庭師であり美学者である山内朋樹さんは、著書『庭のかたちが生まれるとき 庭園の詩学と庭師の知恵』で、作庭のプロセスを徹底的に観察するとともに、その造形(かたち・構造)の論理を分析し、「制作されるもの」と「制作するもの」の間に起きていることについて記述しています。
本書の内容は作庭だけではなく、絵画やダンスをはじめとする芸術作品全般、または料理やビジネスなど多くの場面で応用可能なものになっており、刊行以来さまざまな読者層に読まれてきました。
本書の刊行を記念して開催されたイベントで、千葉雅也さん(哲学者、作家)、池田剛介さん(美術作家)、そして山内朋樹さんという、それぞれ異なるフィールドで活躍する三人に、芸術作品を見ること、さらには「書くこと」や「制作すること」など、「かたち」をめぐる議論を展開していただきました。
※本記事は2023年10月7日(土)にMEDIA SHOP(京都)で開催されたイベント「山内朋樹『庭のかたちが生まれるとき』刊行記念トークイベント かたちを見る、書く、つくる」を再構成したものです。
前編はこちら
池田:作庭現場での山内さんの観察の姿勢が伝わってくるお話で面白かったです。最終的にできあがった状態から庭を考えるというのではなくて、これからどうなるか分からない状況のなかに山内さんが飛び込んでいく。なので途中の石組の細かな配置の分析をした挙句、作庭が進むなかで、せっかく分析した配置がなくなってしまうことも起きる。もちろん実際にはフィールドワークを終えた段階で庭はひとまず完成しているわけですが、本の中では庭が今まさに生成されていくかのような仕方で書かれていますよね。
絵画との共通性というところで僕のリヒター論に言及してもらいましたが、今、山内さんの本のベースとなる連載が行われていたフィルムアート社のウェブマガジン「かみのたね」で、「絵画を辿る」という連載をやっています。そこでも書いたのですが、マティスの作品の多くは完成作としてはすごく平明で軽い感じに見えるのですが、見せていただいた作庭と同じく最終的な設計図がないまま進めていて、実は長時間かけて描いたり消したりしながら制作している。最終的な作品だけを見ても途中の段階はよく分からないのですが、ある時期からその試行錯誤のプロセスを写真に撮っていて、制作中のプロセス写真を見ていくと、作品がどういうふうに展開していったかが伝わってくる。山内さんのお話を聞きながら、そのことを思い出していました。
山内:池田さんの連載を読んであらためて思うのは、絵のなかに見えるかたちを言葉で描写してもらえるだけでも、いろんなものが見えるようになるということです。書かれている言葉を読みながら実際の画面を辿ることになるから、読んで、見て、また読んで、また見るというのを繰り返す。それだけでも、これまで見えていなかったもの、例えばマティスの《赤のハーモニー》の細部が見えてくるんですよね。
これまで僕がこの絵について感じていたことはおそらく常識的な範囲のことで、まずは、たとえば手前のテーブルにかけられたクロスと奥の壁紙の色調があえて統一されおり、さらにその二つの要素を横断するように青い植物的な模様が描かれることで、本来なら絵の前後関係や立体感を説明できるはずの要素群が薄皮一枚に圧縮されてしまっていること。次に、人物や果物といった中心的モチーフが粗く仕上げられ、屋外の木の葉などが細かく点描的に描かれることで、メインとサブ、前景と背景の関係が逆転されているように思えること。こうした処理によって非常に奇妙な空間がつくり出されているな、というざっくりとした見立てでした。ところが、池田さんの描写を追って見えてくるのは唐草模様のカーブと外の木のカーブが連動しているというような、よりローカルな細部です。具体的に絵の表面に描かれていたのに、大づかみな見方では見えていなかった絵の構造をあらためて見えるようにしてくれる。この、対象を見えるようにする描写、というのは非常に重要な気がしました。
池田:虚心坦懐にいくつかの作品を「辿る」ことを通じて、具体的に分析していくというのが連載の軸になっています。その意味では、山内さんの方向性とも近いですよね。《赤のハーモニー》では、テーブルクロスのアラベスク模様が壁紙にまで広がってゆき、さらには屋外の木のかたちにまで「感染」していく、このことをトレースの図版を交えながら書いています。
千葉:実際にトレースしてみることで、そういった構造に気付くわけですよね。
