フィルムアート社は会社創立の1968年に雑誌『季刊フィルム』を刊行して以降、この50年間で540点を超える書籍(や雑誌)を世に送り出してきました。それらどの書籍も、唐突にポンっとこの世に現れたわけではもちろんありません。著者や訳者や編者の方々による膨大な思考と試行の格闘を経て、ようやくひとつの物質として、書店に、皆様の部屋の本棚に、その手のひらに収まっているのです。
本連載では幅広く本をつくることに携わる、フィルムアート社とゆかりの深い人々に、自著・他著を問わずフィルムアート社から刊行された書籍について、それにまつわる様々な回想や追想を記していただきます。第12回目は、演劇や物語創作に関する書籍を多数翻訳されている、翻訳家のシカ・マッケンジーさんにご寄稿いただきました。
次は一緒にどんなところに?
わたしが初めて買ったフィルムアート社の本は『ピナ・バウシュ 怖がらずに踊ってごらん』でした。1999年5月発売で、大阪の紀伊國屋書店梅田本店の演劇・ダンスのコーナーに平積みになっていました。
わたしはダンスなどしたこともなく、個性的な舞踏家ピナのイメージに憧れるだけの素人でしたが、その本が鋭い感性をもつ読者のためにあることはわかりました。
──わあ、すごい。こんな本が出せるなんて、どんな出版社なんだろう。
その本を大切に抱えて持ち帰り、半年もたたないうちに、ひょんなことからわたし自身が役者として舞台に立つことになりました。あの頃からわたしの運命は大きく変わり始めていたのだと思います。
わたしの初舞台の演出家はアメリカ人で、演技術のいろいろな本を勧めてくれました。そのほとんどは当時翻訳本が出ていませんでしたが、中でも重要なマイケル・ショトレフの『ザ・オーディション』やジュディス・ウェストンの『演技のインターレッスン』を後に出版したのもフィルムアート社でした。
──なんてすてきな出版社だろう。ほしいものを、なんでもわかってくれているみたい。
ですから、わたしがアメリカで演技のワークショップを撮影し、DVDと書籍を組み合わせたものを日本で発売したいと思ったとき(正確にいうと当時の夫、アメリカ人の演出家の希望だったのですが)、思い浮かんだのはフィルムアート社以外にありませんでした。
でも、日本の出版社に企画の持ち込みをした経験は、わたしにはありません。フィルムアート社のホームページを見ては緊張し、画面を閉じる。すると今度は夫から「企画の売り込みはまだか」と電話で催促される。プレッシャーに押し出されるようにして、わたしはついに企画のことをEメールに書いて送りました。
当時の編集長津田広志さんからお返事をいただき、四谷近くの喫茶店でお会いすることになりましたが、いさんで出かける直前、わたしはあることを考えてぎょっとしました。
──もし、このDVDと書籍の企画を断られたら、手ぶらで家に帰らなきゃいけないんだ!
わたしはあわててリストを書きました。「翻訳があったらいいなと思う本」の一覧で、走り書きした中にはシド・フィールドの脚本術やアレクサンダー・マッケンドリックの映画監督術の原書もありました。そのリストを見た津田さんはこうおっしゃいました。
「実はシド・フィールドの本はいま翻訳中なんですよ。マッケンドリックの本も検討中です。この中で他にあなたが翻訳するとしたら、どれがいいですか?」
わたしの答えは「ステラ・アドラーの演技術の本」でした。なぜかと問われて「一言一句覚えているほど読み込んだから」と言いました。「この本の魂をひとことで表すと何ですか」と問われ、わたしは息をのみました。
今でもあの瞬間は忘れられません。身体の奥にある感覚と、本が語る内容の記憶をたぐり寄せたものとが響き、ゆっくりと、こんな言葉が声になりました。
「すべてを明確にすることです」
DVDと書籍の企画は実現しませんでしたが、ステラ・アドラーの著書は『魂の演技レッスン22』として翻訳出版させていただくことになりました。「演劇の本はあまり売れない」という通念を覆し、幾度も版を重ねていただけるロングセラーになりました。
その後、演劇や映画の洋書を次々と翻訳させていただけたのは、わたしにとって本当にしあわせなことでした。よく友人に「一番好きな人と結婚できたみたいなものよ」と言いました。わたしにとってフィルムアート社は一人の人のように思えたのです。いろいろな人たちが集まってひとつの人格を作っているような感じです。
その感覚をわたしが最も強く感じるのは洋書を見つくろい、新しい訳書の企画として提案させていただくとき。それは愛する伴侶とウィンドウショッピングをする感覚とそっくりでした。
──ねえ、このスーツはどうかしら。きっと、あなたに似合うわ。
いろいろな洋書を読みながら、わたしは本当にそんな言葉を心でつぶやいていたのです。
このつぶやきは驚くようなシンクロニシティを生むときもありました。家で料理をしていてふと「中原昌也さんのCDブックが出ればいいのに」と思ったことを話すと、営業部の津村エミさんがびっくりしたような表情をなさって「出ます」と。当時もう発売が決まっていた、その『IQ84以下!』はいまもわたしの宝物です。
翻訳者としてのわたしの「しあわせな結婚生活」は今年で十年になります。その間に会社は恵比寿のおしゃれなビルに移転し、書籍のラインナップも多角的になり、「動く出版社」のキャッチフレーズのとおりにますますダイナミックな出版社になりました。若い力とインテリジェンス、独自の視点や意外性に敬服するほど、わたしはちょっぴり気後れもしていたかもしれません。
──もうわたしがお洋服を選ばなくてもいいみたいね。あなたはとてもパワフルだもの。
このかすかで複雑な思いもまた、まるで夫婦や友人どうしの間で生まれ得る感情のようでした。
そんなとき、「この本を翻訳してみませんか」とお誘いいただいたのが『工学的ストーリー創作入門』でした。それまでのわたしの訳書ほとんどみなわたしから提案させていただいたものでしたから、結婚のたとえでいえば十年目にして初めて「彼」がこう言ってくれたのです。
──ぼくのワードローブに合う上着を見つけたよ。きみに手伝ってほしいんだ。
わたしの中に、忘れかけていた以心伝心のような感覚とときめきがゆっくりと甦ってきました。もしよければ、もし、「彼」さえよければのおはなしですが、わたしはこんな言葉を心でつぶやいていたいと思います。
「ねえ、次は一緒に、どんなところへ行きましょうか?」
魂の演技レッスン22 輝く俳優になりなさい!
ステラ・アドラー=著 シカ・マッケンジー=訳
A5版・並製|312頁|本体2,300+税|ISBN 978-4-8459-0928-5
工学的ストーリー創作入門 売れる物語を書くために必要な6つの要素
ラリー・ブルックス=著 シカ・マッケンジー=訳
A5版・並製|328頁|定価2,100円+税|ISBN 978-4-8459-1722-8