京都を拠点に活動する美術作家・批評家の池田剛介さんによる、20世紀の絵画の「描線(ドローイング)」をテーマにした新連載。作品に描かれた「動き」や「身振り」としての線に注目することで、「これまで見えていなかった作品の姿」を明らかします。第一回は、東京都美術館で開催中の「マティス展」も話題のアンリ・マティスを取り上げます。
「紙片の上をたどる私の鉛筆の道のりは、暗闇のなかをまさぐり進む人間の動作とどこか似ているところがある。つまり、私の行路は全く予想されたものではない。私は導かれるのであって、私が導くのではない」[1]。
線を導くのではなく線によって導かれること──マティスにとって線を引くことは、画家が思うままにその構想を実現するということでは決してなく、目の前の対象によって灯される感覚を辿りながら暗闇のなかを進むような道行きだった。
アンリ・マティスは1869年にフランスで生まれ、20世紀の幕開けから間もない1905年に、荒々しい筆触と鮮烈な色彩による野獣派=フォーヴィスムの旗手として、ドランやヴラマンクらとともにサロンを震撼させた。だがフォーヴィスムによる革新後にも、長くそのスタイルにとどまることはなく独自の絵画の探求を進め、とりわけその大胆な色彩と、アラベスクと呼ばれる唐草模様の曲線によって、20世紀を代表する画家として知られることとなる。
色彩と曲線
マティスの特徴は、同じく20世紀を代表する画家パブロ・ピカソとの対比において、より明らかになるだろう。その生涯を通じて、たえず観る者を挑発するような実験を繰り広げるピカソに対して、より感覚的な快を追求したマティス。力強いフォルムによる露骨に男性的なピカソに対して、曲線のリズムと鮮やかな色彩による女性的なマティス──二人の画家は、しばしばそのような対極的な存在として捉えられてきた[2]。
難解さのピカソに対して平明であるとも評されてきたマティスだが、しかしそうした評価はマティス自身が警戒したものでもある。一見したところの平明さに反して、マティスの作品は習作から完成へと向かう一本道とは全く異なる、入り組んだ紆余曲折のプロセスを経て制作されていることで知られている[3]。
鮮烈な色彩とめくるめく曲線というマティスの特徴を見ていく上で、1908年に描かれた《赤のハーモニー》を辿ってみよう(図1、2)。フォーヴィスムに典型的に見られる荒い筆致はすでに息をひそめ、より平坦な塗りによる赤の色面が印象的な絵画である。
この作品で見る者がまず目を向ける場所はどこだろうか。絵画を見る上での決まった順序はないが、そのなかに人物が描かれているとき、まずそこに注意を向けるのは不自然なことではないだろう。画面右手では給仕する女性がテーブルの上の舞台を整えている。二脚の空席の椅子は、これからやってくる誰かを待っているのだろうか。食卓には果物や花が散りばめられ、天板を華やかに活気づけている。
画面下方に目をやると、青い蔦状の曲線がテーブルの上面に向かってうねるように生え出しており、その横には小さな曲線が絡まり合ってできた青の花篭が描かれている。これらは食卓の上に置かれている物体には見えないが、テーブルクロスの模様とみなすことにもまた戸惑いを覚える[4]。というのも、これらはテーブルの上の事物に対する「背景」にとどまることなく、それらと同等か、あるいはそれ以上の存在感で描かれているからだ。青の曲線的なパターンは、食卓のみならず部屋の壁面にまで、その反復的な模様を展開していく。そうして青の曲線が室内を満たしながら、テーブルの上の事物を渦状のアラベスク模様へと巻き込んでいく(図3)。
青い曲線の連鎖は室内に留まらず、やがて室外にまでその形態的な感染を広げていく。画面左上では窓が大きく開かれており、青系統の色で満たされた矩形には木々が踊るようにその形をくねらせている。注目すべきは、窓の外の二本の木々と室内の模様とが、形態的な韻を踏んでいることだ(図4)。右側の木の幹は隣接する模様と強く連動する(a)。そうして近接した形態の連鎖に気づいた観者は、隔たった場所にもまた同様の韻を発見することになるだろう。左側の小さな樹木もまた、テーブル手前の曲線と強く呼応関係を結んでいる(b)。