池田:そうですね。だからトレースがまさにフィールドワークのような感じです。山内さんのように実際の制作現場に入り込むことができる訳ではないのですが、手を動かしながら辿ってみることで作品の構造が具体的に掴める感じがある。実際、僕は美術館で絵を見るときにも、指を動かしながら筆の動きを想像してみることがあります。あまりやると変な人だと思われるので、控えめにやっていますが(笑)。
千葉:やはり絵画のことは、実際に描いてみると分かるわけですよね。自分でも描いてみて、分析を読んでということを何往復かすることで、初めて体で分かってくる。言葉で配置がどうなっているかを追えるように書いているのは、今回の山内くんの仕事もそうですし、平倉圭さんや池田くん、岡﨑乾二郎さんもそういうことをやっていますよね。いわゆるディスクリプション(記述)といわれるもので、対象物がどういうふうにできているのかを言葉に置き換えて記述することです。
美術や庭、音楽や文学など、あらゆる創作物に言えますが、多くの人は、ものがどういう配置でできているのかを分析的に見ることができない。なぜできないかというと、一つには、言葉でそれを説明するのは、かなり慣れが必要で難しいからじゃないでしょうか。だから、今回のような分析のサンプルが本になることは貴重なことだと思います。読むことで、「こんな文章があり得るんだ」ということが分かってくる。自分で初めて行った空間でも「ここに柱があって、この奥がこうなっていて」みたいな言葉の対応づけがやりやすくなるのではないかと思います。
あと自分でちょっとした絵を描いてみるとわかるのですが、結局は配置的なバランスの問題が重要です。大きなものが片方にあったら、そちらに力が偏る、そうなったら逆側からバランスをとる。すべての絵画や音楽が基本的には、これでできている。なにか強いものがあったら、それに拮抗させる物を置く。そのシーソーが複数のレイヤーにわたって行われる。例えば音楽だったら音の高さ、頻度、音色、和声の種類とか、そういう複数のパラメーターが多次元的なマルチトラックになっていて、そこにさまざまな拮抗関係が生じるように作られているわけです。
直観的にそういうことが分かると、それを言語でディスクリプションしなくても、「ここに置いたらこうだよね」ということができる。その練習が必要で、基本的なバランスをとることから感覚を掴んでいくことになる。部屋の中で、ある場所にソファを置いたら、じゃあスタンドライトはどこに置くかとか、そういう話。だから基本はすべて配置の問題ということができて、庭にしても絵画にしても同じように考えることができる。
山内:そうですね。この本は僕がかつてたまたま庭師をしていたから庭の話になっていますが、もちろん絵画や建築、その他さまざまな分野にも応用可能なことを書いたつもりです。なにかをつくるときに重要な、配置とか力の拮抗とか、そういうことですね。いま千葉さんが言われたことでいうと、こうしたことを理解するには、やはり一度やってみることがめちゃくちゃ大事です。僕は庭の初学者を対象にしたフィールドワークの冒頭で、庭を見に行く前に石組ワークショップをやることが多いのですが、これもようするにやってみるということなんですよ。
まずは自分のお気に入りの石を探してきてもらって、テーブルのような限られた空間にそれをみんなで配置していく。1人目が盤面をよく見ながら最初の石を置く、そしたら次の人はその石と盤面をよく見て、その配置に触発されながら次の石を置く。これを繰り返して石組のようなものをつくっていくんですが、そうすると、素人だとしてもやはり必然的な流れみたいなものが立ち上がってくるんですね。終わったあとで、みんなに「なんでそこに置いたのか」について言葉にしてもらうんですが、みんな驚くほど周囲の石の配置やリズムや流れを感知しながら石を置いていたことがわかる。このワークショップをしてから実際の庭を見にいくと、庭にたいする造形的な感度がまったく違ってくるんですね。とりあえず触りだけでもやってみると、物の見方が本当に変わるんです。
池田:山内さんの本は、そういう実作的な感覚との結びつきが強くありますよね。「三尊石」や「虎の子渡し」みたいな話は、絵画でいうと図像学(イコノグラフィー)のようなもので、キリスト教絵画では百合が純潔を意味していて、みたいな話でしょう。そういうのは、たしかに目の前の作品を一義的な意味として固定してくれるので安心できる面があるにせよ、庭であれ絵画であれ、目の前の具体的な作品には、そうした意味に還元できない要素はたくさんある。
千葉:例えば昔のキリスト教絵画にしても、絵を描くときにはまず、かたちのバランスや偏りを考えて描いていたと思うんです。まず中心に、意味がある人物をドンと描く。では両サイドをどうするか。下に暗い色が来たら上は明るい色というように、そういう作り方は昔から変わっていない。
