映画批評家・須藤健太郎さんによる月一回更新の映画時評。映画という媒体の特性であるとされながら、ときに他の芸術との交点にもなってきた「編集」の問題に着目し、その現在地を探ります。キーワードになるのは、デクパージュ(切り分けること)とモンタージュ(組み立てること)の2つです。
今回は日本劇場初公開となるベット・ゴードン監督特集から『エンプティ・スーツケース』を論じます。映像と音声、イメージと言葉の間にある「分裂」のもたらす本作のエネルギーとはいかなるものなのか。
『エンプティ・スーツケース』の最後に指名手配書のような文書が映される。FBIが作成した、ウェザーアンダーグラウンド(別称ウェザーマン)のバーナディーン・ドーンの情報を集約した資料である。ウェザーアンダーグラウンドは国家に宣戦布告した極左集団で、1969年から1976年にかけていくつもの爆破事件を起こしたことで知られる。その指導者の一人だったドーンはFBI十大最重要指名手配リストに入れられていた。映画はその直前に字幕画面を挿入し、この指名手配犯がいかなる人物かを伝えている。彼女が革命のために暴力を辞さない政治グループに入ったこと。爆弾攻撃の後、密告があって十数名のメンバーが逮捕されたこと。彼女も勾留され取り調べを受けたが、その後国外に逃亡したこと。
ベット・ゴードンは脚本を一緒に書いたカリン・ケイに向かってこんなことを言っている——自分の興味は現実よりも表象やイメージにあって、ここに出てくるFBIの手配書に関心があるのも、これが新聞写真やポスターのようなイメージだから、ウェザーアンダーグラウンドで活動する彼女の現実とは異なるものだから。自分の作品はそういう彼女の人生とかならずしも関係があるわけではないのだ、と[1]。たしかにこの資料も作中に多く出てくる広告や絵葉書となんら変わることない一つの「イメージ」にちがいない。
しかし、たんにそれだけの話というわけではなさそうである。というのも、『エンプティ・スーツケース』を何度か見返すうちに確信することになったが、この作品の目的はイメージを顕揚することにも否定することにもなく、むしろイメージをもとにイメージの爆弾を作り出すことにあるからだ。
『エンプティ・スーツケース』の戦略はごく単純なものだ。看板やポスターなど広告のイメージがふんだんに引用されるといっても、その手つきはシチュアシオニストによる「転用」とは無縁である。作中で使われる言葉を用いるなら、ベット・ゴードンは「統一(unity)」よりも「分裂(split)」を重視し、分裂が引き起こすエネルギーに賭けてみせる。冒頭、フライト情報の音声案内に続いて、核分裂の話が始まるのはそれゆえである。核分裂の連鎖反応から巨大なエネルギーが生まれ、それを兵器として利用すれば原子爆弾ができあがる。
ゴードンはウェザーアンダーグラウンドの面々に倣って、警察署や裁判所からペンタゴンや合衆国議会議事堂にまで爆弾を仕掛けて抗議運動を展開しようというのではない。映画の中盤では爆弾の原材料が説明されたり、爆弾の作り方や保管の仕方などが語られるが、それは爆破行動への呼びかけではない。もしテロリズムが現実の暴力を象徴として用いるものだとすれば、ゴードンは象徴的な水準での暴力行使が現実に影響を及ぼすことを目論んでいる。イメージの世界に分裂をもたらし、分裂がまた別の分裂を誘発して連鎖反応が生じることになれば、いずれは原爆にも匹敵するようなとてつもない力が生み出されるはずだ。『エンプティ・スーツケース』はそんな仮説でもって始まり、「分裂」をモチーフにしたシークエンスを順に繋いで連鎖反応を目指すという基本構成をとることになる。
このような作品全体の構成を支えているのは、主人公を設定しながら、まずはそれを分裂させるという選択である。先にも参照したカリン・ケイとの対談で、監督は言う——「一人の登場人物を表現するのに、スタンドインを使うような具合で複数の登場人物を使った(すでにイヴォンヌ・レイナーもやったことだけれど)。観客が一人の登場人物に同一化しないようにするのは、伝統的な物語のあり方を再構成することに繋がる。私の映画には物語のようなものがあるけれども——一人の女性がニューヨークとシカゴを行ったり来たりし、どちらに住むべきかを決められない——、映画はこの物語から離れて、物語を語ること一般の問題(一人称と三人称)を、性的差異と暴力の問題を、文化と言語における女性の位置が不安定で変わりやすいという問題を扱うようになる」[2]。
FBIの手配書には「マリオン・デル・ガド、バーナディーン・ドーン、バーナディーン・レイ・オーンスタイン、H・T・スミスとして知られる」と注記されていて、要するにそこでは複数の名前を一人の人物に統合することであるイメージが編み上げられていた。とすれば、一人の人物を複数に切り分け、何人もの女性たちを登場させるゴードンは工程を逆転させている。それは物語の脱構築に繋がる点では美学的な操作だが、FBIの手続きに反対するという意味では文字通り反体制的な振る舞いであり、きわめて政治的な選択ということだ。
分裂とは言い換えれば分割とか分離といってもいいし、それは裂け目であり、差異であり、対立であり、不一致である。「彼女が考えたのは接線のこと。間の場所だ」。あらゆる要素が2つかそれ以上の部分に分けられ、その分割線がそのつど可視化されるわけだ。都市がシカゴとニューヨークの2つに分けられ、移動にあたってのスーツケースが2つに分けられるように、映像は静止画と動画に、カラーとモノクロに、俯瞰と仰角に、固定ショットと移動撮影に二分される。また、さらには撮影行為自体が撮影者と被写体の2つに分けられるが、ナン・ゴールディンとヴィヴィアン・ディックが示すように撮影者と被写体はつねに交換可能なのである。