こうしてテーブルクロスに由来する曲線の連鎖は、画面全域へとそのパターンを拡散させており、この意味でタイトルによって示される、ある種の「ハーモニー」としての全体性がもたらされているともいえる。だが同時にこの作品には、ハーモニーという言葉が喚起する調和性に収まらない、どこか統一性を欠いてバラバラな、離散的な印象を与えないだろうか。
赤の分離作用
ところで、この作品を印象づける赤の色面は、そもそもブルーグリーンで描かれていたことが、制作途中のカラー写真によって知られている[5]。この作品での給仕や果物といった、絵画において目に見える形態的要素を示す「図(figure)」に対して、この作品での赤のような背景的な面は「地(ground)」と呼ばれる。元々は青系統で進められていた作品の「地」が最終段階で赤へと変換される、ここにこの作品の制作プロセスにおける跳躍がある。
一般に「調和」という言葉は、様々な要素が矛盾や破綻のない仕方で混じり合うことを指す。ブルーグリーンが背景に使われていた時点でのカラー写真を見ると、窓の外を含む画面全体が青系統で統一された上で、テーブル上の花や果物が黄色や赤といった暖色によるアクセントを加えており、赤い背景に塗り直される以前の状態の方が「調和」という言葉の印象に適っているとさえいえるだろう(図5)。
これに対して、赤の背景へと変貌をとげたこの作品において、テーブルクロスや壁面のパターン、給仕やテーブルの上の事物といった諸要素は、強い赤の「地」によって浮き彫りにされており、極端なまでに際立った輪郭を伴いながら、それぞれの存在の個別性を際立たせることになる。この意味で赤の地は絵画内の様々な「図」を相互に切り離すような作用をもっており、このことが「調和」という言葉に収まらない離散的な感覚をもたらしている。
こうした分離的な赤の作用と連動する仕方で、マティスはとりわけ人物とその周辺に、興味深い修正を加えている。3点確認しよう(図6)。女性の頬の丸みを落としながら頭部をやや上に持ち上げ(a)、さらに右腕と椅子の境界を掻き落としながら人物の輪郭を強めている(b)。そして最も大きな変化は、かつては右手首のあたりまで伸びていた青の曲線が、赤の色面によって女性の手前で塗り込められている点である(c)。
これら3点の修正は、いずれも人物の存在を強くする操作といえるが、とりわけ3つ目の曲線の断ち落としは本作の成立において重要である。というのも、曲線が人物の手前で切り落とされることで、全面化していく曲線のパターンに巻き込まれすぎることから人物の輪郭を守りながら、その存在の個別性を際立たせているからである。だがそれだけではない。テーブルクロスの曲線は画面全域に、その形態的なパターンを響かせているが、赤に塗り変えられる以前の状態では、このアラベスクは人物の右腕をブリッジとしながら、背後の壁面の曲線にまでつながって感じられただろう(図7)。青の曲線が画面を「調和」的な一体性へと強く巻き込んでいく一方で、赤の色面は画面全体が曲線のパターンによって同期しすぎることからの分離をもたらすのである。
こうして「調和」的な全体性を撹乱させる赤の作用が明らかになるだろう。画面はその曲線がもたらす渦を巻くような流れによって全体化していきながら、にもかかわらず赤の色面は画面上の諸存在を切り離し、その個別性を際立たせてもいる。こうした曲線と色面の拮抗によって、華やかな食卓、その一見したところの「調和」は密かに撹乱されているのである。
赤の全面化と虚実の反転
ところでマティスの色彩の力を考える上で、塗り変えられた色面が、他でもない「赤」であることは重要である。経験的に知られているように、赤は私たちの感覚にとりわけ強く与えられる色であり、だからこそ信号や標識など、とりわけ警戒的な場面で用いられる。
この理由として色彩の波長の長さといった物理的な要因、また血の色に危険を感じるという人間に刻まれた生物的な要因を挙げることも可能だろう。なんにせよ私たちの目に強く飛び込んでくる鮮やかな赤が、あろうことか絵のなかの諸要素に対する「地」として用いられていること、ここにマティスの挑戦がある。というのも背景に赤を用いてしまっては、色がそれ自体として迫り出し、「背景」として退くことがないからだ。マティスはその画業の重要な局面で幾度か、この赤の背景に立ち返ることになる。