池田:そこに主題的なレベルとは異なる、造形的なレベルでの論理があるわけですよね。ただ、そういう構造的な分析をし始めると、往々にしてすごく細かい話になっていく感じがする。例えば映画だったら蓮實重彥のような、映画を物語の水準とは別の、表面で起きている運動を論じていくスタイルがありますよね。もちろん蓮實さんの周辺から多くの映画監督が輩出されたわけで、深いレベルで実作と関わっているのは間違いない。美術では、80年代ごろからロザリンド・クラウスやイヴ=アラン・ボワらが、構造主義や記号論を踏まえつつ作品の分析をしていますが、異様に細かく理論的な感じになって、それ以前のグリーンバーグなんかが持っていたような、実作とのつながりは弱くなっていく印象があります。
千葉:文脈を補うと、図像学などはある種の教養主義で、その作品の背景とか「実はこの画家はこういう蔵書を持っていた」とか、そういう蘊蓄から見た世界がある一方で、例えば蓮實重彥は、「ただ画面だけを見ろ」みたいなことを言う。それで「表層批評宣言」とか言うわけですよ。なんでああいうことを言わなきゃいけなかったかというと、その時期には意味や象徴を読みとく権威主義がものすごい強くて、それに対して突っ張らなくてはいけなかった。そのときに「俺はこんなに細かいことまで即物的に見えてるぞ」といった逆の権威主義で突っ張らなくてはいけなくなって、ディスクリプションを普通にすればいいのに、そのディスクリプションをやたら細かくマニアックなところまでやって「この微妙なお尻のかたちがこの映画のすべてを語っている」とか、そういう逆転が起こるようになる。そこまでいくと、いわば、チマチマしたところを指摘する「いじわる姑」的なディスクリプションになっていくわけですよ(笑)。
それでも今振り返ると、あれは時代の必要性だと思うんです。70年代くらいの旧来の権威主義に対抗していこうとするときに、ああいうポーズが必要だった。だけど2020年代になってようやく構造主義的、広く言えばフォーマリズム的な分析を変な突っ張りとしてやらないで、普通にやればいいじゃんという話になってきたということかな。
山内:そうですね。蓮實重彥の映画分析には、とくに学部生の頃に非常に影響を受けました。学部生の頃は美術の学科に属していたので絵を描いたりインスタレーションをしたりしていたんですが、映像を撮ってる友人もいて、日仏会館やミニシアターに一緒に映画を観に行ったり、学内で勝手に映画鑑賞会をしたりしていたんです。たしかその友人が蓮實重彥を読んでいて、「これがこの映画のすべてだ」みたいな蓮實テーゼを面白半分で話題にしていましたが、反面、この人はたしかに見ている…という信頼というか畏怖みたいなものも同時にあって、この両面を通じて僕らは映画の見方を学んでいったというか。当時はVHSのような複製を手にするまでに随分タイムラグがあったじゃないですか? 新作を一回見ただけでこれほどまでに徹底してかたちを見ているのかっていう驚きもあった。
池田:映画館で見て、細部まで記憶してしまうわけですからね。
山内:そう、やはりそのすごさはあったと思います。
千葉:動体視力の良さとか、どれだけ微妙なところが見ていたかが競争になっちゃう時代がありましたよね。
山内:だから薫陶を受けつつも、そうではない仕方で書くということですね。
千葉:そう思います。
池田:山内さんの本は、1、3、5章の「庭園の詩学」パートではフォーマリスティックな形式分析が展開されて、その間の2,4章で庭師たちのコミュニケーションや物との関わりをめぐる「庭師の知恵」パートがサンドイッチされている。その都度、制作の現場に着地する感じで、これらがハイブリッドになっていることが面白い。
山内:なんでこういう構成になったのかよくわからないのですが、かたちの分析をしていても、作庭現場にはそこにとどまらない余剰があるわけです。庭師たちの言葉や、道具や体の使い方というような。それらも庭づくりの重要な一部をなしていると思っていたんですね。読者にとっては、どこまでも石の話が続く奇数章よりも、職人たちが生き生きと描かれる2、4章の方が面白いんじゃないかと思います。もちろん奇数章の分析の方も僕が一番やりたかったことだし、もちろん重要だけど、非人間的なんですよ(笑)。ずっと「初手が右手前に来て、二手目がやや左奥に行き、三手目が大きく左に開くことで布石がこうなり…」と続くから。
千葉:それは棋譜のイメージですか?
