映画批評家・須藤健太郎さんによる月一回更新の映画時評。映画という媒体の特性であるとされながら、ときに他の芸術との交点にもなってきた「編集」の問題に着目し、その現在地を探ります。キーワードになるのは、デクパージュ(切り分けること)とモンタージュ(組み立てること)の2つです。
今回は山中瑤子監督最新作『ナミビアの砂漠』。監督と主演俳優の才能が相乗効果を及ぼし、大きな話題を集めています。そんな本作が最後にたどり着いた「切り返し」、そこから全体を貫く「ある原理」のあり方が探られます。
カナとハヤシの、限りなく180度に近い切り返し。この切り返しこそ『ナミビアの砂漠』が辿り着いた地点だった。
カナの携帯にふいに母方の家族からテレビ電話がきて、ひと通り挨拶し終えていきなり通話が切れたあとである。カナが繰り返していた「ティンプトン(わからない)」の意味を尋ねたハヤシがティンプトンと口にするのを受けて、崩れそうになるカナの表情が続く。この映画では切り返しが使われるとき、それまではいわゆる肩越しだったりして、対話相手の一部がかならず画面の片隅に残されていた。それに対し、ここではなるべく相手を画面に入れないようにしている。2人の顔を真っ直ぐに見据えたい。しかし、2人をそれぞれ真正面から捉えるために、俳優を個別にし、カメラに向かって演技をさせるなど論外だ。ショットの構成を優先させて人物を配する愚を避けながら、人物の正面と正面とを交互に繋ぐ、この切り返しの最も純粋なあり方をいかにして目指すか。山中瑶子はこのせめぎ合いに賭けた。
それは切り返しを主題化した映画にとって、最後に引き受けるべき課題だったはずだ。
だが、ここで問題にしたいのは、こういった切り返しの扱いに対する自覚のことではない。というのも、『ナミビアの砂漠』を見ていくうちに、切り返しはたんに編集の一手法である以上に、ある概念的操作であることに気づかされるからだ。切り返しとはそもそも対(つい)という概念を生み出す操作のことであり、それによって、「話し手/聞き手」や「見る主体/見られる対象」などの2つで1組のペアが生じることになる。1つの与えられた状況を切り分け、2つのものを作り出す。そこに対があるから切り返しが使われるのではなく、むしろ切り返しが使われることで対が生み出されるわけである。
やはりゴダールの発言を思い出す——「アリストテレス以来、この種の「あれかこれか」はいつもついて回るが、これは科学的にはどうでもいいことだ……。「2つに1つ(de deux choses l’une)」ではなく、むしろ「1つに2つ(de l’une deux choses)」なのだ……」[1]。ゴダールは「2つのうちどちらか1つを選ぶこと」を意味する「2つに1つ」という言い回しをもじって言葉遊びに興じ、「1つに2つ」という聞き慣れない表現を生み出す。1つのうちから2つを選ぶことなどできなそうだが、要は「1つのうちに2つのものを見出すこと」が意味されていると考えればいいだろう。
異質な2つのものを組み合わせる「モンタージュ」に長けたゴダールにとって、排中律(AはBであるか、または非Bであるかのどちらかである)や無矛盾律(AはBであると同時に非Bであることはできない)のようなアリストテレス流の論理法則は、映画とは無縁のものである。しかし、ゴダールは「2つに1つ」に囚われた思考を批判し、2つをともに維持することを求めるばかりではない。それと同様に——あるいは、それを実現するために——重要なのは、1つのものを切り分けること、そして組み合わせられるべき2つのものを作り出すこと、つまり「デクパージュ」である。
ゴダールのこの発言自体は、フィクションとドキュメンタリーの区別ができないこと、1本の映画がフィクションであると同時にドキュメンタリーでもあることを主張する文脈でなされたもので、その意味ではことさら珍しい見解ではない。しかし、「1つに2つ」の原理がモンタージュとデクパージュの問題に関わるとするなら、これは1つのものを切り分け、2つで1組の対を生み出す「切り返し」の根本原理をみごとに要約したものだ。
『ナミビアの砂漠』の全篇を貫くのは、まさにこの原理である。たとえば、ハヤシはカナに2回の提案をすることで、「2つに1つ」から「1つに2つ」へという方針の転換を文字通り辿ることになる。
カナ(河合優美)はホンダ(寛一郎)と暮らしながら、たびたびハヤシ(金子大地)とデートを繰り返し、気持ちもすでにハヤシに移りつつある。そんな状況のなか、ハヤシはカナに言う——いまの恋人とは別れてほしい。次は別れたあとのカナに会いたい、と。おれか、あいつか。2つに1つ、というわけだ。