《赤のハーモニー》を完成させた翌年の1909年、マティスはパリ近郊のイシー゠レ゠ムリノーへ転居し、巨大な作品に取り組むためのアトリエを増設している。1911年に描かれた見る者の視線を覆うほどの大画面による《赤いアトリエ》は、先に見た赤の力をさらに大きく拡張した作品といえる(図8)。
《赤のハーモニー》で左上に開かれていた外界への開口部は、ここではマティス自身が描いた絵画となり、大きなアトリエの空間には窓=絵画が複数掛けられている。先の作品にも見られた、見る者の視線をあちこちに散らすような離散性は、この作品にも確認することができる。
ところで、こうした造形的な観点とは別に、この作品に対して「現代的」な観点から問いを投げかけることも可能だろう。先に述べたようにしばしば「女性的」とみなされてきたマティスの作品だが、例えば《赤のハーモニー》に見られる食卓を整える給仕の女性の姿に、当時のジェンダー規範の反映を読み取ることは、さほど難しいことではない。
フェミニズム的な観点からの美術史を唱えるキャロル・ダンカンは、マティスを含む近代の前衛のなかに見られる男性優位の思想を指摘しながら、《赤いアトリエ》について次のようにいう。画中に描かれている絵画の多くは女性のヌードであり、その中央部には「この上なく頑強で「男性的な」人物像」が描かれており、その脇には「この作品に垂直線をもたらしている背の高い、男根を象徴する大時計が立っている」[6]。
その表面上の女性性に反して、実のところマティスは女性のイメージを従える仕方で、画面中央に男性的なシンボルを屹立させているのではないか──こうした問題提起は近代芸術の男性中心主義を問いなおす上で、重要なものであることは言を俟たない。この指摘に鋭さが感じられるのは、画面中央の垂直線に見る者の注意を促している点である。というのも、この時計は作品の中心にありながら、ほとんど赤い壁面のなかに消え入るような存在となっているからである。
細部を写した図版も参考にしながら、この部分を辿ってみよう(図9、10、11)。そうすると、「消え入る」というのが単なる比喩ではないことがわかる。画面中央の時計の形をなす白い線は、それとして描かれたものではない。というのも白の輪郭は、その周囲、そして内側から赤い色面を塗り込められることによって浮かび上がる、いわば実体を欠いた線だからである。この白い線を浮かび上がらせる赤の色面は、いかに描かれたのだろうか。
実のところ先に見た《赤のハーモニー》と同様に、この作品においても最終段階で作品の大部分が赤の色面へと塗り変えられている可能性が指摘されてきた。近年の調査では、エックス線や赤外線を用いた検証、またクロス・セクションと呼ばれる、作品のごくわずかな一部をサンプルとしながら絵具がどのような層をなしているのかを検証する分析が行われている。こうした調査を通じて、赤く塗りこめられる以前の段階では、壁面は青、床はピンク、そして家具は黄土色で描かれていたことが指摘されている[7]。
この指摘を念頭に置きながらエックス線写真を見てみると、赤の色面によって覆われる以前には、時計は画面中央において、その存在をはっきりと示していたことが分かるだろう(図12)。時計のみならず、その隣の家具も含め、周辺の画中画と少なくとも同等か、あるいはそれ以上の存在感で、画面の中心部を形成していたことが確認できる。ここから赤い色面へと描きなおされることで、いったい何が起きているのだろうか。
赤い色面によってその輪郭のみを残して内側と外とが塗り込められることにより、アトリエ内の時計や家具といった事物は、その存在感を限りなく希薄化させていく。その一方で、画中画というアトリエ空間に属すことのない別の時空が描かれた平面は塗り込められることなく、赤い色面によってその存在を浮き彫りにされる。こうして実体のある事物は周囲に消え入るような幽霊的な存在となり、周縁に散りばめられたフィクションとしての絵画こそが、強い実在感をもって際立つことになる。ここで行われているのは絵画空間における虚実の反転に他ならない。