山内:まさしく、です。この「初手」「二手目」「布石」といった語彙はおそらく囲碁から来てると思います。庭を教えてくれた学部時代の先生に囲碁がセミプロレベルの方がいて、囲碁の布石と庭の石組を横断した語り方をしていたんですね。その人が「布石」とか言っていたんじゃないかな。
千葉:ああ、その言葉が残っている?
山内:そうそう。僕自身も彼の影響で囲碁を囓ったし、そういう言葉遣いになったのかも。本の中でも平面図的なものをいっぱい載せていますが、あれって要するに囲碁の棋譜なんですよね。これの次にこれがここに来てということを番号を頼りに頭の中で再生する、まさに囲碁言語です。
千葉:さっき話されていましたが「偸む」というのは面白い概念ですよね。つまり100%ではなくていいから、丸く治るように誤魔化しましょうという。
山内:そうそう(笑)。誤魔化す。
千葉:すべての制作活動においてありますよね。絵を描いていても、ちょっと上のほうに線を描いて、下のほうにも描いて、それだけではなんかバランスが悪いから、あいだにゴニョゴニョと描き加えることで空間ができる、みたいなこと(笑)。これは文章でもそうなんです。論文指導でもすごく大事で、100%クリアに意味が通ることが大事なのではなくて、「ちょっと微妙なここは、まあなんとかしてよ」みたいな(笑)。論文でも、頭から最後まで綺麗に筋が通っていることなんかなくて、途中でなんか微妙にゴニョっとしているとこがあるんです。それをやりくりするのが「偸む」なんですよ。
山内:本当にそうですね。とはいえ論文にしても制作にしても、一度は綺麗に筋を通すソリッドな世界に飲み込まれますけど。
千葉:いや、もちろん僕だってそれはそうですけど、偸もうと思っていなくても最終的には結局偸むことによって、かたちになることが分かってくる。その経験を卒論、修論と何度も重ねるうちに「最後は偸むしかないんだ」ってなっていく(笑)。これはもう、そのやむを得なさを体で納得するということですよね。
池田:書くことの問題にも通じていますよね。今回、『庭のかたちが生まれるとき』と一緒に、千葉さんの最新の小説『エレクトリック』(新潮社)も読んでいたんです。そうすると面白いことに、フィールドワークに基づく山内さんの本が、かなり小説的に思えてくる。庭師と施主さんの会話なんかは、完全に小説のように読むことができるので。千葉さんの小説も、分かりやすくドラマティックな物語が小説を貫いているのではなく、家やその周辺で起こっていることの場面、その細部の記述が連鎖しながら展開していくので、鋭い観察に満ちたフィールドワークのようにも思えてくる。この二つを一緒に読んでいて、記述的なライティングとしての共通性を感じました。
山内:千葉さんの小説を読んでいるとちょっとした動きとか具体的なものの描写が積み重ねられていくのがすごく印象的ですね。僕の本が小説的かどうかは自分では分からないのですが、記述から立ち上がる具体的なシーンを積み重ねるという点ではそうですね。
千葉:ものの配置という話でいうと、小説の中でどういうふうにものが描かれるかということもそうなんですが、僕の小説の場合は作り方全体がそうなんです。僕は小説を組み立てるときに、大筋のストーリーを立てるというよりも、まず、素材の断片みたいなものがある。それこそ「とりあえず石組をガシャンと一山持ってくる」みたいな。それを並べたときに、どういうコントラストの関係ができるかを考えて、その結果としてプロットができていくんです。それで人間をどう書くか決まってくるので、かなり美術的だし、オブジェクト指向の作り方をしているんです。だから、大きく言いたいことがある感じじゃないんですよ。もっとドライで離散的で、オブジェクトを置いていってみたいなつくり方をしている。最後にそれを縫うんです。それがうまくいかなかったらどうするかといったら、それは偸む(笑)。