「わかった」と応じたカナはホンダの家を出て、ハヤシとの同棲を始める。しかし2人の関係もそうそう順風満帆とはいかない。喧嘩をし、その結果、カナは大怪我を負ってしまう。そんな状況のなか、ハヤシはカナに言う——「1人1人でありたい」とか、「2人組で、互いに溶け合っていくのは怖い」とか。要するに、2人で1つになるのではなく、1つと1つであるようにしよう、と。1つに2つ、というわけだ。声を失ったカナは、それに対して何も答えないのだけれど。
ハヤシは車椅子に乗ったカナの手足となって動くが、かといって2人は一心同体になるわけではない。あるとき、手持ち無沙汰のカナはハヤシに「振り向け」と念を送ってみる。すると、これがあろうことか、通じてしまう。しかし言葉を介さずとも考えが伝わり、2人が1つになるかというとそうではない。念が通じたとたん、カナの声は戻り、体も動きを取り戻す。ハヤシの「1つに2つ」は呪文のようにずっと効力を発揮し続ける。
ことはハヤシとの関係に限らない。カナは映画を通じて何度も「1つに2つ」の原理に直面し、なんでも2つに分割することを学んでいく。職場では本音と建前が、カウンセリングでは仕事とプライヴェートが区別される。なにより顕著なのは、カナ自身が身体と意識に二分されることだ。
終盤、ハヤシとカナが喧嘩を始めると、その喧嘩の情景を携帯の画面に見つめるもう1人のカナが現れる。ピンク色の壁に囲まれた不思議な空間に、ぽつりと設置されたランニングマシーン。カナはスナック菓子を頬張りながら走っており——カロリーの摂取と消費の同時進行——、気の抜けた表情で自分たちが自宅で喧嘩する様を見ている。あたかもカナの意識が乖離して、自らの身体を客体視しているかのように。
『ナミビアの砂漠』が「1つに2つ」の原理に忠実だと思うのは、このときも意識を身体のメタレベルには位置付けず、たんに「2つ」であることを示すからだ。たしかにこの場面は俯瞰で撮られ、意識が身体を見下ろしているように見えるかもしれない。ところが、この空間自体はどうやら一段低いところにあり、カナは階段を上ってここから出ていく。また、次に続く場面では、今度は身体が意識を俯瞰するようなかたちでキャンプのくだりが導入される。身体と意識は並列されることはあっても、そこに上下の序列はないことが明示されている。
唐田えりか演じる隣人が焚き火を前にして語るのは、一方で「2つに1つ」の原理への反論であり(「わかる、わかるよ」と言われるのは嫌なようでいて実は嬉しいはず)、他方で「1つに2つ」の原理の応用である。彼女はカナに言う——パンダアリもハチクマもウミネコも、それぞれパンダと蟻、蜂と熊、海と猫を組み合わせて作られた名称でありながら、2つに分けたとたんに意味に失調をきたすのは理不尽だ。もしウミネコが猫だったら、海が好きでいられたのに、と。パンダアリとハチクマとウミネコがモンタージュの産物であるなら、それはやはりデクパージュできなくてはならない。パンダアリがパンダであり蟻であるような、ハチクマが蜂であり熊であるような、ウミネコが海であり猫であるような世界が求められてしかるべきなのだ。
「やってること」と「思ってること」が違うのは、はたして怖いことだろうか。カウンセラーはカナの質問に直接的には答えない。そうだとも言えるし、そうではないとも言えるから。いや、たぶん問いの立て方が間違っているのだ。それでは誤った答えへと導かれてしまうだけだ。だから、カウンセラーは問いを脱臼させる。
ハヤシはあのときまだわかっていなかった。「1つに2つ」を提案しながら、まだ「2つに1つ」に囚われていた。2人一緒か、1人1人か、そのどちらかを選択しなければならない謂れはない。2人は一緒にいる、そして個別の存在である。ただそれだけのこと。最後の切り返しがかろうじて示してみせた、そのままに。
註
[1] Jean-Luc Godard, « Les dernières leçons du donneur. Fragments d’un entretien avec Jean-Luc Godard », Cahiers du cinéma, nº 300, mai 1979, p. 68.
『ナミビアの砂漠』
脚本・監督:山中瑶子
撮影:米倉 伸
照明:秋山恵二郎
録音:小畑智寛
リレコーディングミキサー:野村みき
編集:長瀬万里
音楽:渡邊琢磨
出演:河合優実、金子大地、寛一郎、新谷ゆづみ、中島 歩、唐田えりか、
渋谷采郁、澁谷麻美、倉田萌衣、伊島 空、堀部圭亮、渡辺真起子
2024年|137分|PG12|日本
制作プロダクション:ブリッジヘッド コギトワークス
企画製作・配給:ハピネットファントム・スタジオ
©2024『ナミビアの砂漠』製作委員会
公式サイト:https://happinet-phantom.com/namibia-movie/
公式X:@namibia_movie
公式Instagram:@namibia_movie
全国順次公開中
バナーイラスト:大本有希子 @ppppiyo (Instagram)