そもそもここで語られるのはひとつの統合された物語ではなく複数のエピソードだが、ここに散りばめられたひとつひとつのエピソードもまた分割されていく。たとえば、政治活動を理由に大学を解雇された女の話。彼女はその背景には性差別があると気づき、大学を訴えることにした。このエピソードは4つに分離され、離ればなれの場所に配置される。陽気なサルサに合わせて街並みを映していく路上の移動撮影の映像が毎回重ねられることで、本来はひと続きであったこの物語が切り分けられたことがわかる(4度目は、音声と映像の間に時間的な間隔までもが設けられる)。
分裂とひと口にいってもその様相は実にさまざまで、そのすべてを記述するのは限られた紙幅では難しい。私がなかでも衝撃を受けたのは、映像と音声に、イメージと言葉の間に分断がもたらされるくだりだった。2つだけ挙げる。
まずは絵葉書の束をめくっていくシークエンス。ここでは絵葉書1枚ごとにオフで音声が流れていくが、おそらくその裏面に記されたメッセージが読まれているものと思われる。1枚の絵葉書が表面と裏面に切り分けられ、それをイメージと言葉とに対応させる。またメッセージが声で読み上げられることで、言葉は観客の想像上で文字と声とに分岐することになる。
もう一つは、ビリー・ホリデイの《オール・オブ・ミー》をレコードで流すシークエンス。白人女性はレコードに針を落とすや、黒人女性の歌を口パクしてみせる。映像と音声の、身体と声の乖離がここまで見事に成し遂げられると、分裂がいかに強力なエネルギ−を放つかを誰もが認めざるをえないはずだ。まさに爆弾と形容したくなる破壊力だろう。しかも、「私のすべてを奪って」と歌うこのスタンダード・ナンバーはけっして全体の統合を希求するものではなかった。歌い手は「かつて私の心だった部分」が奪われ、すでに欠損を抱えた状態にある。「唇を取ってくれ」、「腕を取ってくれ」とせがむ彼女は、自らの身体をどんどん断片化することでその苦しみに耐えようとするのだ。
『エンプティ・スーツケース』は最後に字幕画面と静止画像とを交互に映す構成となり、完全にイメージと言葉が分離した状態で語りを展開することになる。そこに読まれる文章では、「内側の自己と外側の振る舞いとが合わない」といった分裂や、「彼は見ている彼女を見ている」といった二重性の主題がきわめて凝縮したかたちで展開される。すでに声として聞いた文句も多く含まれている。また、それに合わせて映される写真に同様の主題群が現れる——単体で表現されるものもあれば(ショーウィンドウに並ぶ2体のマネキン。それらは路上の風景を反映させたガラス越しに映っている)、モンタージュの効果によるものもある(フランス共産党への入党を呼びかけるポスター。その青年の微笑みはコカコーラの広告にあっても遜色ない爽やかさを帯びている)。そして、こうした一切合切がいくつも連鎖しながら、バーナディーン・ドーンの手配書へと向かっていくことになるのだ。なお、1980年12月、『エンプティ・スーツケース』の制作された年の暮れに、ドーンは出頭して当局に身柄を預けた。政治闘争は次の段階に移った。
私はこの文章を書きながら、書棚からふとポール・オースターの『リヴァイアサン』(1992年)を取り出し、思わず通して再読してしまった。ソフィ・カルに着想を得て、テロリズムの継承に取り組んだ小説。1945年8月6日、原爆投下とともに生まれた男の話。あらゆる要素を接続することで語りのドライブを生み出すその手腕に私はいまや関心を失っていた。
註
[1] “Interview: Karyn Kay and Bette Gordon”, BOMB, Winter 1982. https://bombmagazine.org/articles/1982/01/01/women-looking-at-other-women/
[2] Ibid.
『エンプティ・スーツケース 原題:Empty Suitcases』
1980|米国|52分
国内劇場初公開
監督:ベット・ゴードン 撮影補:デヴィッド・ワーナー
録音補:ヘレン・カプラン 脚本補:カリン・ケイ
出演:ローズマリー・ホックシールド、ロン・ヴォーター、
ヴィヴィアン・ディック、ナン・ゴールディン、
ヤニカ・ヨーダー、ジェイミー・マクブレイディ、ベット・ゴードン
声:リン・ティルマン、カリン・ケイ、アネット・ブレインデル、
ドロシー・ザイドマン、マーク・ブーン・ジュニア
still from the film “Empty Suitcases” directed by Bette Gordon
*
特集上映
「ベット・ゴードン エンプティ ニューヨーク」
上映作品
『ヴァラエティ 原題:Variety』
1983年|米国|100分|2K修復 国内劇場初公開
監督・原案:ベット・ゴードン
『エニバディズ・ウーマン 原題:Anybody’s Woman』
1981|米国|24分 国内劇場初公開
監督:ベット・ゴードン
『エンプティ・スーツケース』
11月16日(土)、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開中
公式サイト:punkte00.com/gordon-newyork/
X:x.com/gordonnewyork
インスタグラム:instagram.com/punkte00/
配給・宣伝:プンクテ
バナーイラスト:大本有希子 @ppppiyo (Instagram)