山内:千葉さんがツイートで『君たちはどう生きるか』に言及していましたが、宮崎駿も最初はひたすらイメージボードを描くんですね。記述から立ち上がるシーンをつくるかのように。『崖の上のポニョ』の制作を追ったドキュメンタリーなんかを見ると、なんとなくの構想はあるけど、まずは閉じこもってひたすら絵を描く。描き重ねていくと、突如自分が思ってもいなかった絵が現れる。自分が描いた絵を見ながら「恐ろしいね…」とか言うわけですよ。「こんなのがでちゃった、大丈夫かねえ…」と。けれども、言葉と裏腹にこの監督はニコニコしていて「これが最初の絵なんですよ」みたいなことも言うんです。
宮崎駿の制作スタイルから見えてくるのは、先にストーリーの流れが設定されていて、それを具体化していくのではないということです。むしろ自分にとっても予想外の、しかし決定的な断片が絵としてできてしまい、それらの絵に触発されながら組織された出来事の連続が映画として組まれる。この方式が彼のキャリア後半になって強くなってきている。実際に制作の仕方も変わったらしくて、たしかイメージボードや絵コンテを描き続ける時間が長くなった。スタジオではもう制作が始まっているのに、ストーリーは未だ定まってなくて、本人はまだ絵コンテを描き続けている。ストーリーの結末がどうなるか分からないまま、アニメ制作を進めて行くスタイルになったんですね。
千葉:絵コンテが完了してプロットを固めてからアニメーターの人に持っていくというプロセスをやめて、途中でチームを動かし始めちゃうというのをやったのは『もののけ姫』かららしいですね。このあいだ鈴木敏夫さんの本を読んでいて、『もののけ姫』はかなり危なっかしい作り方をしている。『ハウルの動く城』や『崖の上のポニョ』とかになってくると、話はかなり混乱してますよね。
山内:最後は脈絡なく終わりますよね。
千葉:伏線も何も、よく分からない。
山内:『君たちはどう生きるか』を断片的な映像の集積として見ると、非常に痛快で。しかしストーリーを重視して「伏線」とその「回収」の考察に集約しようとすると、途端に破綻した作品に見えてしまうというか、「よく分からなかった」という感想になっちゃう。
池田:千葉さんの小説の場合も、次々に物語が展開していく人間ドラマ的なものというよりは、断片的なシーンの連鎖によって書かれている印象を受けました。先ほどオブジェクト指向と言われていましたが、庭のなかに石や植物といったオブジェクトが離散的に置かれているような感じとも通じている気もしますが、いかがでしょうか。
千葉:雑誌の『ダ・ヴィンチ』で『君たちはどう生きるか』についてのインタビューを受けて、オープンワールドRPGのようだという発言をしたんですよ。時間の流れが独特で、どこからでも出入りできるような神隠し的な時間に入る。これは途中でちょっとトイレに行ったりしたところで「ああ、見逃したな」とは思わないだろうと思った。時間は明らかに一方向に進んでいるにもかかわらず、空間的といえるような時間体験があると思ったんですよね。明確なクライマックスがなくはない。ただ、やはりあれだけの持続を観させる上で重要なのは、「新しいお母さんを探しに行く」という、失くしたものを探しに行く物語の基本形式ですよね。それだけを一番マクロに敷いておいて、あとは全部オープンワールドにする。一方で僕の小説を「庭」ということでいうと、それも一種のオープンワールドなのかもしれませんね。クライマックスはあるといえばあるけれども、もっと小さな山がいろいろあって。
池田: あえて山内さんの本にドラマティックなところがあるとすると、それは人間同士のドラマというよりはモノとの関係にあるんですよね。職人が石を動かすときに、ほとんど『アルプスの少女ハイジ』でクララが歩き出すかのごとく(笑)、石が歩き出したりする。そういう非人間的なレベルでは、ある種のドラマがあるとも言える気がする。
