「人目を忍んで、密かにやりくりする」という意味で、本書では「偸(ぬす)む」という漢字をあてています。ここまで喋ってきたように、この作庭現場で庭は設計図なしで即興的に、言ってしまえばDIY的につくられる。だから、現場にはたびたび齟齬が現れるんですね。たとえば板石を並べていくだけのことでも板石そのものが歪んでいますから、レゴブロックみたいに並べるだけではうまくおさまらない場合がある。こっちから見たら正しく見えるのに、反対側から見たら歪んで見え、歪んでいる方をあわせると今度は正しかった方がおかしくなる。こういう状況がたびたび起こるんです。

こういうときに庭師たちは「偸みましょうか」と言うんです。これは、理想的な基準にしたがって石を置くことを目指すのではなく、ある意味では理想的な基準の諦めです。精確に置こうとしてもあちこちから見たときの複数のパースペクティブを満足させることはできない。だからどちらから見ても微妙に狂っているんだけど、「まあいいでしょう」という状態へと物を折衝していくしかない。片側から見たら合っているけど反対側から見たら歪んでるような状態ではなく、どっちから見ても微妙に歪んでおり、しかし絶妙に整合しているようなギリギリのラインを目指す。この作業を職人たちは「偸む」と言うんです。

池田:「偸む」の話は面白く読みました。素材自体が均一ではないなかで、それぞれの素材の個別性を活かしたまま、それなりに整って見えるように職人たちが作業していく。その素材同士のすり合わせ的な微調整を「偸む」という言葉で表現していて、制作の場面でもヒントになりそうだと思いました。職人の世界では一般的に使われている表現なのでしょうか。

山内:他のグループに属する庭師たちが使っているかまでは分からないのですが、舞台の世界でも使うと聞いたことはあります。使う場面が大道具の配置だったか、立ち位置を決めるときだったかは忘れてしまいましたけど。だから、物の配置をどう折衝して成り立たせるかというときに使う言葉として、昔から使われていた言葉なんだと思います。日常的には使われなくなったけど、そういう折衝を日々おこなう界隈には残っているんじゃないかと。これが正しいんだという理念的な基準を設定し、異質な要素もそこに無理矢理嵌めこんで包摂しようとするのではなく、どちらにとっても微妙に正しくない状態で拮抗させるということですよね。これが「こっちが正しいんだ」「いや、こっちだ」と言いはじめると終わりなき戦いになってしまう。

このとき重要なのは、「偸む」ことは物を折衝するだけでなく、相矛盾する複数の見た目を担保している職人同士のパースペクティブを折衝することをも意味している。ある職人が「ここ、歪んでるで」と言う。でも、向こうにいる人は「いやいや、ちゃんとなってるから」と言う。それだと「いや、こっちが正しい」と喧嘩になるわけですよ。でも物を「偸む」ことによって、職人同士も折衝される。「物」を媒体にして「者」をも折衝する。非常に面白い技術であり知恵だなと思いますね。

池田:いくつもの角度から、見え方を擦り合わせていく感じですか。

山内:そうですね。しかも、擦り合わせるといっても正しい地点に達することを意味するわけではないのが面白い。互いに正しくはないけれど、それなりに拮抗する地点に達するんです。まさしく2、4章のサブタイトルにあるとおり「庭師の知恵」なんです。もっと広く、多様性に呻吟する僕たちの世界の「生活の知恵」といってもいいかもしれない。職人たちはつねに物を介して互いのパースペクティブを交換しているということです。杭を打つ場面がわかりやすいのですが、掛矢(かけや)で杭を打つ職人は左右の傾きには敏感ですが、前後の傾きは分かりにくい。だから杭を支えるもう一人の職人が90度くらいの位置からチェックすることで左右の傾きを、つまり掛矢で打つ人にとっての前後のズレを指摘する。もちろん支える人にとって分かりづらい前後の傾きは打つ人が確認していることになる(画像9)

画像9 職人たちの異なるパースペクティブが一本の杭を介して折衝される

こうして職人たちは物を介して、物を別々のパークテクティブから見ることによって、1人だけでは到達できない複雑な物の見かたをつくり上げ、しかも、物によって職人たち相互も折衝されるということです。それを象徴する場面が三叉(さんまた)の運搬です(画像10)

画像10 左の職人が手前のサツキをかわそうとして右に移動したことで三叉のバランスが崩れる。職人たちは互いに視線を交わしながら呼吸をあわせるわけではない。むしろ、三叉の重心と呼吸をあわせ、三叉を介して結びつけられている

この丸太を束ねた装置が三叉です。束ねたところにチェーンブロックという人力クレーンをつけて重い石を吊り上げる装置なんですが、作庭現場では石を据えるたびにこの重たい機構をあっちへこっちへと移動させる。三人で抱えて歩くのですが、三本の丸太がワイヤーで縛ってあるだけなのでグニャグニャしますし、ちょっとバランスを欠いたらすぐ倒れてしまう。左手前の職人は左側にあるサツキを避けないといけないので、右に移動しようとしている。すると、上端が右に突き上げられるので三叉は右に倒れそうになっている。右手前の職人はそのいびつな揺れを背後に感知してその場に止まり、踏ん張っている。後方の職人もバランスを欠いた上端を見ている。これは共同作業なのですが、実のところ職人たちは互いにコミュニケーションをとっているというよりは、この重たい物体を介して結びつけられ、コミュニケーションをとっている。人と人が直接結びついているのではない。物体が倒れそうになれば、そちらに移動せざるをえないというかたちで相互に結びつけられている。ようするに物を介したコミュニケーションこそが、職人の世界では重要だということですね。

偶数章の「庭師の知恵」についてはこんなところでしょうか。1、3、5章の「庭園の詩学」パートでは庭のかたち、とりわけ石がどうやって配置され、相互に結びついていくのかを徹底的に見ましたが、2、4章の「庭師の知恵」パートでは、職人たちの言葉や技、あるいは物や道具とともに庭師たちがいかに働いているかを徹底的に描き出したということです。

まとめると、この作庭現場に設計図はありません。無限にも思える与件を、たまたまここに来た石という偶然による制約によって圧縮する。古川さんが即興的に石を組むのは、即興的な自由を求めているというよりは「制約の創造」によってはじめてつくれるようになるということで、最初に置いた石によって次の石の配置を制約し、また次置くことで次を制約し——という流れをつくることで「ありあわせの素材による即興」を成立させる。こうしてつくられていく物体相互の齟齬は偸むことで折衝し、物を介して職人たちは相互に結びつけられ、互いに折衝されながら、物に導かれるようにして庭をつくっていく。これがこの作庭現場の観察から導かれる、具体的な庭の制作術ではないかなと思います。庭の制作は確たる基準がないなかで、適当に置いた素材やしるしを少しずつ相互に結びつけながら進展していきます。こうした仮の結びつきを幾重にも張り巡らせることで相対的に安定した構造物をつくりだす試みが庭づくりなんですね。

いやあ、ずいぶん長くなりましたが、これがこの本のあらましです。

 

後編につづく

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庭のかたちが生まれるとき 庭園の詩学と庭師の知恵

山内朋樹=著

発売日:2023年08月26日

四六判・並製|384頁|本体:2,600円+税|ISBN 978-4-8459-2300-7