制作のプロセスを通じて見えてくるもの、それは中心的な存在によって周辺のイメージを従えるという固定化された構造ではなく、中心と周縁、あるいは実体と虚構という構造の反転であり、反転を通じた撹乱である。赤い色面への転回を通じて現れるのは、周辺にある画中画の存在こそを際立たせながら、中心に位置する事物を徹底的に脱中心化しようとする画家の姿といえるのではないだろうか。
こうして色彩の力を拡張しながら絵画空間を撹乱していくかのような実験を推し進めていくマティスだが、その数年後にはその作業場をイシーから再びパリへと移すことになる。そこで行われるのは、ここで見てきたような曲線や色面といったマティス自身の特徴と相反するかのような新たな実験だった。1914年、第一次大戦の開戦の年である。
【注】
[1] アンリ・マティス『マティス 画家のノート』二見史郎訳、みすず書房、1978年、189頁。強調は引用者。
[2] イヴ゠アラン・ボア『マチスとピカソ』宮下規久朗監訳、関直子、田平麻子訳、日本経済新聞社、2000年、23–24頁。ボアはこうした対立を二極的なものではなく、チェスのような時間性を孕んだ動的なモデルとして捉えている。
[3] 1945年に開催された個展では作品を取り囲むように制作プロセスを記録した写真を配する「教育的展覧会」を構成した。次の文献に詳しい。天野知香「マーグ画廊におけるマティス展覧会1945年12月7日–12月29日」『マティス展』国立西洋美術館、2004年、128–133頁。また平倉圭は、ここで展示されたプロセス写真に基づく詳細な作品分析を行なっている。「マティスの布置──一九四五年マーグ画廊展示における複数の時間」『かたちは思考する──芸術制作の分析』東京大学出版会、2019年、81–95頁。
[4] マティスは「トワル・ド・ジュイ」と呼ばれる花籠と曲線の模様の入った布を所有していたことが知られている。マティスとテキスタイルの関係については次の文献に詳しい。Matisse, His Art and His Textile: The Fabric of Dreams, Royal Academy Publications, 2004.
[5] Jack Fram, Matisse: The Man and His Art, 1869–1918, Cornell University Press, 1986, pp.230–231. ジャック・フラムは、ブルーグリーンだった状態から赤への変更に際して、マティスが加えた最も大きな変化について、女性の体を前へと突き出し、テーブルクロスや壁面のパターンとのリズムを強くした点を指摘している。だがより明白な変化は、後述するように青の曲線が女性の手前で大きく塗りつぶされている点だろう。
[6] キャロル・ダンカン「男らしさと男性優位──二十世紀初頭の前衛絵画」、ノーマ・ブルード、メアリー・D・ガラード編著『美術とフェミニズム──反駁された女性イメージ』坂上桂子訳、PARCO PICTURE BACKS、1983年、214頁。
[7] Matisse THE RED STUDIO, The Museum of Modern Art, New York, 2022, pp.188–208. また、こうした技術を通じたマティス作品の保存修復をめぐる状況については次の文献に詳しい。田口かおり「アンリ・マティス作品と保存修復」『ユリイカ』第53巻第5号、青土社、2021年、112–120頁。
【画像出典】
1, 8,11-12:Matisse THE RED STUDIO, The Museum of Modern Art, New York, 2022
5:Jack Fram, Matisse: The Man and His Art, 1869–1918, Cornell University Press, 1986
*第一回 導かれる線──アンリ・マティス【後篇】は8月25日(金)18時に更新予定です