山内:そう言われると僕の本も小説的なのかもしれませんね。石を歩かせるシーンはたしかに地味にドラマティックです(笑)。動画を見てみましょうか。先にみなさんに説明しておきますと、これは園路に敷くための板石を運ぶシーンなんですね。板石はめちゃくちゃ重くて、この板石でも200キロは超えているはずです。だから動かそうとしても動かないんですね。ずるずるねじって押してなんとか移動させている(画像1)。すると、それを見ていた親方が「歩かせえよ! 石は歩くんやで!」と言う。「いや、石は歩かんでしょ」っていう(笑)。
画像1 板石の運搬。低い腰や曲がった膝からものすごい重量が伝わってくる
この職人さんは、だいたいのことは人力でやってしまう古川さんのところでの現場経験が浅く、石を「歩かせる」という事態を体では飲み込めていないんです。古川さんは「歩かせるんや!」と言うけれど、この職人さんは「もう無理っす」という感じになっている。それに痺れを切らした古川さんが職人から板石をとりあげて手を添えると…途端に石が歩き出すんですね(笑)(画像2)。
画像2 静止画では分かりにくいが、板石は古川と連動しながらスッスッと歩いていく
めちゃくちゃ重たい石が、スイスイ、スイスイと歩いて行く。石を「歩かせる」という言い回しのとおり、物に行為主体性を与えることは庭の中では普通に行われているんですね。親方が80歳ということを考えると、常軌を逸したパフォーマンスなわけです(笑)。これがドラマティックかどうかはさておき……本の中ではこうした行為の細部も徹底的に記述しました。その意味では、小説的というか、ディスクリプションによって何かを立ち上げる点では通じるところがあるのかもしれないと思いますね。
千葉:自分でどうにかしようとしても動かないわけですよね。小説に関しても、ちょっとしたフレーズとか、そういうのも「これをどう上手くおさめるか」とやっていると上手くいかない。そういう時は歩かせればいいんです(笑)。
山内:小説に歩かせる(笑)!
千葉:親方が少しやってみせただけで、別の人が「できるわ」となっている。だから、なにかが伝わっているんですね。
山内:職人たちも手取り足取り教えてもらえるわけではないので、いままさに皆さんが「歩かせる」を目撃したように、親方の体の使い方を見て、真似することでできるようになっていく。「そんなことができるのか!」ということを見るだけで違ってくるというか。これまで語ってきた制作論で言い換えるなら、実際に一回作ってみるとか、作品についてのディスクリプションを読みながらあらためて作品を見てみるとか、そういうことが本質的なんですよね。
池田:「こはんにしたかひて」という言葉も、自分が作るのではなく、いかに作品が勝手に展開していくかという話で、制作の上でのヒントになる。
山内:僕はこの本を書くにあたって、最初は「庭づくりの現場を徹底的に書くんだ」ということしか考えていませんでした。けれども書き終わってみて思うんですが、「しっかり見て、なんか作ってみよう、おもしろいよ」というのが、この本の背後にある大きなテーマなのかなと思いました。
池田:具体的にものを見ることは、作ることとも通じていますよね。マティスも自分が線を引くのではなく「線に導かれる」と言っています。つまり完成図がどこかにあって、そこに向かって進んでいくというのではない、目の前の線に導かれながら、その都度かたちを暗中模索している。同じような話では、マティスはタブローそれ自体がもつ力学に従う、というようなことも言っていて、自分を触発する様々な要素をタブローのなかに納めながら、それらにギリギリの均衡を与えることが制作だと。つまり自分が主体として絵を統御するというよりも、いかに複数の要素を作品の中で折衝させていくか、というところが問題になってくる。「偸む」や「歩かせる」といった話は、そうした作品内での対象=オブジェクト相互の関係をやりくりしていく技法として考えられるように思います。
山内:だから、ものづくりをしている方々から「ものづくりのヒントが詰まっている」と言ってもらえたのはありがたかったですね。書店員さんも「棚のつくりかたと石の置きかたが似ている」と言ってくださったし、起業されている方々も「新事業ってこうやってなにかやったらまた次が「求めるところにしたがって」生まれていくんだよ」と仰っていた。ようするに、ぼくたちは作品と呼ばれるものではないにせよ、日々様々な分野で何かをつくっているということだと思うんです。だからこの本で描いた庭仕事がどこかに響いてしまう。集団制作の面白さについても書いているのですが、例えば会社の中でなんらかのプロジェクトを立ち上げて走らせるとか、それを複数人の意見を折衝しながら作り上げていくとか、皆さんの日々のつくる仕事に変換して読んでいただければ、いろいろヒントになったりするのかなと。
千葉:多くの人はかなりツリー状の計画の立て方をしがちで、とりあえずブレストから始めて、まず試しにやってみよう、みたいなことをしない。最近はそういうことを許せる組織や人も増えてきたと思いますが、そのほうが自然だし、やはり基本はものをつくるにせよ関係性をつくるにせよ、まずやってみることが基本なのではないかということですよね。
山内:文章指南の本でも「アウトラインを徹底的に決めてから文章を書け」みたいなのもあるじゃないですか。ああいうのを読んでも完璧に実行することはできないから「自分には才能がないのかもしれない」と思い込んでしまう。けど、例えばアウトライナーについてのTak.さんの本なんかを読んでいると、とりあえず思いつきを箇条書きにしていって、あとでそれらをかき混ぜたり整理したりを繰り返しながら進めていけばいいと書いてますよね。まずはとにかくパラパラと思いつきを出して、ようするに石をいくつか置いてしまって、小説なり、作品なり、プロジェクトなりが自動的に走りはじめる状態をつくってから、「求めるところ」にしたがっていけばいいと。
千葉:マティスのような近代の大家も、インフォーマルなメモや雑多な試行錯誤のプロセスが途中にあって作品をつくっていたはずです。でもそれは完成作からは消去されている。草稿研究をする人たちの目に届くようなアーカイブにすら残っていないメモがあったはずだけど、それはきっと大量に捨てられて、残ってないんですよね。それで、みんなはそれをないかのように思っている。例えば官僚組織的な仕事でも、ある種の手続き的論理をきっちりやるわけだけど、でもインフォーマルな立ち話や相談、メモのやり取りが大量にあるわけで、それが全部無かったことになるわけじゃないですか。でも現実には、それをやっているし、やらないと絶対に動かない。特に若い人は、新たにものを立ち上げようとするときに、みんなそういうことをガチャガチャやっているんだよということを意外と知らないで、いきなりフォーマルにやろうとしてつまずく、みたいなことになりがちで。三島由紀夫はどれくらいメモを書いていたかもっと知りたいですよね。絶対書いているはずなんですよ。
山内:たぶん、カッコつけて消すんでしょうね(笑)。
千葉:そうそう。カッコつけて消してしまうというのもある。
山内:そういうインフォーマルな情報が残っていたら、ぼくたちもずいぶんハードルが低かったはずなんですけどね。
千葉:たぶん死ぬ時は僕も全部捨てますよ(笑)。でも今の時代、クラウドにもいろいろありますからねえ。
山内:これからの時代、研究や取材の対象になっちゃったら、クラウド上の情報も文書からメールやメモまで勝手にアーカイブされる可能性がありますよね。
千葉:可能性があるし、いつ死ぬか分からないからね。
池田:何かものをつくるというのは、最終的に作品がどうなっていくか分からない不確かな状態に飛びこんでいくところがあり、だからこそ作者にとっても思いもよらないものができたりする。ざっくり言えば、かつてのアカデミーであればデッサンで下書きをして隅から隅まで油絵具で塗って完成ということになるわけですが、マティスをはじめとする20世紀絵画は、そうした設計図ありきのところから、より自由な線や色彩に開いていったわけです。今、そういう不確かな状況のなかで手探りすること自体が、難しくなっているのかもしれない。
千葉:美術に関して言うと、「一つの作家は一つの作風じゃなきゃいけない」みたいな作風を固定する風潮が強いと思います。全然違う物をつくったっていいと思う。文章なんかもそうで、例えば僕だったら「小説と哲学的なもので、書き方が違いますか?」といったことを聞かれる。
山内:SNSの影響もあると思いますね。一目瞭然でその人だとわかるアイコニックな作品を継続的に出すことが作家性を担保する状況が強化されているんじゃないかなと。あと、設計図なしの制作についてですが、庭の世界でも、やはり現代になればなるほど、設計図が作られるようになっています。現代の感覚では、未だない庭をなにも見ずに買うなんてことはありえない。だから設計図や完成予想図のような未だない庭の代替物を用意することではじめて契約が成立する。
でもこの本で紹介した庭のケースでは、設計図も契約も何もない。親方も弟子たちも施主の住職さえもどんな庭になるのか分かっていない。この関係は前近代的といったら失礼かもしれないですが、「なんか面白いやつがいるから呼んできて、踊らせてみたら面白かったから、おひねり出す」というような世界なんです。芸事の世界というか。現代の契約関係とはまったく違う。今、制作や仕事をしていくとき、ぼくたちがいかにしてこれに近い関係を身の回りに築いていけるかどうかって結構重要なんじゃないかと思いますね。
池田:古川さんの庭づくりにしても、最終的にどうなるか本人すら分かっていないなかで、施主がお金を出すわけですよね。つまり完成したプロダクトをお金で買うのとは全く異なる、信頼関係に基づく賭けの次元があるわけでしょう。安全性が保証された(かのような)アウトプットがあって、それをお金に交換するというようなものでは全くない。
山内:クラウドファンディングとも違いますよね。何が起こるか分からないし見返りもないかもしれないけど、「あいつだったら、面白そうだからお金出そうか」という関係が成立している。それで言うとSNS以後作風が画一的になってきているんじゃないかという問題も、作り手自身が契約関係を事前に内面化してしまって、いつでも契約可能な状態に作品や振る舞いをコントロールしているとも考えられる。
千葉:確実にこういう物をつくってくれるという予測可能性ですよね。
山内:これから何かを書いたり制作したりする人は、予測不可能であることがある程度許容される状況を身のまわりにつくっていかないと苦しくなっていくかもしれない。
千葉:初めは踏み石が乱雑に積み上がっていて、その状態から、ある程度整えられて完成ということになる。ある意味では適当なんですよ(笑)。大事なのは、最悪ほぼ適当でも成立する仕事があるということ。一方で、原子力発電所の操作とか、すごく厳密でないと成立しない仕事もある。とはいえ、法務なども、微妙なバランスで「偸む」分野だと思いますね。でも、例えば料理なんて食えたらいいわけだし、庭も石が置いてあればいいんだから(笑)。
言ってみれば完全にオープンで、その範囲の中でどれくらいいい感じにするか、ということだから、正解があるわけじゃない。まずその前提が重要ですよね。何か正解があるわけではないし、ある意味では庭っぽければいい。そういうジャンルというのがあって、小説もそうですし、絵画だってそう。そこは意外と大事なところかなと思います。そのときに、じゃあ一体何が「っぽさ」とか完成度になってくるかというと、やはり複数の緊張関係のリズム的なバランスですよね。それがどういうふうに張り巡らされているか、どのように成り立っているのかが重要なんです。
池田:本日は作庭の現場から始まり、かたちの見かたや書きかた、また作品を作ることまで含めて幅広いお話が伺えたかと思います。長時間ありがとうございました。
了
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